2011年12月30日金曜日

師走三十日 師でなくとも走る

ながらくサボっていた。

11月末が論文の締め切り、12月は土日も休み抜きという修羅場だったため、書く気になれなかった。


今回の論文は実に手こずらせられた。
両広塩運司の管轄で行われた塩政について行った分析を、中国全土に広げて同じ手法を適用する。
面倒ではあろうが、基本的に頭をつかうことはあるまいと考えていたのだが、ここまで面倒になるとは思わなかった。
広大な中国において、社会や経済の状況が全く異なることから、各塩運司において行われた塩制は大きく異なる。わざわざ両広塩運司の塩政を明代から民国初期まで検討したのは、とりあえず流れをつかむためでもあったのだが、普通使われるような各時代の特徴的な地域を取り上げ、というスタイルでは、地域における差異が見えなくなるのではないかと考えたためだ。
とはいえ、塩引を用いた専売制という基本形は同じなので、塩引数と塩引1道あたりで販売可能な塩の量の積から各時期・各地域の官塩流通量を求め、人口数から求められる塩需要量とを比較して、私塩の状況を把握することはできるはずである。

まぁ、実際できたわけだが、かなり面倒だったし、また精度にもいささか難が出た。
まず、塩引数の変遷について、正確に史料に記載されているとは限らななかった。何年にどういう変更が行われたのか、概ねのところはわかるのだが、表計算ソフトに変化量を入力していくと、どうしても一致しなかったりする。つまり、記載漏れがあるわけである。また、恒久的な塩引数の変化なのか、一時的な措置なのか、曖昧な部分もあったりして、勘定に入れるべきかどうか悩むところなんかもあった。
とはいえ、おおよその動きはつかめた。問題は塩斤数の方で、こいつについては、塩引数についての項目に載せられている塩運司とそうでないところとがある。載っているヤツについてはいいのだが、載っていないのについてはどうするか。いや、載っていないわけではなく、別のところに断片的に載せられているというべきか。
そんなわけで、人文研を往復してコピーしまくり。金がかかって仕方ないし、いつでも行けるというほど優雅な身分でもないので、伸びに伸びることになった。

こうした情報を苦労してまとめ、表に起こし、分析してグラフにして、と作業を行った結果、なんとか形になった。数字ばかり扱っていたので、文字についてはあまり記憶が残っていない。人文科学の論文とは思えないものになったような気がする。

で、分量だけは多くなり、時間は足りなくなったため、塩税額についての検討は次の論文で扱うことにした。
いま、その準備を始めているところだが、難易度は更に高くなっている。うまくいくのかどうかも分からない。
ま、手持ちの材料を整理して、その上で料理法を考えればいいのだから、今焦る必要はない。1月は忙しいが、それ以降は暇ができるので、春までにはある程度見通せるようにしておきたい。

2011年10月14日金曜日

神無月十四日 ドリフターズ

ドリフターズの2巻が届いたので、読んでみた。

感想(三行で)

何やってんだチョビ髭

レ元帥が某アニメのおかげでアレな感じに。

早く3巻出ねぇかなぁ。

2011年10月1日土曜日

神無月朔日 Kindle Fire

Kindle Fireのリリースが発表された。

Kindleの後継が出るとしたら、カラーのE-inkを使ったものになるだろうと思っていた僕にとって、タブレットとは予想外の展開である。
約200ドルというから、日本円で1.5万円。昨年、僕が買ったKindle3(3G版)と似たような価格である。
ちなみにこちらはKindle Keyboardと名前を変え、140ドルに値下げされた。

もともと僕がKindleを買った理由は、部屋にある大量の本を処分するためだった。文庫本や新書を読むにはこちらぐらいがちょうどいい。ちなみにディスプレイサイズは6インチである。
A5サイズやB5サイズになると、iPadかKindle DX(9.7インチ)ぐらいはほしい。その意味で、7インチのKindle Fireは、こちらの求めるサイズではない。
が、何せ安いし。おもちゃとしてはほしいところである。
まぁ、よくよく考えてみると、持ち歩く場所がないか。そういう場所だと、素直にKindle使ってるし。

少し悩ましいが、しばらく様子見しておこう。

2011年9月24日土曜日

長月二十四日 ワインとトウモロコシ

今、ヒュー・ジョンソンというイギリス人の書いた『ワイン物語』(平凡社ライブラリー)という本を読んでいる。
タイトルのとおり、ワインの歴史を叙述的に述べた読みやすい本で、現在、ローマ時代にさしかかっている。
ところで、読んでいると気になる描写があった。

「同じ形のアンフォラが時として、ワインにも油にもトウモロコシにも使われた。」(上巻136頁)
「しかし、本当はトウモロコシの供給の方が心配だったという説も、同じくらい説得力を持っている。ブドウの木がトウモロコシ畑を侵蝕していたからである。」(同139-140頁)

はて、トウモロコシ? これは大航海時代にアメリカ大陸からヨーロッパに渡ってきた産物ではなかったっけ?
Wikipediaの記事によると、確かにコロンブスの時代にヨーロッパに持ち帰られたようである。
同じ記事を読んでいて思ったのだが、

コーン (corn) ともいう。英語圏ではこの語は本来穀物全般を指したが、現在の北米・オーストラリアなどの多くの国では、特に断らなければトウモロコシを指す。ただし、イギリスではトウモロコシを メイズ(maize) と呼び、穀物全般を指して コーン(corn) と呼ぶことがある。

とある。著者がイギリス人なので、原文が穀類一般(特に小麦)を示すつもりで"corn"としていたのを、訳者がトウモロコシの歴史について知らないために、「トウモロコシ」と訳したのではなかろうか。

つまるところは、よくある間違いということになるのだろうが、個人的にも心しておきたいところである。
「パンとサーカス」という言葉があるぐらいだから、ローマ時代にパンがあったことは間違いあるまい。そのパンと今のパンは違うだろということになるかもしれないが、キリスト教の聖餐だってパン(ただし酵母抜きのビスケットみたいなやつ)なのだから、トウモロコシパンではイメージがつきにくい。やはり小麦だろう。

2011年9月6日火曜日

長月九日 夏合宿

少し前のことになるが、日・月と古巣の大学の恒例となったゼミ合宿に行ってきた。
おりしも台風が直撃する感じだったのでどうなるかと思っていたが、ぎりぎり回避。それでも1日中雨だったが。

6人が発表したが、内容はいまふたつな感じだった。
1章2章と書いてくるのはいいのだが、すべて概説。どこかの研究書か論文の内容をそのまままとめてきたようなものであり、無論必要な作業ではあるが、これでは本論にならない。
西洋史の発表なのに、外国語文献がまったく登場しないのも大きく減点される。院生相手ではなしバリバリ使ってこいとまでは言わないが、一つ二つはほしいところである。
通常、先行研究の調査において日本語の研究内容を抑えてから外国語の文献に当たるものなので、言い方を変えると、ろくに日本語の研究すら抑え切れていないということである。
実際、参考文献として挙げられた論文数も、きわめて貧弱である。「このテーマでその数はないだろ」と言いたくなるのは、まぁ繰り返されてきた光景ではあるのだが。

後で先生と話していると、今年のメンツは、いわゆる「ゆとり世代」の絶頂期の産物らしく、どうにもならないらしい。
具体的には、向上心の類がまるでなく、先生が煽っても暖簾に腕押し状態になるそうである。例年だと、ひとりぐらいはそこそこ出来るのがいて、それをライバル視しながら進んでいくという展開になるし、また先生もそうなるように煽るわけだが、低いレヴェルで満足してしまうと、伸びないわけである。強く言っても、まるで堪えないときたものである。「ナンバーワンよりオンリーワン」なんて言っていたつけが、このモチベーションの低さにつながるわけである。
昨年に卒論を落とされて留年したのがいて、それが絶望的にひどいらしい。指導を聞かないどころか、Wikipediaまる写し(そのままコピペなので、語調から何からまるで統一がない)、参考文献は新書一冊というレジェンダリークラスのクズっぷりで、指導している先生が激怒しているそうな。まじめな人だからなぁ。
僕なら容赦なく落とすけど。学費はすでに4年分(今年を入れると5年分)もらっているので、退学されたところで痛くもないだろうし。まぁ、そのあたりは完全に他人事として考えられる僕と、指導する義務を負っている先生方との立場の違いだろう。

だいたい、ダメな世代の次はそこそこいける世代になるのが通例らしく、現在の3回生はまだしもマシらしい。こういう感想は、ほとんどの場合当を得ているものなんだけど、「ダメな世代」に繰りこまれる人間は、面白くないだろうなぁ。「団塊世代」とかのラベル貼りも同じだと思うけど、一定の事実を示しているだけに、「俺を一緒にするな」と思いたくなるものであろう。

まぁ、彼らの成果を聞くのは卒論提出の打ち上げの時になると思うが、先行研究の調査も不充分で、章建てすら出来ていない状態から、どの程度まで持ち直せるのか、聞いて……みたいようなみたくないような。

長月六日 PC新調

先月はすっかりサボっていた。
何も起こらなかったというわけでは無論ないのだが、書こうとする気にならなかった。
それでさして困らないという気もするので、つまりはやはり、さしたる出来事はなかったのだろう。

で、懸案となっていたPCを新調した。古いほうのPCはよく働いてくれたのだが、丸四年を経て、さすがにくたびれてきた。特に排熱関係は宜しくなく、ファンなどの駆動系がヘタれてくるのは仕方のないことである。
冷却が悪くなると、急速に寿命が縮む。壊れてから交換するのは良くないので、壊れそうなぐらいで交換するべきであろう。
ついでに、最近のゲーム(Vic2とかM&BのF&Aとか)も動かすのがしんどくなってきた。その意味でも頃合いであろう。

i7に8Gのメモリを搭載し、手頃なグラフィックカードと安物のサウンドカードを突っ込み、いい機会なので地デジカードも差しこんでおいた。OSは7の64モード。自分で組むのは面倒なので、BTOで任せたところ、約12万円也。安くはないが、まぁ仕方のないところである。

で、面倒なのがデータの引っ越しである。最初はクロスケーブルを使って直接渡そうかと思ったが、意外に面倒なのでLANケーブルをもう一本買ってきてルータにつなげ、一時的に家庭内LANを構築することにした。
これも、XPと7とでは意外に面倒だった。7同士は簡単らしいが、XP相手になると、IPを固定するだけでなく、グループ名も統一しなければならない。わかっていればどうということはないが、僕みたいな素人にはなかなか面倒だった。
で、当り前ではあるが、転送速度はHD内の移動に比べて大幅に落ちる。最低限必要なデータだけとか思っていたが、やはりゲーム類は、可能なものならまとめてコピーした方が楽である。
僕の場合、大半が洋ゲーのDL販売なので、CDとかの問題はほとんどない。というか、まったくないのでCDプレイヤーを使わず、おかげでプレイヤーがいつの間にか死んでいた。
まぁ、これについては暇な時にぼちぼちやるしかない。これがすむまでデュアルディスプレイ環境に戻れないのがつらいし、仮ケーブルを接続しているので不安定な置き方になり、先日などはそのためにPC本体が前のめりに倒れてしまい、フロント部分に差し込んでいた買ったばかりのUSBメモリがお釈迦になるなどという悲劇も起きているので、なるべく早く片付けたいところである。

2011年7月18日月曜日

文月十八日 SH3:北海に死す

論文が進まない進まないと言いながら、この連休はゲームばかりしていた。
ひとつはDHのTRPや日本語化版テストプレーなので、まだしも(僕基準)なのだが、もうひとつは、先日GGで安売りされていたSilent Hunter3だったという次第である。ついでにSH4とSH5も買ったのだが、まだインストもしていない。
このゲーム、6年も前のものなのだが、今やっても楽しい、らしい。ニコニコのリプレイ動画が面白かったので、やりたいとは思っていたのだ。
洋ゲーらしく、リアリティ炸裂なゲームであるが、おかげで難しい。中でも一番の難関といえる魚雷発射時の諸元入力は、AIに任せることにした。まぁ、本来、水雷長か先任あたりの仕事だし。
チュートリアルをクリアし、II型で小手調べをしたところで、本命のVIIB型に乗り換えて北海へ。

しばらくやれば、色々と身体で分かってくるというあたりも洋ゲーである。
接触信管の不発角度とか、頭では分かっていたことを、身体で覚えるまでには、やはり数回雷撃を行ってみるのが良い。
というわけで、良い感じにコツが掴めてきたあたりでCTD。
MODも入れていないのにこの所行。やはり洋ゲーである。
セーブしておけば良かったのだが、つい夢中になる。しかも、あらかた魚雷を撃ち尽くして、そろそろ帰るか、というところで落ちるので始末が悪い。
2度同じ落ち方をして、イライラしたところで3度目。今度はちゃんとセーブして、と。
すると、独航船ではなく、船団を発見した。39年なので、まだ護衛はない。蹂躙しまくりである。
魚雷はおろか艦砲まで撃ち尽くし、中立国船を除けば(1隻沈めてしまったのだが)1隻を残して全滅させ、さてヴィルヘルムハーフェンに帰るかと、プロットして時間を進めると、最後に沈めた船に衝突してゲームオーバー。
上手いこと落とされた感じである。

誰に怒るわけにも行かないあたりが泣けてくる話であった。

2011年7月16日土曜日

文月十六日 档案問題

なかなか研究が進まず、少し焦りだしてきている。

なぜ進まないのかは、ひとつには単純で、コツコツとした作業を行っていないためである。
全く何もしていないわけではないのだが、もう少し努力してもいいところである。
また、ある程度作業を進めてきて気がついたが、史料不足の部分があり、また人文研に行かなければならない。このくそ熱い中をあそこまでチャリ漕いで行かなければならないのかと思うとげんなりするが、少なくともお盆休みまでには行っておく必要がある。

もうひとつは、まだ先の話だが、一部の史料については、第一档案館にしかないようで、そこまで行くか、なんとかして史料を手に入れなければならないかもしれない。

研究の骨子は、清代中期以降、官塩の供給量を需要に対応させることを放棄したという事実、そして清代後期に財政的必要性が増した時には、塩の供給量を増やすのではなく、塩税税率を高めることでそれに対応しようとしたという事実を指摘し、その原因として、前者については当時の清朝にはその動機がなかったこと、後者については財政構造上の必然であったと主張するというものである。

基本的な枠組みとしてはそれで充分であると考えているのだが、動機がなかったという否定証明、また財政構造を説くにせよ、いささか説得力に欠ける憾みがあるという気もしている。
そこで、塩政の意思決定の過程を改めて検討しておく必要性を感じているのだが、そのためには一次史料である塩務関係の档案類を見なければならないという気がしつつあるのである。
日本で見られたらいいのだが、あいにくと完全な形での発表は行われておらず、また塩政関係に限るとはいえ、かなりの量に上ることから、直接現地に赴くにせよ、あるいは史料のコピーの郵送が可能であるにせよ、相応のカネがかかりそうな感じである。
目指す史料が「当たり」であるとの目処が、ある程度であれ立つのであれば、そして充分な時間がとれるのであれば、何らかの助成金を求めるなどの方策を取ろうとも思えるのだろうが、そこまでの確証も得られない。
この問題については、さしあたり宮中档を使うしかないだろう。どの程度当たりがあるかどうかは不明だし、一番のかなめである乾隆年間のそれが、大学にはないという無様な状態なので、それこそ京大の文学部あたりに足しげく通わなくてはならないかもしれない。

いずれにせよ、今回の論文の締め切りまでにこの問題を解決することは、時間的に不可能である。
本来ならば、一度ここで研究を中止し、こちらを片づけてから改めて現在のテーマに戻るべきであろう。
が、それも時間的に不可能なので、とりあえず不充分なかたちであるにせよ、今回の論文を片づけ、その上でこの問題に取り掛かるべきということになるだろう。

なかなかに気分が重い。

2011年7月9日土曜日

文月九日 『グローバル化と銀』

久しぶりに読書感想文。

デニス・フリン『グローバル化と銀』山川出版社, 2010.5

世界史理論というと難しげな感じであり、実際難しいことも多いのだが、その最先端の一派というか主張についての本である。
難しげな話とは書いたが、この本は3つの講演を文字に起こしたものが基本であり、その意味では非常に読みやすい。難しげな部分についても、編者による解説が最初についているので、まぁ大体の予備知識は仕入れられるはず。

「グローバル化は1571年に始まった―新大陸銀とマニラ・ガレオン」
ここでは、グローバル化という、皆が好んで使う割に正体不明な概念について、論者なりの定義を行い、解説している。簡単にいえば、グローバル化とは世界中の主要な経済圏が強く連結した状態を指し、それが始まったのは、1571年にスペインがマニラに拠点を設け、銀という商品(通貨に非ず)をアメリカや日本から中国へもたらすようになった時である、ということになる。
日本の学界では、それほど違和感のない考え方だと思うのだが、環大西洋経済圏などヨーロッパ優位の考え方が主流だったヨーロッパでは、議論のあるところなのだろう。
これまで対中貿易の通貨として扱われてきた銀を、単純な通貨ではなく商品として考えるべきだと強調したことは、言われてみればもっともな考え方である。金銀比価が高く、また銀の需要も大きかった中国は、金を輸出して銀を輸入する動機があったわけであり、金銀比価が世界市場と同程度にまで落ち着いた17世紀半ばになると、この動きはひと段落するわけである(18世紀に始まる次の銀輸入シーズンについては、また別の話となる)。

「徳川幕府とスペイン・ハプスブルク帝国―グローバルな舞台での二つの銀帝国」
ここでは、中国に対する銀の輸出国だった日本と、アメリカ銀を握っていたスペインについて述べている。
双方とも対中貿易で莫大な利益を挙げたわけだが、スペインがヨーロッパにおいて盛んに行うようになった軍事活動の財源としたのに対し、日本は統一後、対外拡張政策を放棄し、軍事費ではなく国内の経済・社会基盤の整備に投資するようになった。
中国の銀需要が低下し銀が売れなくなると、スペインは破産したのに対し、日本はその後の経済発展の準備を進めることになる。
面白いのは、従来スペインはアメリカ銀の流入により資本主義的な意味での近代化を進めていったとされてきたのに対し、ここでは、スペインはその銀を経済的発展どころか、イギリスやオランダが進めようとしていた近代化を阻害するために用いたとしていることであろう。

「貨幣と発展なき成長―明朝中国の場合」
ここでは、莫大な量の銀を飲み込んでいった中国について述べられている。
紙幣制度の維持に失敗した明朝は、民間側の需要が先導する形で銀遣いが一般化しつつあったのだが、銀が事実上の通貨となることで、その需要が一気に拡大した。
政府による銀の消費は、主に政府機能が置かれ、軍事行動が展開されていた北方においてであったため、銀が流入してくる東南部においては、常に銀の需要が高かった。
このような需要の拡大に対し、銀の大量供給が可能だったことから、さらに需要が拡大するといった形で中国の銀遣いは拡大することになり、明代後期以降の経済成長がもたらされたということになる。
さて、この経済成長は、経済発展ではないというのが論者の主張である。つまり、経済規模は拡大したのだが、銀というそれ自体価値のある商品に対し、価値ある対価を支払い続けたことにより、相応の富が流出したのだという。ヨーロッパにおける重金主義と重商主義の対立などを引き合いに出しながら、中国の経済規模の拡大が、見た目ほどには質的な発展をもたらさなかったと説くのである。

この量的成長と質的発展の違いについては、近年よく引き合いに出されるアンガス・マディソンの研究などで強調されているが、近世において世界最大の経済大国だった中国が、近代になって大きく凋落した原因を表すキーワードとして注目されている。
この論点の説得性は、数量面からの詳細なリサーチが可能かどうかにかかっているのだが、清代以降はともかく明代については難しいことも多い。統計史料そのものはいろいろと残っているのだが、信頼性に欠けるのだ。
それでも、慎重な吟味を行うのであれば、様々な史料を利用することは可能だろうし、今後も研究が進められていくのではなかろうか。
その上で、本書で提示されたモデルが妥当なのかどうかといった議論が、今後も一層深められていくことであろう。

残念なのは、日本においてこの手の議論はあまり活発ではないように思われる点だ。重箱の隅をつつくような研究手法について、その限界性を説く人は昔から多数いるのだが、相変わらず大きくは変わっていないような気もする。阪大などを中心に、少しずつ変わっていっているというところだろうか。
この分野で発表される研究も欧文のものが多く、日本語で読めるものはあまりない。そういえば、ポメランツの"The Great Divergence"も、相変わらず未翻訳のままみたいだ。英語版を読むしかないのかな。買ってはいるんだけど。

2011年6月11日土曜日

塩引数変遷についての研究見通し

相も変わらず「遅々として進む」感じで作業を続けている。各行塩地の塩引数の変遷を辿るという「1-1」ステージは、もうじき終わりそうである。ラストが、両淮という大物なわけだが。

塩斤数をチェックする「1-2」については、半分程度ははっきりしているのだが、残り半分は今一つよくわからない。税収と直結する塩引数については、比較的分かりやすく(それでもかなり複雑な表現を使っていたりするが)、把握もしやすいのだが、塩斤数については、そこまで分かりやすくまとめられていないこともあるのが面倒臭い。
最悪、もう一度人文研へ出張らないといけないかもしれない。

人口数を把握する「1-3」ステージは、作業が住んでいる。というか、先行研究のをそのまま引用するので、問題とならない。

問題は、税収云々が絡んでくる第2ステージなのだが、今から悩んでいても仕方がない。とりあえず第1ステージの今月中の完成を目指す。

にしても、かなりのページ数になりそうで、今から怖い。前後篇に分けるとか、やりたくないんだが。
細かい塩制の変遷を文字で追うのを回避するには、表を多用するしかない。
これがちょっとした項目だけなら、あまり嵩張らないのだが、そうもいくまい。行塩地内の塩引数改訂を1行にまとめたとしても、各行塩地ごとに半ページ~1ページ程度は消費しそうである。
今回チェックする行塩地は7箇所で、平均して3/4ページ使うとするなら、約6ページ程度を使うことになる。雑誌での1ページを簡単に原稿用紙単位に換算すると、だいたい4枚に相当するので、原稿用紙24枚程度ということになる。ちなみに論文1本あたりの制限枚数は、原稿用紙換算で40枚である。無理を言えば、60枚程度ぐらいは我慢してもらえるが。
……どう考えても詰んでいるわけだが、今の時点では考えないことにする。畜生めが。

2011年6月1日水曜日

水無月朔日 東北震災の歴史的評価

フェルナン・ブローデルは、『地中海』を書くに際して、それまで伝統的に歴史学が守備範囲とするものとされていた政治的事件などの「短い歴史」、そしてある世界を構成する基礎的な情報を与えてくれる地理や気候などの「長い歴史」と、その中間である社会や経済の変容といった「中ぐらいの歴史」の三点を挙げ、それぞれの観点から地中海を描きあげた。

僕は、主に経済の歴史に関心を寄せているわけだからして、この「中ぐらいの歴史」の観点から歴史を見ることが多い。
逆に言えば、あまり「出来事」に対しては興味を持たない。無いわけじゃないけど。
極端な例だが、2001年のWTC同時爆破テロが起きた時、もちろん僕も大いに興奮したわけだが、しばらくすると、違和感を感じるようになった。
周囲では、「これで歴史が変わる」とか言っていたが、それを胡散臭く感じるようになったのだ。別に、何も変わらないというわけではないが、この一件一つが転機となるというのは、単純すぎるだろうと思ったのである。

今回の地震でも、やはり「歴史が変わる」と主張する人は多いわけだが、同じく胡散臭く感じる。そりゃまぁ、原子力政策とかはかなり影響を受けるかもしれないが、人類の経済成長を維持するためには一定量のエネルギーが必要であり、化石燃料ではそれを長期にわたって賄うことは出来ず、新エネルギーも当分の間はコストパフォーマンスの点で主力とは成り得ないという現状を鑑みるに、原子力を完全に封殺することは難しいはずである。
もちろん、短期的には原子炉の建設は不可能だし、日本に限ればかなりの長期間に渡り、建設できない可能性は低くはない。以前から胡散臭げに見られてきたが、今回の一件で、原子力村への信頼はほとんど完全に失墜したし。
しかし、これで「歴史が変わる」のか?
まぁ、こうなってくると何を以て歴史が変わったのかという定義からの問題となるだろう。実際、被災した人にとっては、その人もしくはその周囲の人の「歴史」は確実に変わったのだろうし。
ただし、こうした個人的な経験は、僕は取り扱わない。こうしたものも歴史が取り扱うべき分野の一つには違いないのだが、それだと、今この瞬間に車にはねられた人と、根本的に何が違うのかということになるので。

もっとも、こうしたことも、車の増加による事故の発生率と、それによる経済的損失を話すというのなら別である。同じく、地震の発生による社会構造や経済構造の変化という話をするなら、考察の対象となり得よう。まさに「中ぐらいの歴史」の範疇といえる。
さて、この観点からすれば、東北や日本や世界の歴史は変わったのか?

東北についてと限定すれば、大きく変わり得るかもしれない。避難の長期化や経済的基盤の長期的な崩壊、震災復興への負担などにより、これまでの生活は一変しており、そしてその変化は元に戻らない可能性が高い。

日本についてはどうか。経済的には極端な打撃ではない。混乱した生産機能も数年以内に代替可能となる。阪神大震災により神戸の経済組織は大きな打撃を受け、そしてそれは完全な復興を遂げてはいないし、今後もそれはないだろうが、その分の機能は他所が補っているということからの推測である。
ただし、エネルギー政策に対してはかなりの期間影響が及ぶ可能性が高い。また、震災復興のための財政的負担は、財政状態が阪神当時よりも悪化していることから、かなりの問題となるだろう。ただし、どちらの問題にせよ、昨日今日に始まった問題ではないということも留意しておくべきだろう。
総合的には、現時点ではよくわからない。東北の震災を被ったことによる影響は、日本の経済や社会を質的には変化させないだろうが、量的には大きな変化をもたらす可能性がある。経済・社会的負担があまりにも大きくなれば、その構造そのものを変えてしまう可能性もあるだろう。

世界についてはどうか。ほとんど変わらないのではないかと思う。原子力エネルギーへの依存度の高まりは、かつてより弱まるかもしれないが、現在の経済発展の主力である中国・ロシアその他の国々は、何よりもエネルギーを必要としており、そのためなら多少のリスクの高まりなど目にもかけないだろうし、実際、原子炉の安全性をPRするのに躍起になっている。
経済の発達のみがすべてではないが、経済の発達なしに国力を大きく伸ばすことは難しい。そして、経済を大きく伸ばすチャンスというのは、歴史においてそう何度も訪れるものではない。特にロシアほどの化石エネルギーを持たず、生産業が国力の大きな要素となっている中国や韓国の場合、エネルギーは必須である。また、高齢化が急速に進みつつある中、今のうちに稼いでおかないと、日本のような安定した状態(停滞ともいうが)を狙うことすら不可能になりかねないわけであり、その意味では日本よりもよほど切実だろう。

とまぁ、こんなわけで、世界史の観点からすると、この一件は大した影響力を及ぼさないのではないか、と現時点では思っている。日本史の観点からしても、多分そうだろう。細かい部分ではそれなりの影響力を及ぼしはするだろうが、全体的な観点からとなると、こう判断される。
まぁ、来年の今頃は全く違ったことを言っているかもしれないが。歴史家は過去からしか判断できないし、本来、未来のことは守備範囲外だからと、逃げを打っておくことにする。

2011年5月28日土曜日

皐月三十日 福島原発の海水注入

東電福島第1原発1号機で、政府と東電が海水注入を55分間停止していたと説明していたことに対し、発電所所長の吉田昌郎が、自身の判断で注入を続けていたことを明らかにし、問題となっている。

問題のポイントは、まず、政府と東電が説明(というか注入停止についての責任のなすりつけ合い)していたことに対し、そもそも注入停止が行われていなかったとして、議論の根底を崩したという点にある。
次いで、こうした重要な問題が、現場の判断で行われ、指揮系統上部に対して長期間伏せられていたという点である。

前者については、まぁどうでもいい。既にボロボロになっている両者の面子がさらに潰されただけのことであり、対策そのものは正解だったと考えられている。
問題は後者だ。これでは、他にも隠した情報があると考えられても仕方がない。そもそも政府や東電の措置について批判されるのは、情報の公開が不充分であり、意思決定の過程や責任の所在が不明瞭であるというためである。今回の一件で、これがさらに深刻であることが明らかとなった。

僕が感じるのは、現場の後方に対する不信感である。そして、その結果生じる独善というものである。
ちょうど、昨年起きた尖閣ビデオと同じ構図であろう。上層部の判断に対し、異なる判断を下している現場が反発し、独断専行を行う。そして、全体としては現場の判断の方が正しいのだが、独断専行のため指揮系統は混乱する。
言うまでもなく、組織としては完全に落第である。政治というものは徹底的に結果だけが評価されるので、今回の一件も、結果オーライではある。が、これが常態化するようになると、関東軍の暴走がまた始まることになり、更に大きな失敗を生むことになる。
責められるべきは、もちろん独断専行した現場だが、一番の問題となっているのは上層部の無能であろう。現場の責任は上層部が問えるが、上層部の無能は誰が糺すのか?
戦前の場合、誰もそれを行おうとはしなかった。組織としての日本帝国は、意思決定や責任の所在が不明瞭なまま、戦争へと突入する。この当時、プレイヤーだった政府、議会、海軍、陸軍、天皇、重臣のいずれも、この問題を解決しようとはしなかったわけだ。
今は、プレイヤーは政府、議会、企業ということになろうが、戦前とは異なり、天皇と重臣に代わって、国民というものが入っているのではなかろうか。となると、国民には何ができるのだろう。

皐月二十八日 研究進まず

研究が進まない……わけではないが、予定していたペースには遅れている。
原因は明らかで、仕事をしていないからだ。

どうも精神的活力が落ちているらしく、やる気が出ない……わけでもないが、出にくくて長続きしない。
仕事が終わって帰ってくると、酒飲んで寝る→3時間ぐらいして目が覚める→なんかゲームとかしているうちに夜が更ける→寝る→起床・仕事というサイクルになる日が結構ある。
このサイクル自体は、昨年ぐらいから起きるようになったのだが、これはこれで、一度寝てリフレッシュしてからもう一仕事、という感じもあって、それほど悪くなかったのだからして、まずいのは総合的な士気が低下しているという部分だろう。「なんかゲームとかしているうちに夜が更ける」の部分を変えればいいわけである。簡単に変わるなら苦労しないが、まぁ、この部分が努力の対象ということで。

で、進まないながらも、多少は進捗している。
あらためて、論文のゴールと章立てを確認してみよう。

論文の目的は、清代における財政構造の特徴を明らかにすることで、目標としては、官塩の供給と塩税の関係について検討を行うことである。
具体的には、清代中期ごろに官塩の供給量が人口の増減に対応しなくなり、また清代後期になって塩税の需要が高まると、塩の供給量の増加ではなく税率を高めることでそれに対応させようとするのだが、それはなぜかを明らかにする。
実際問題として、それは上手くいったのか? 上手くいかなかったとして、なぜ官塩供給量を増やすという、僕にはより合理的に思える手段を取らなかったのか? 清朝の財政構造は非常に硬直的に見えるのだが、塩政というカテゴリーにおいてもそれは見られるのか、見られるとして、それはなぜか? さらに、その硬直的に思える財政構造が、実際に存在していたとして、それは清滅亡後にどう変わったのか。あるいは変わらなかったのか。変わったとして、それはなぜか?
仮定と設問がやたら多そうだが、そのあたりは各節においてつぶしていくわけである。広東だけなら楽だったのだが、今回は中国全土というわけであり、中国の塩政は地域差が大きいことから、主要なものだけでも8つある行塩地それぞれについてチェックする必要があるので、かなりの作業量が予想される。というか、ものすごい作業量である。折れる心を継ぎなおしつつ、作業を進めるしかあるまい。

1.1. 各行塩地の塩引数の増減をチェック。
1.2. 各行塩地の塩引1道あたりの塩斤数を確認し、各行塩地の官塩供給量を把握。
1.3. 各行塩地の人口の増減を調査。

これにより、官塩供給量の調整が清代中期に停止したという知見が得られるはず。以下はその原因の検討。

2.1. 清代前期から後期にかけての塩税の推移を確認。税率が高まるはず。
2.2. 陶ジュや張謇ら、清代後期の改革を確認。

清代後期に入り塩税需要が増すと、塩税税率を高めて対応したこと、そしてそれを担保するべく官塩の競争力を強めようとしたが、非常に困難であり、特に張謇の改革は成果を出せなかったことを述べる。両者の違いは、改革時期もあるが、加えて各人の持つ強制力と改革対象の力の大きさである。

3.1. 民国初期の官塩供給量と人口、塩税税収の推移を調査。
3.2. 張謇やデーンが進めようとした改革を述べる。両者の違いは、背景に持つ強制力の違いであり、改革の方向性は大きくは異ならないはずである。

以上から、清代、そして清代の塩政を引き継いだ民国最初期の塩政は、非常に硬直的なものであり、それを崩すには外国列強による強制力が必要だったのではないか、ということが、今のところの結論となる。

壮大な話であるが、現在は1.1.の、それもいくつかの行塩地についての検討を進めているところである。
詳細な検討を終えているのは両広のみなのだが、やはり各行塩地の検証が行われていくと、各地独特の事情が見えてくる。
たとえば両浙では、太平天国の乱のため、清代後期になると塩引数などが一度リセットされる。清代を通して有力な開拓地だった四川は、比較的遅くまで小刻みな塩引数の増減が行われる。特に他の地域が海水から塩を生産するのに対し、この地では塩井からの生産になるので、新しい井戸が開かれたり、逆に結構井戸が枯れたりする。
他のいくつかの行塩地では、正塩の供給は乾隆年間ごろには固定化されるが、代わりに余塩の供給が増える。これは地域ごとの発給数などが厳密に定められた正塩とは異なり、比較的柔軟性が高くて、塩務官僚にとっては考課の対象となりにくいものである。
かつて塩務官僚が官塩供給量の増加を望まなかった理由として、財政的にその必要性が乏しかったことと、考課のハードルが高くなることを嫌ったことを挙げたのだが、その意味ではこういう余塩は扱いやすいはずである。

ま、こんな感じで行塩地ごとにじっくりとまとめていく必要があるわけである。次いで塩斤数のチェックなんかも必要だし、塩税とかは今の時点では考えたくもない。
多分、士気が高まらない理由の一つとして、どれだけの作業量があるのか掴めないということがあるのだろう。少しずつでも仕事が進めば、だんだん気分が乗ってくる……ことを望み、作業を進めることにする。


11月がデッドエンドらしいので、夏ごろまでには目処を立てておかなければならないのだが、なかなか大変そうな気がする。

2011年5月7日土曜日

皐月七日 『帝国の興亡』

GWは、正月に引き続き昔の大型ボードゲームをやった。今回は『帝国の興亡』。
7人集まったので、正規のシナリオでは動かないことから、千年紀のシナリオを無理やり実施することになった。

HRE@まさやん(ハンデ±0)
フランス@かずや(ハンデ+5)
ビザンツ@ヤス(ハンデ+10)
キエフ公国@僕(ハンデ+20)
デンマーク@もりりん(ハンデ+30)
ポーランド@電気屋(ハンデ+30)
ブルゴーニュ@nori(ハンデ+30)

というメンツである。
このシナリオは776年開始の1025年終了(だったと思う)。実際には、時間の都合で9ラウンド目、つまり1020年に終わった。
このゲームをやったのはずいぶん前のことになるのだが、その時には「不作」が連発して、ヤスが担当していたHREがひどいことになってたりした。
基本的にこのゲームは、運の要素がかなり強い。人為が運命の前に翻弄される中世という時代をよく表していると思うが、やっていてフラストレーションがたまることもまた事実である。

プレイヤーとしては一番危険性の高いヤスが、正月のシヴィライゼーションに続いて隣国となったわけだが、正月の時のような不毛な全面戦争は、今回は避けられた。
やはり危険性の高い電気屋は、国力が小さいことと、序盤のダッシュで失敗を繰り返したことから、僕にとっての脅威にはならなかった。
こうなると後背の危険のない(別シナリオだとモンゴルが迫ってくる最前線となるのだが)ロシアは、非常に気が楽である。とりあえずカトリックに改宗したり、マジャール人の出撃拠点であるハンガリーを抑えたりして、地味に過ごす。
HREは、史実通りシナリオ開始時点で、ドイツが本領なのにイタリアに手を伸ばしていることから、国内統治で大変なことになっている。
フランスはイベリア半島に向かい、レコンキスタを開始。正直な話、史実より簡単すぎる気がする。
両者に挟まれたブルゴーニュは、イタリアに向かうかイベリアに向かうか、二つの選択肢が与えられている。フランスが良い調子で勢力を伸ばし始めていたことから、noriはイベリアへの進出を決定。
デンマークは、スカンディナヴィアを固める一方、さっさとイギリスへと向かう。

このシナリオでは、北海のバイキングと西部地中海のサラセン海賊とがお邪魔虫となる。具体的には、ターン(25年単位)の初めに略奪を連発するわけである。
目標は、一番豊かな地域になるので、下手に内政を行って地味を肥やしたりすると、そこから狙われる。比較的攻撃力の弱いバイキングの場合、要塞化すると止まってくれるのだが、サラセン海賊の場合はほとんど不可能である。
結果、この地域をプレイするデンマーク、フランス、ブルゴーニュなどは、結構面倒臭いことになる(HREはイタリアを持っているのだが、基本放置するのであまり痛くない)。
西欧や南欧は豊かな地域が多いのだが、災害も多いのでなかなかに難しい。

途中、ブルゴーニュに外交9の化け物リーダーが登場し、フランスに折伏攻勢を浴びせることになった。
領内の随所に外交的介入を行う。たまたまこの時期のフランス王は外交2だったので、ほとんど抵抗できない。下手をすると、国土の半分ぐらいが離反しなけない危機的状況である。
何度か諸侯会談が持たれたのだが、正直なところフランスの方が地力が強いことはみんな承知しているので、外交9のブルゴーニュ公を疎ましく思っていても、フランス王へ肩入れする人間もあまり出ない。
さすがに外交的征服は却下するが、それ以外はおおむねブルゴーニュにとって満足すべき展開となる。
しばらくすると、フランス王も代替わりして外交9になり、不毛な外交戦争は終わることになった。

ゲームそのものは地味~に進み、最後の方で東欧を一気に抑え、ついでに上手いこと改宗と軍事のイベントカードを引き当てた僕が、あっさりと勝利した。もう1ターンぐらいあると、ヤスあたりが猛烈な勢いでラッシュをかけてきたはずだから、完勝という程のものでもない。
というか、長らくやっていないことから皆ルールを忘れてしまっており、ルールを把握している僕の方が有利なのは当然のことなので、自慢にできるようなものでもない。

正月にやったシヴィライゼーションと比べると、このクラスの戦略級ボードゲームとして考えると、こちらの方が運の要素が多い分、やや安易だなと感じる。もちろん、計算抜きでは勝てないことは間違いないので、運の要素を強調しすぎるのも片手落ちなのだが、どうも運の要素が目立って仕方ないというあたりが弱いところだ。
あと、古いゲームだから仕方がないのだが、不必要に煩雑で、徴税や反乱のチェックなどはもっと手軽にした方がプレイアビリティが高まることであろう。

2011年4月24日日曜日

卯月廿四日 とりあえずの筋道

研究についてだが、小説とかでよくある「良い知らせと悪い知らせがひとつずつある」という状況。

良い知らせは、とりあえず終わりまでの筋道がついた。あるいは、ついたような気がするということ。
悪い知らせは、結論がありきたりすぎて面白くないということ。

とりあえず整理してみよう。


この研究の目的は、塩政の観点から、財政構造上の柔軟性(硬直性)を明らかにすることにある。

第1節として、各行塩地における塩引数の増減と塩の需給量を明らかにする。
これは、広東について行った研究手法を、他の地域にも適用し、清代中国全域について、同じ見通しが立てられるかどうかというもの。まだ細かい部分までは詰めていないが、同じことが言えるであろうことは、先ず間違いない。
ここから導き出される結論は、清代中期には、清朝は塩の供給の調整を放棄し、人口増加分は私塩に任せていたということである。その原因は、政治的・経済的安定期にあったことから、塩税の需要が弱かったことにあると考えられる。

第2節は、清代後期になって財政需要が高まる中、いかにして塩税の増収を図ったかということを明らかにする。
増収を図るには、官塩の販売量の増加と、塩税の税率を高めることの二通りがある。実際に採られたのは後者の対応で、このために放っておいても競争力の低い官塩が、さらに値上がりして競争力を落とし、私塩が蔓延することになるわけである。
こうした状況にあって、採れる対応は二つある。ひとつは私塩の取り締まり。もうひとつは官塩の流通コストの削減を通した官塩の競争力強化。
後者については、道光年間に陶ジュが行った淮北塩制改革が有名である。これは、最大の行塩地を持つ両淮塩運司行塩地の内、比較的小規模の淮北行塩地について、流通コストを下げたものである。
かなりの抵抗があったのだが、まず成功したといっていい成果を挙げた。これは、陶ジュが地方官としては最大の権力を持つ両江総督であり、かつ塩政における実務権限も全て総督に集中させ、さらに道光帝からの強い信任を得ていたことが大きい。もうひとつの理由として、淮南行塩地に対して相対的に規模が小さい淮北での改革だったことが挙げられる。つまり、既得権益者の力が相対的に弱いということである。
これに対置すべきなのが、清末光緒年間に張謇が行おうとした改革である。こちらは見事に失敗した。理由としては、張謇の塩務や地方行政における権限がきわめて弱かったことと、淮南行塩地での改革だったため、巨大な塩商や官僚その他の利害を正面から崩しかねないものだったためである。ちなみに彼は民国に入ってからも同じく両淮塩政改革に取り組み、既得権益者と熾烈な闘争を繰り広げることになる。
さて、つまり何を言いたいかというと、流通コストの削減は、既得権益者による抵抗が非常に強いため、よほど条件が整わないと成功しないということである。
では、どうするか。結局、私塩の取り締まりに終始することになる。が、塩需要の半分を私塩が占める状況にあっては、どれだけ頑張ろうと効率の低さはどうしようもない。
じゃぁ、どうして塩税の税率に拘ったのか。官塩供給量を増やせば良いんじゃ。

第3節は、それに応える部分である。
張謇など、清末の塩制改革論者たちの主張に、自由販運制の導入というものがある。
これは、早い話が好きに塩を売って良いよ、という制度である。
これまでの塩政の基本は、許可証である塩引の発給を受け、場所や期日、販売する塩の量など事細かに規定され、さらにその取引権も保護されるというものだった。
こうした規制を、程度の差こそあれ緩和するというものである。
当たり前の話だが、こんな改革案を持ち出そうものなら、既得権益者が猛烈に抵抗することになる。
上の話の続きみたいになるが、張謇はこれを行おうとして、結局行い得なかった。大した権力を持ち得なかった清代には言うに及ばず、袁世凱から強い信任を受けていた民国期においても、充分な成果を挙げるには至らなかった。どちらかというと、塩税を借款の担保に入れていたことから、列強から派遣されていた外国人監督官の方が、強い影響力を持っていたのではなかろうかと思われる。このあたりについてはもう少し調べた方が良いのだろうが、基本的には、張謇が進めようとして挫折した改革案を、外国人監督官が実施したという感じになるようである。

さて、結論である。清代の財政構造は、きわめて硬直したものだった。清代中期に行塩数の増減を停止すると、あとはそのままで需要の増加分は私塩に任せていた。これは、この時期に財政的需要が少なかったためだが、財政的需要が高まった後期になっても、塩税の増税という、塩政を混乱させるような対応しか取れず、それへの有効な対応は無かった。
これは、官塩の販売が強く保護されていたため、その改革にあたっては既得権益者からの抵抗が強く、よほど大きな政治的影響力を持てない限り、それを覆せなかったためである。
改革への抵抗は、改革の対象となる権益の大きさに比例するため、淮北塩政の改革であっても、有能な官僚が、地方行政と塩政の権限を集中し、さらに皇帝からの信任を得ていて、ようやく一定の成果を出すというものだった。これとても既存の塩制を大きく逸脱するものではなく、自由販運制の導入などは行い得なかっただろう。
まして陶ジュ程の好条件に恵まれなかった張謇が、最大の権益地である淮南の塩政改革を成功させるのは、不可能事であるとしか言いようがない。既得権益者の抵抗を打ち破るということは、列強の力を背景にした外国人塩務官僚にして、初めて為しえたのである。


以上でストーリーは完成するのだが、どうにも面白くない。
一昔前の資本主義萌芽論とか発展段階論とかで出てくるような古くさい感じがする。
「中国において改革を行おうとすると、官僚・商人・地方有力者から成る既得権益者集団の抵抗が強いため、自力での発展は出来ない」
「よって、外部からの、『西方からの衝撃』が、中国の発展には不可欠だったのである」
古典的なウェスタン・インパクト論の焼き直しみたいである。


だが、一方でウェスタン・インパクト論の見直しも必要ではないかとも思っている。
これは、発展段階論、つまり西欧(さらに言えばイギリス)という「最先端」の姿があり、他の国・世界も、時間が経つにつれて「正しく発展し」西欧化するというものである。唯物史観やそれを改良した大塚史学の歴史観がこれだ。時期的に言えば、日本の場合だと戦後まもなくから1960年代頃まで流行った理論である。
これは、現実の方が「正しい発達」を遂げてくれないことが明らかとなったため、下火になった。
具体的には、アジアやアフリカ諸国に対して、どれだけ援助をぶっ込んでも「正しい発展」をしてくれないことが分かったころの話である。いわゆる近代化論というヤツで、日本やドイツならうまく行ったんだよ! どうしてこの土人どもは……!!!!!と、かんしゃく起こった結果、どうも理論の方が間違っているらしいということになった。この結果生まれたのが従属論なのだが、それは措く。

発展段階論そのものは、やはり間違っていると思う。というか、世の中そんなにシンプルじゃないし。歴史などという人間の営みの生成物に、ただひとつの正しい答なんてもんがあるなら、人文科学は存在の必要性すらなくなってしまうだろう。「正しい歴史認識」なんてのは、北京とソウルにあればそれで充分である。
が、近代中国が西洋からのごり押しの結果、自力では行い得なかった改革を進めたということは、充分あり得る話である。
これとて無条件・無制限に西洋側が力を振るったわけではない。例えば民国期の塩政においても、ヨーロッパ側の代理人だったデーンは、張謇らが進めた塩政改革案を実行しただけと言うことも出来る。また、彼はその後の塩政の運用においても、中国側の利益には相応の配慮を払って執行している。ウェスタン・インパクト論がインチキ臭いのは、これで何でもかんでも説明を付けようとしたことにある。実際には、双方共に影響を受け合うし、「インパクト」が起きる以前からの歴史的文脈というものが必ず関わってくるので、安易な一般化など許されるわけもない。
その上で、ウェスタン・インパクトが影響を及ぼしたというのであれば、これはアリだろうと思う。ウェスタン・インパクトと言うも良し、「世界システム」に組み込まれたというも良し、いずれせによ清末になって中国は、これまでとは異なる力の影響を強く受けるようになったということである。

多分、このあたりの考え方を上手く取り込めば、もう少し面白く読めるものになると思う。とりあえずは細部を詰めていって、ある程度進んだら、もう一度この問題に取り組むことにしよう。

2011年4月16日土曜日

卯月十六日 ハード&ソフトディフェンス

東日本の震災が起こるずっと前、首都移転論が活発に議論されていたころから思っていたことだが、東京への一極集中は、危機管理の観点からはかなりまずいのではないかと考えている。

僕が想定する「危機」の一番極端な例は、「核攻撃をくらっても国家機能を存続させられる」というもの。
首都がクレーターに変わっても、日本全体としては機能し、活動し続けられなければならない。

まぁ、ここまで極端な話でなくても、第二次関東大震災とか、もっと穏当な想定はいくらでもできるが、あまり意味はないと思う。自分にとって都合のいい想定でシミュレーションを行うことなど、まったく無意味であるからだ。
この意味で僕が批判されるべき例として考えているのは、ミッドウェー海戦前に行った図演で、史実で被るのと同程度の損害が出るとの結果が出ると、統裁役を務めた宇垣纏が損害を不当に低く裁定してそれを無視し、それがミッドウェーでの敗北につながったという話がある(ただし、Wikipediaの記事によれば、これは宇垣ひとりの判断ではないらしいし、またミッドウェーの敗北はこのことひとつに原因があるわけではない。まぁ、そうだとしてもシミュレーションの結果を捻じ曲げたという事実は動かないが)。
もちろん、不当に損害を大きくしても仕方がない。宇宙人が侵略してくるとかマグニチュード10の地震が起こるとかのあり得ない想定に対して心配するのは、労力の無駄というものである。
概して、後者は素人が、前者は玄人が、それぞれこうした罠にはまりやすいように思える。

今回の地震の場合、大地震と大津波との複合型の打撃だった。それぞれ、想定されていた(少なくともその可能性を示す専門家はいた)のだから、こうした災害は、想定されるべきものだったはずである。
想定されていたにもかかわらず、対処されていなかったのは、コスト的に割に合わないと判断されていたからだろう。こうした保険の類は、災害が起こらなければ無駄になるので、どうしても二の足を踏みたくなってくる。
民主党が仕分けで切った「スーパー堤防」も、コストエフェクティブネスではないから切られたわけである。実際、高さ10mの防波堤で日本を取り巻いたところで、高さ20mの津波が来たら意味がないとあっては、二の足を踏むのは当然であろうし、高さ40mの堤防となると、津波が来る前に日本が滅んでしまいかねない。

東京の石原都知事が主張する防災都市東京という概念も、基本的にはこのスーパー堤防と同じようなものではないかと思う。基本的な発想が、「想定の範囲内の災害」が起きるので、それに耐えられる街づくりを行えば大丈夫というものである。軍艦でいえば、ハードディフェンスというやつだ。
僕なんかは、同じく軍艦の防御思想でいえばソフトディフェンスを取り入れるべきではないかと考えている。

つまり、ある程度までの防御は整えておく(たとえば50年に一回起こる程度の災害には耐えられる)が、それ以上の災害が起きた場合、災害が起きた場所は一時的に機能を停止することを覚悟し、間接的な手段により防御する。基幹機能の分散と指揮統制システムの柔軟化が中心になるのだろう。
具体的には、首都機能を代替できるシステムを、日本の随所(最悪でも一か所)に設けておく。首都機能が停止した場合、「自動的」に指揮権は代替システムから発せられることとなる。また、上位からのトップダウンによらず、道府県レヴェルで一定の権限を振るえるようにしておく。おそらくは、道州制を採用してそこにこうした権限をゆだねる必要が出てくるだろう。
重要なのは、指揮系統にある程度の損害が生じた場合、こうした対応を「自動的」に行えるようにしておかねばならないという点である。中央の指揮能力が維持できている場合は必要ないが、そもそも中央に指揮権が集中しすぎていること自体がよろしくない。一定の権限は、現地の指揮権者(たとえば知事)などが、あらかじめ持っておくべきだろう。

結論は、地方分権を進め、非常事態用の法体系の整備を行っておくことである。相応のコストはかかるが、国中をハードディフェンスで鎧ってしまうよりは安上がりのはずである。
が、政治的なコストは非常に高い。中央集権の緩和や東京一極集中の見直しなどは、猛烈な抵抗を浴びることになるだろう。
民主と自民の大連立政権は、これを成し遂げるだけの能力を与える可能性を秘めていると思うが、まず、民主党の側に、小沢一郎を除いてここまでのグランドデザインを行える人物がいないこと、小沢と自民党の側は、ハードディフェンス志向があると予想されること(要するに土建屋万歳政策である)から、ソフトディフェンスへの移行は難しいのではないかと思う。

要するに、ここまでの文章は「チラシの裏」というわけである。2chでよく使われるもう一つの表現は、「ブログでやれ」なので、ブログで書いた。もちろん、もとよりよそで書いたりしゃべったりするつもりもないが。

2011年4月9日土曜日

卯月九日 大連立の可否

さて、地震そのものへの対策はそろそろひと段落し、復興への道筋をつけるべき時がきた。
これにともない、政治休戦も終了し、イニシアティブ争いが始まっている。
民主・自民の双方とも、そしてその他の少数政党とも、復興そのものの必要性では一致しているわけだが、それをどのように、そして誰のイニシアティブにおいて実施するべきか。

民主というか、管内閣は、自民との大連立を行い、新設の震災対策などを自民の閣僚に任せ、内閣の大枠は変えないという方針を狙っているようである。
自民はそれを蹴った。連立するにせよ、管内閣のもとでは行えないと主張し、首相を自民党から出せと主張している。

もとより民主党よりは自民党の方がましだと考えている僕だが、それにしても管内閣の方針は虫がよすぎるように思う。
震災復興だけ丸投げされても、それをバックアップすべき財務・国交・経産などが民主の手元に残されたのでは、はしごを外されるリスクが高すぎる。というか、これまでにもろくに調整能力を果たせていない管首相に、そのあたりを期待できるわけがない。
というわけで、この提案が出た時、僕は民主(というか管直人)にやる気がないか、もしくは真性のお花畑状態になっているかのどちらかだと思った。彼については、前任者ほど知的能力に欠けているわけではなかろうと評価しているので、実態としてはこの間ぐらい、つまり「上手くいけばいいなぁ。行かなくても、それは提案を蹴った自民の責任だし」ぐらいじゃないかと思っている。
前にも書いたが、彼は悪い意味での現実主義者であり、明確な選択肢を設定し、どちらかを選択した上でそれを追求するという方針を決して持てない人間だと評価している。
よって、自分の側から思い切った譲歩を行い、大きな成果を上げるという政治的術策を実施するには向いていない人間であろうと考えている。

自民の側についてはどうだろう。首相をはじめとする重要閣僚をよこせとなると、相手に飲めるはずもないことは承知しているだろう。特に首相職を与えると、好きな時に内閣解散を行える。今総選挙を実施すれば、民主はひどいことになるだろう。
ゆえに、民主はそれを飲めない。その上で首相なり重要閣僚なりのポストを与えて自民を取り込むというような大技を企画し、実施できるだけの力量を持つ人物となると小沢一郎ぐらいのものだろうが、彼は党内の対立の余波で動ける状態にない。あるいは水面下で画策しているのかもしれないが。

結局のところ、統一選が終わって現時点の各党の支持率を確認したうえでないと、次の手は打ちづらいのだろう。民主と自民は大連立を組むか否か。大連立を組まれるとなると影響力をほとんど喪失する少数政党は、いかにしてそれに反対するか。
明日以降、それが加速するのではないかと思っている。

2011年4月2日土曜日

卯月二日 史料のコピー

先月末、久しぶりに人文研に行ってきた。
学生証が年度末で一時的に切れるので、再発行までのタイムロスが惜しくての駆け込みである。

で、『清塩法志』から大量にコピーしてきた。180枚強で6300円ほど。専門書が一冊買える値段である。くそう。
年に数度行くのだが、行くたびに5k円ぐらい貢いでいる気がする。

もともとは、ここまで大量のコピーを行うつもりはなかった。前回コピーしていなかった部分をコピーするだけ……と思っていたのだが、いざ実物を見てみると、前回訪れたときより研究を進めていた分、必要となる史料が格段に増えていたことに気がついた。
つまり、前回は塩引数を記載する部分のみをコピーしていたのだが、研究方針が変わり、塩引の増減にかかわる部分と、塩の価格に関する部分をチェックする必要が生じたのである。
あるいは、塩税に関する部分もすべてチェックしたほうがいいのかもしれないが、その辺りについては今回は外しておいた。コピー数も、コピーにかかる時間もシャレにならなくなるので。

実のところ、こうした史料の大半は基本古籍庫にある各塩運司の塩法志を見ても、ほぼ同様の情報を手に入れることが可能である。というのも、こうした塩法志の大半は、光緒年間ごろに発行されているので、民国初期刊行の『清塩法志』とは情報がかぶって当然なわけである。
ならばわざわざ高い金を払う必要があるのかということになるが、実物を見てみると、清の最末期ごろに色々と悪あがきをしているのだが、それについての情報がばかにならないことに気付いた。
今回の研究では清代中期が主な対象となるのだが、知らん顔もできない。
かくして、必要な情報量はそれほど多くはないにもかかわらず、そこだけをピックアップすることもできないため、泣く泣く全部コピーすることになったわけである。

で、現在は大量にゲットしたコピーを、ファイルにとじるために折っているところである。ついでに最近コピーした論文も同じように折っているのだが、折り終わる前に心が折れた。
というわけで、こちらに逃げたわけである。

2011年3月16日水曜日

弥生十六日 470ミリSv

マーフィーの法則などで言われていることだが、往々にして悪い予感ほど当たるものである。

福島第一原子力発電所の状況は、きわめて悪いようだ。
毎日新聞の記事によれば、15日10時22分、3号機付近で400ミリSvの放射線量を記録したとのことである。
つまり、炉の中はもっと酷いわけである。

作業員がどうしているのか心配だったのだが、読売新聞の記事からもかなり悪いことが窺える。

12日午後、高圧になった1号機の格納容器内の蒸気を逃がすための弁が開放された。格納容器に亀裂が入る最悪の事態はまぬがれた。その弁を開ける作業にあたった男性は、100ミリ・シーベルト以上の放射線を浴び、吐き気やだるさを訴えて病院へ搬送された。

 もともと、この作業では、大量の放射線を浴びる危険があった。このため、1号機の構造に詳しいベテラン社員である当直長が作業を担当。「タイベック」と呼ばれる特殊な全身つなぎ服とマスクを身につけ、手早く弁を開けたが、10分超で一般人が1年に浴びてもいい放射線量の100倍にあたる放射線を浴びた。


ということで、本来、緊急時に一時的に浴びることのみが許される100ミリSvを連続して浴び、悪いときには400ミリSvに達するというわけである。
というわけで、同じく読売新聞の記事によると、厚労省はこの原発処理に限り、100ミリSvから250ミリSvに引き上げる処置を下した。記事によると、

放射線の専門家でつくる「国際放射線防護委員会」が示す国際基準では、緊急作業時の例外的な被曝線量の限度は約500ミリ・シーベルト。厚労省によると、250ミリ・シーベルト以下で健康被害が出たという明らかな知見はないといい、同省は「被曝した作業員の健康管理には万全を期す」としている。

とのことである。
こうした記事は、抑制的に報道を行っている大手メディアに依るものであり、実態はもっと酷いかも知れない。普通に考えれば、酷いと考えるべきだろう。
2chがソースなので信憑性に難はあるが、実際に作業している人の書き込みとされるものがまとめられている。IDから察するに、携帯から書き込まれているようだ。
47万マイクロSv(470ミリSv)の環境下、90人程度の作業員が、20人程度のグループに分かれ、8~10秒交替で弁の開放作業に従事している。つまりほぼ一分交替である。実質的にほとんど連続的に被曝している状態である。
弁は、どうやら海水の塩分のために動かない状態らしい。海水注入は、本来ならば一回限りの緊急避難的措置であり、今回のように連続して注入するという事態が想定外だったのだろう。

冷却系が麻痺している現状では、定期的に弁を開放して水素を逃さねばならない。
しかるに、弁の周辺はほぼ限界の放射線量となっている。
炉の状況が安定するまで、人間をすり潰して作業を進めるしかない(進めないと格納容器が破壊され、チェルノブイリが再現される)わけだが、どの程度の時間が必要なのか。
再び毎日新聞の記事によると、

住田健二・大阪大名誉教授(原子炉工学)は「とにかく水を入れ続けなければならない。あと1~2日も注水すれば、燃料棒からの発熱も減って、今よりも条件が改善される。これ以上の燃料の溶解を防ぎ高い放射線レベルの核分裂生成物も出なくなる。事業者が責任を持って取り組むべき問題だ」と話す。

とのことである。つまり、16日一杯はこの作業を続ける必要があるということだろうか。
それまで、水素を適切に放出できて大規模な爆発が起きず、冷却水を注入し続けてメルトダウンが進行しなければ、の話だが。


いまだにトラウマ気味の『がらくた屋まん太』の原発事故処理の話を彷彿とさせてきたなぁ。あそこまで酷くはないだろうけど。というか、あの話はチェルノブイリクラスのハザードだったから、災害の規模が違うか。
しかし、ここで悪い目を追加で幾つか出せば、チャイナ・シンドロームに至るかも知れないわけで。

他人事のように、頑張ってくれ、としか言いようがないのがもどかしい。
これが若狭湾あたりの話だとしたら、京都までだいたい100Km。福島第一から仙台ぐらいの距離である。
僕が仮に仙台に住んでいるとした場合、こんな他人事みたいにしていられただろうか? いやまぁ、仙台に住んでいたら、まず地震の方で手一杯になっていただろうが。

2011年3月13日日曜日

弥生十三日 福島第一原子力発電所

地震直後の段階では、「死者が1000人を越えることはないと思う」と書いたが、どうも二桁ほど間違えたらしい。確かこの時点では死者がまだ百人ちょっと程度確認されたという状況だったと思う。
阪神の時にも、時間の経過と共に死傷者数が跳ね上がっていったことを思い返せば、そんな程度で済むわけはないというべきか。
正直なところ、関東や阪神の震災の時と異なり、大都市圏以外の地域で起きる地震で、これほど人が死ぬとは思わなかった。が、二万人以上の死者を出した明治三陸地震の時のように、この地方では津波による死者が多発しやすい。都市型の地震では建物が火災を起こしたり崩れたりすることで死傷者が出るが、沿岸部の場合は津波によって丸ごとやられてしまうという訳であろう。

さて、どの程度の人的被害が出るのだろうか。ちょっと想像が付かない。


昨日から今日にかけては、福島第一原発の状況がどうなるのかが関心の集まるところだった。
現状から見ている限り、国際原子力事象評価尺度でいうLv6、つまりスリーマイル島事故より酷いものになるのではなかろうか。
廃炉覚悟で海水を注入することで、格納容器外への被害を出さないようにする(格納容器が壊れるとLv7──チェルノブイリクラスとなる)わけだが、おそらく随所にひび割れなどが出来ているのだろうが、冷却水の水位を維持できないでいる。
現在出ている放射性物質は、冷却水が不足し、一次冷却水から生じた水蒸気が気密を破って出たためのものだ。気密を破ったのは、格納容器損壊を防ぐための窮余の一策らしいので、これはある意味覚悟の上でのものであり、作業側のコントロール範囲である。つまり、あまり心配は要らない。

僕が心配している問題はみっつある。
ひとつは、コントロールできなくなった場合。冷却水の供給が不可能となり、メルトダウンが起き、格納容器が壊れてチェルノブイリの地獄が再現された場合である。
言うまでもなく、最大の努力を払って食い止めようとしているのはこちらだ。そして、おそらくそれは可能だろう。海水の供給という最後の手段を打てる限り、冷却状態はかろうじてではあっても食い止められれる。

で、もうひとつは、上の過程において、どの程度の被曝が生じるかという点である。これはさらに二つに分けられる。ひとつは、圧力を逃がすために追加の蒸気放出が行われる事によるもの。主な被曝者は民間人となる。人体に対する放射線の影響は、「一般公衆が一年間にさらされてよい放射線の限度」として1ミリSv。スリーマイル島事故の時には、周辺住民の被曝量は1ミリSv以下だったらしいから、逆に言えばスリーマイル島事故程度の被害であれば、問題ないと考えて良いだろう。
で、もう一方は作業者の被曝。毎日新聞の記事によると、13日13時52分には1557.5マイクロSv(つまり1.5575ミリSv)の線量を確認しているそうな。どこで計測されたものか記事には載っていなかったが、おそらく容器のすぐ外あたりだろうか。これはすぐに下がったので、一時的に水蒸気が漏れたかどうかしたためだろう。
先ほどの被曝許容量の表によると、放射線業務従事者が一回の作業で曝されて良い線量の上限は100ミリSv(ちなみにX線CTによる被曝量は一回7~20ミリSv)。一年間なら50ミリ、三ヶ月なら5ミリ程度となるが、長期間の作業であれば交代も効くのであまり問題はない。
もっとも、一日あたりを考えると、三ヶ月許容量から単純に換算すると56マイクロSv、年間許容量だった場合でも137マイクロSvとなり、その意味では宜しくない(言うまでもないが、作業員が交替をしない場合であり、現実的にはあまり意味がない計算である)。
詰まるところ、現状程度の被曝であれば、長期間続くことが無く、適切に交替出来るのであれば問題ないといえる。もちろん、これ以上原子炉の状況が悪化しないという前提だが。
ただ、ここに至るまでに、無理な作業をしていないかどうかが気になる。していないと祈りたいところだが。

みっつめは、事後の問題である。果たして、原発に対する国民の意識はどうなるのだろうか。地震以前の時点で、すでに好感情は抱けていないという状況だった。スリーマイルの時には、この事故のためにアメリカにおける原発建設は中断を余儀なくされた。
日本の場合、東海村の事故などがあったが、あれはあくまで作業員の不手際によるものである。ヒューマンエラーに依らない今回のような災害は、ある意味防ぎようがない。こんな地震は百年に一度だの千年に一度だのというセリフは、原発が置かれた地域の住民にとっては何の慰めにもならないだろう。
電力は必要だが、原発は置けない。今回の災害で福島第一原発は幾つかの炉が廃炉となるが、その跡地に新設できるのだろうか?
よほど上手くやらないと、後始末の方が大変なのでは無かろうかと思うわけである。

2011年3月11日金曜日

弥生十一日 宮城地震

たまたま仕事を休んでおとなしくしていたのだが、京都では全然分からなかった。

正確には、東北地方太平洋沖地震というらしいが、東日本大地震とかいうらしい。
M8.9というが、それよりも最大震度7といった方が、受けるダメージを直感的に理解しやすい。
最終的に死者が1000人を越えることはないと思うが、かなりの損害が出るだろう。

この地震そのものについてより、菅内閣の延命に役に立ちそうだなというのが最初の感想だった。
ここしばらく、ガタガタだったわけだが、これで野党も総辞職を狙いにくくなるだろう。
一ヶ月程度は休戦が成立しそうである。

2011年3月7日月曜日

弥生七日 研究の見通し

研究は、遅々として進んでいない……というか、遅々として進んでいる。
つまり予定よりかなり遅れながらも、少しずつ形が見えてくるようになってきた。

現在、両淮・長蘆・両浙について、行塩数の変動を調べてきた。四川・福建・河東については、作業が進んでいる。
以上の調査において、共通して乾隆年間ごろまでには、塩引数は変化しなくなってきている。つまり両広と同じ現象が見られたわけで、清代中期ごろになると、清は官塩の積極的供給を放棄し、人口増に伴う需要については私塩に任せるようになったとする僕の仮説は裏付けが取れたわけである。

次に来るのは動機、つまりなぜ放任したのかという点だが、以前にも書いたとおり、財務及び塩務官僚にその動機がなかったためだと考えている。
この仮説を証明することはできるだろうか。一応はチェックしてみるつもりではあるが、官僚たちの不作為を証明するような史料があるとは考えにくいので、状況からの推論に頼らざるを得ないだろう。

清代中期から激化したかどうかは分からないが、清代のほぼ全期にわたって、私塩問題が悩みの種となっている。特に、清代後期には私塩が激化する。広東の例に倣うなら、人口の半分を私塩で賄うようになるのだから、そりゃ激化もするだろう。
仮に清代中期ごろから私塩が激化したのだとすれば、塩務官僚にすれば、官塩の増加など現実的な解決だとは思えなかったのかもしれない。
私塩を官塩で吸収するという発想は、例えば明代に王守仁が発案したように、必ずしも珍しくはないのだが、清代はどうなのだろう。清代後期に陶ジュが行った両淮塩政改革に、それに近い案が出ていたかもしれない。確認が必要だ。
それはさておき、一般に私塩対策が叫ばれる場合、求められるのは官塩の欠額分をいかに埋めるかという点であって、つまり財政問題である。需要の拡大した必需品の供給という観点は存在しない。一口に私塩といっても、官塩による供給分に食い込み、塩税収入を削っている部分と、官塩による供給分以外の部分とがあり、塩務官僚たちが問題にしているのは、前者というわけである。
とはいえ、私塩そのものは上記のごとく二分できるようなものではない。よって、前者の解決のみを模索しても、私塩問題が片付くわけがないのだが、そのあたりについては、王守仁のそれを例外とすれば、どうも認識が乏しかったように思われる。

官僚にとって、私塩問題とは、官塩の販売分の一部が私塩に取って代わられ、塩税収入が減損してしまうというものだった。私塩そのものも問題だったわけだが、それ以上に税収減が問題だったのである。
人口増に伴い、官塩供給量を増やすといっても、現今の官塩ですら満足に供給できていない状態で、さらに供給量を増やすことが現実的に可能なのか。
不可能ではないはずである。王守仁は塩政を変えてそれを実施した。ただし、これは明代の話であり、かつ彼が当時行っていた軍事活動の予算を捻出するために行った非常の策という側面がある。
治安が安定していた清代中期に、強大な権力を持ち合わせているわけでもない官僚たちが、自分たちの塩税徴収ノルマというハードルを上げてまで挑むべき難問ではないと考えてもおかしくはあるまい。
結果、弥縫的に私塩対策を続け、清代後期に至るわけである。財政需要が増し、より大きな塩税収入が求められるわけであり、また拡大しつつある私塩問題も解決しなければならないわけだが、陶ジュの改革なども含め、抜本的なものとはならなかった。陶ジュについてはもう一度確認しておく必要があるとは思うが、塩政の基本的な部分は変わっていないはずである。

変わらなかったというよりは、変えられなかったというべきか。塩政に限った話ではないと思うが、この時期には制度が硬直し、それを変えるにはきわめて大きな努力が必要だった。陶ジュにせよ、嘉慶帝の全面的な信任を得ていながらも、かなりの苦労をしている。まして清末になると、張謇が行おうとした改革は、ほとんど実施が不可能だった。
莫大な利権をもたらす塩業には、相応の利益団体がついている。ひとたび塩制を変えるとなると、大きな富と権力を有する彼らの猛烈な抵抗に遭うし、また末端部分で塩政を担っている人々を失業させ、治安悪化につながることになる。現実問題として、塩政の抜本的な改革などということは不可能事だったのかもしれない。

要するに、塩制を変える動機があり、変える力もあった清代前期には、塩制は変えられている。
塩制を変える動機のなかった中期には、おそらく変える力はあったのだろうが、塩政は変えられなかった。
塩制を変える動機はあったのだが、塩制を変える力のなかった後期には、塩政は変えられなかった、というわけである。


財政的な硬直という意味では、いわゆる原額主義の問題もある。
「量出制入」という財政原則は、唐代に両税法を導入して以来のものである。
唐代においては、「量入制出」の原則に立つ均田制・租庸調制が実施されていた。これは厳格な人口調査に裏付けられて実施されていた。「入るを量る」ためには、人口数が分からないと話にならないためだ。
が、戦乱で国土が荒廃していた唐初はともかく、国内が安定し人口が増加してきた中期以降になると、口分田が足りなくなって貸与を行えなくなってしまい、均田制が崩壊してしまう。
そこで両税法を導入し、「量出制入」へと財政原則を切り替えたわけである。
以来、基本的な原則は清代にまで続く。教科書的には明代後期に一条鞭法の導入によって両税法は廃止されたことになっているが、その原則そのものは清代に至るまで現役である。

さて、「量入制出」の均田制・租庸調制が人口調査によって裏付けされていることは先に述べた。で、「量出制入」の両税制の場合、人口調査はさほど重要ではない。全く人口と無関係に歳入を決めるわけにはいかないが、例えば国初などある時期において把握した人口に基づき歳入を決めれば、あとは原則として人口は増えていくため、歳入を変化させなくても問題ない(実際にはそうでもないのだが、ここでは措く)。
よって、「量出制入」を原則としている税制の場合、どうしてもその徴税額は硬直化しがちになる。
現実には、人口が増大したことにより行政上の必要も増加し、それに伴い必要な支出も増える。(ついでにパーキンソンの法則により、役人の数は必要の有無にかかわらず常に増大する傾向にあることも、支出の増加を加速させているかもしれない)
いずれにせよ、その部分は何とかしなければならないわけだが、それは正額外の税収によって賄われる。附加税のたぐいだ。
こうした財政構造については、岩井茂樹の研究に依っているわけだが、塩税においても同じことが言える。つまり基本的に硬直性の高い正額と、必要に応じて設けられる正額外の附加税による租税体系を、塩政もやはり有しているわけである。

清代後期以降の両広塩政について行った研究からも、このことは裏付けられる。正額以外に百近い附加税が存在しており、清末にはほぼ正額と同程度の規模にまで拡大していたのだ。乾隆年間あたりまでは、ほぼ正額のみだったので、実質的に倍増したといってもいい。
財政需要の高まりに応じて、官塩に課する税額を大幅に増やしていったのである。


結論としては、

(1)塩政において私塩が存在していたことは、その制度の性質上避けられるものではなく、塩務官僚もこの点そのものは問題としていなかった。彼らが問題としてたのは、私塩による塩税収入の欠損である。
(2)塩税収入そのものの増額が必要な場合は、官塩供給量の増大ではなく、塩税税率を挙げることによって賄った。

となる。これは両広塩政について観察された結論と同じであり、つまり清代中国の全土においても共通した財政的傾向であるということを意味している。



まぁ、なんというか面白みのない結論である。以前、両広塩政について書いた論文と同じ内容なんだから当然なのだが。
一言で言ってしまえば、両広塩政について得られた結論は、清代中国全体についても同じとがいえるというものである。まぁ、この結論自体は無意味ではない。中国における塩政は地域差が極めて大きいのだが、その根底部分にある原則は共通しているということになるからだ。
また、私塩というものが、反体制的行為であるにもかかわらず、その根絶が不可能であるという観察と、財政需要の高まりが官塩の税率を高め、ひいては官塩の流通を困難とせしめるという観察から、財政需要が高まるにつれ、社会の混乱が避けられなくなり、ついには王朝を転覆せしめてしまうという仮説を導き出すことが可能である。
要するに、中華帝国というやつは、放っておくだけで滅亡するということである。
もちろんこの結論は誇張しすぎている。塩税収入は財政のすべてではないし、財政的事情だけで中華帝国が滅亡するわけでもない。第一、清について言えた結論が、明や宋についても通用するかは、個別に検証する必要がある。
だが、塩税収入が歳入の大きな割合を占めていたことは事実だ。米麦による正税収入についての検証も併せて行えば、より正確な理解が可能となる。また、国家が滅亡するのは、直接的には外寇や内乱によるが、その背景には国力の低下、すなわち財政的混乱が出てくることは言うまでもない。誇張はあっても虚偽ではないというあたりである。

とりあえず塩政に話を戻せば、清代だけでなく、明代と宋代についてもチェックする必要がある。元についてはどうだろう。やはりチェックする必要があろう。
その次に、財政の検討が必要になりそうである。正直、やりたくないし膨大な先行研究もあるので、それをチェックするだけで充分だとは思うが。

あとは、通貨の問題になるだろうか。
一条鞭法にそれほど重みがあるわけではないが、明代中期以降の財政的特徴は海外からの流入銀が強く影響を及ぼしている。それは具体的にはどのように影響を及ぼしているのか。
詳述できるほどの知識はないが、少なくとも明や清の末期に行われた大規模な増税は、銀建てかどうかはともかく貨幣経済でないと不可能である。明代中期までの米建て経済では無理だ。銀の大量移入が経済規模を拡大したのは事実だろうが、それによる悪い影響もまた同様に生じている……わけだが、まぁとりあえずは別の話だな。そこまでたどり着くのに何年かかるやら。

2011年3月6日日曜日

弥生六日 ラノベの定義

舞阪洸の『鋼鉄の白兎騎士団』を読んでいる。
今のところ、七巻まで読了。

なかなかに面白い。舞台は中世ヨーロッパ風の架空世界に、うら若き美少女ばかりの騎士団が繰り広げるあれやこれ、という掃いて捨てるほどあるようなものだが、それだけに細かい部分での話の持って行き方を上手くこなしている。

鉄の棍棒と変わらないような中世ヨーロッパの剣を振り回せるのかとかはご愛敬。美少女ばかりというのは、騎士団の守護神の女神様がそういう趣味だから仕方がない。ギリシアのアルテミスみたいなものだ。
ウソ設定が入るのは、ある程度は仕方がないことであり、それに対して如何にエクスキューズを付けるのかという方が大事である。
ポイントはそういう方向でのリアリティではなく、主人公の繰り出すちょとしたトリックやなんやらで苦境を一挙挽回という……やはりよくある展開なのだが、嫌味にならない程度にどんでん返しの部分を伏せて、表にするタイミングを計っているので、読んでいて不愉快にはならない。

なんかこう書いていると、いかにもありきたりな内容の小説を、ひねくれたオッサンが偉そうに講釈付けているようであり、またそれはかなりの部分で事実でもあるのだが、エンターテイメントの本分は読む人を楽しませるという点にあるというあたりからは一歩も外れていない。
女の子の入浴シーンばかりで、ほっとんど男は出てこないし、たまに出てきても悪役か、あるいはショタ王子様だったりするあたりが何ともあざといが、あざとかろうが正義は正義である。

このあたり、イギリスのアーサー王伝説や日本の平家物語とかの、昔から様々な人々に愛されてきたエンターテイメント文学とまさに一致する。リアリズムやオリジナリティよりも、楽しいのが正義なのである。


ライトノベルという語を耳にするようになって久しいが、未だその定義するものがよく分からない。
Wikipediaにあった2chラノベ板の「あなたがライトノベルと思うものがライトノベルです。ただし、他人の賛同を得られるとは限りません。」という定義が、一番しっくり来るとおもう。要するに、定義なんて無いということだ。
まぁ、あえて僕が「ライトノベルと思うもの」の定義を挙げるなら、上でも書いた「リアリズムやオリジナリティよりも、楽しいのが正義」な小説ということになろうか。



ところで、先ほど腹筋をしてみた。あまりの運動不足で人としてどうかとか思ったわけではなく、何となくやってみただけのことである。ちなみに運動不足云々は全くの事実である。

結果、30回ほどで音を上げた。
以前、かつて弓道部に所属しており、いまでも筋トレは欠かさないという職場の同僚と話をしていて、腹筋するときに留意すべき事柄として、背筋で身体を持ち上げないということが大事だと教わった。
つまるところ筋肉とは縮むか伸びるかのどちらかしか行えないわけであり、仰向けに寝転がった状態から起きあがるには、普通に考えれば腹筋を縮める事によって、上体を持ち上げる。
が、背筋を延ばすことによっても可能である。
普通は効率が悪いのでそんなことはしないのだが、腹筋が疲れてくると、無意識のうちにそうなるということである。腹筋するときには自分の腹筋に意識を集中しろと良く言われるが、背筋を使うのを防ぐためらしい。
というわけで、それに留意してみたところ、なるほどきつい。
数年前、50回ぐらいをワンセットとして腹筋をしていた時期があったが、今にして思えば、おそらく背筋の力を借りていたのだろう。
今回は30回ほどしかできなかったが、1日に3回ぐらいなんとか続けてみれば、しばらくすれば50回ぐらいは出来るようになるだろう。出来ればどうだというわけでもないが、気分転換にそういうのも良いという気もする。

2011年2月15日火曜日

如月十五日 ダブルフィードしがちな紙

数か月にわたり自炊を行ってきた結果、ある程度知恵がついてきた。
ダブルフィードを起こしやすい紙は、薄い紙、そしてざらついた紙など。天辺がぐしゃっとなっているのもダメ。
ちなみにこの条件をすべて満たすのは、中国の90年代以前の本。やはり安い紙を使っているだけのことはある。近年出版の本は、比較的良質の紙を使っていることが多いのだが。
こういう紙の本であっても、上手くいくときは上手くいくのだが、ダメなときにはどうにもならない。
仕方ないので、一枚ずつフィーダに送ることになる。これは面倒くさいし、また時間ももったいない。とはいえ、ほかに手段がないとあっては仕方もない。
中国の本でスキャニング対象としているのは、中華書局の『明史』と『宋史』である。これはいわゆる正史シリーズのやつだが、僕が持っているのはこの二種だけである。実際のところ、正史を見る必要がある場合、中央研究院を使う場合が多いので、持っていてもあまり役に立っていない。そのくせ、それぞれ28冊と40冊という大容量なので、場所だけは喰う。研究書や資料を裁断するのはあまり気が進まないのだが、こいつらは例外となったわけである。

他にも、コミックなんかも一部の奴は裁断してしまってもいいかもしれない。文庫本タイプの奴とか。
まぁ、まだまだ部屋は片付いていないので、今しばらくスキャニング生活が続く予定である。こればかりやっていると、他の仕事に手が回らないので、しばらくサボるというのもいいかもしれないが。

2011年2月4日金曜日

如月四日 方針転換

少し、研究が行き詰まっていたことから、方針を変えることにする。
とはいっても、それほど変化があるわけでもないが。

まず、これまで行ってきた作業は、各省の府県に対する行塩数を列記し、清代中期のそれと清代後期のそれとを並べ、塩引発給数の増減を比較することで、人口の増大に対する官塩供給量の対応がなされているか否かを明らかにするという方針に基づき、行われてきた。
だが、これを進めていると、うまく行く地域とうまく行かない地域とがあることが分かってきた。
というのも、大まかな部分では調べがつくのだが、細かい部分で表から漏れている地名があったり、よくわからない理由で数字が変わっていたりするわけである。
おそらくは、精査すればそれぞれの問題点についても解消できるのだろうが、中国全土に対してそこまで手間暇をかけていられない。
かといって、都合のいい部分だけを抜き出して、こちらの結論に結び付けることは、それがおそらくは正しい結論を示しているのであろうとしても、許されることではない。研究は過程が大事なのだ。

というわけで、別のアプローチを持ってきた。
今度は、各行塩地の塩引数の増減を調べることにした。以前、清代初期の両広塩政について行った際に用いた手法である。
これも、細かい部分は史料の不整合や漏れがあったり、あるいはこちらの誤解が生じたりして、なかなかすっぽりとはまらない。
行塩数が変化するたびに全体の塩引数についても列記してくれればありがたいのだが、そこまで親切ではないのである。
が、少なくとも清代初期に塩政を開始した時の塩引数(原額)と、それぞれの史料が編纂された当時の塩引数は、当然ながら記されている。史料によっては、ある特定の時期についても記載している。
そういう数値をマイルストーンとすれば、細かい部分で不整合があっても、大体のめどはつく。
それに、こちらが行うことは、数字合わせのパズルではなく、どの時期にどの程度の頻度で、そして分かるのであればどういう理由で行塩数が変化したのかということである。
今のところ、長蘆と両淮についてその作業を行ったが、どちらもかつて行った両広と同じ傾向を示している。つまり、雍正から乾隆初年ごろまではある程度の頻度で塩引は増減していたが、清代中期ごろからは、ほとんど塩引数は変化していないのである。
あと、両浙・福建・四川と、山東・雲南・河東あたりを行えば片がつく。後三者については、いま史料がないのだが、まぁあまり重要でもないので、後回しにしても良いだろう。

この作業をよすがとして、省単位の調査とを比較すれば、おそらく楽にできる。省についてはすべてを調べる必要もあるまい。

そうすれば、次の作業となる。なぜ清代中期に塩引数を人口の増加に対応させなかったのか。
推論としては、財務及び塩務官僚にその動機がなかったため、ということになるが、直接的な史料は存在するのだろうか。不在を証明するのは非常に難しいのだが、ある程度はチェックしておかねばなるまい。たぶん無いだろうけど。動機のないことをわざわざ文章化する人間はいないものなぁ。

2011年1月28日金曜日

睦月廿九日 ファンタジー世界の財政

D&Dのゲーム世界構築のため、ちょいと手すさびに経済規模などを仮設定してみた。

今遊んでいるキャンペーンは、クランスチャンという惑星のグランビルという大陸が舞台である。
サイズは約540万平方キロメートル。アメリカ、カナダ、中国などが1000万平方キロメートルなので、その半分強というところである。オーストラリアが770万平方キロメートルなので、それを一回り小さくしたものと考えればいいかも知れない。なお、大陸北辺はシルトと呼ばれる針葉樹林帯で、ここには入植はなされていない。ここを加えればもっと大きくなる。
このシルトには、部族や村単位でゴブリンやエルフ、人間などが住まっている。
ここ数年、寒波が強まっており、これまで住んでいた地域では暮らせなくなったシルティス(シルトの住人)たちが南方へ移住し、それが混乱を引き起こし……というのが、大きな流れである。

グランビル大陸の人口は、約3000万人と設定した。
これは、かつて大陸西方のヘイストートスという都市を、「大陸最大の100万都市」などと設定したことに始まっている。ちなみに僕が高校生頃のことだっただろうか。
もう少し知恵がついてから考えると、100万都市などというものは、古代ローマとか近世では江戸・北京・ロンドンとかがあるが、中世には多分存在しない。
実際、100万都市を食わせる方法を考えるだけでも気が遠くなってくる。かなりの食糧生産能力が必要となり、相応の後背地が必要となるが、ヘイストートスを握るスィクレストン王国は、そんな巨大国家ではない。アメリカでいえば、カリフォルニアぐらいか。もうちょいあるかな。
「食糧なんて、輸入すればいいじゃない」と言いたいところだが、食糧などという重い割に値段の安い商品は、この時期の商人にしてみれば、好んで扱いたいブツではない。中華帝国クラスの強力な中央集権国家なら別だが、たとえばヴェネツィアなどはなんとか食糧を確保しようと汲々としていたぐらいである。
結局、100万都市は誇大表現で、都市周辺の人口を含むことにした。それでも大した物ではあるのだが。

これを基準にすると、大体の目処がつく。
スィクレストン王国など、仲の悪い西方三国は合計200万×3。
大陸中央に位置し、最大国家のホルニッセ帝国は、八つの選帝卿領と皇帝直轄領、光教会直轄領、西方辺境領それぞれひとつを持つ。
選帝卿のうち、東側のふたつは10年ほど前の戦争で完全に荒廃してしまっている。
というわけで、西側六つと皇帝直轄領は150万人、東側ふたつと教会直轄領は50万、西方辺境領は100万人とし、合計1300万人とした。
大陸東側のリッジウェイ帝国は、土地の広い東側が500万、狭い西側が300万、合計800万とする。
その他、亜人間各種族など、少数民族が300万人。
総合計で3000万。

この数字が多いのか少ないのか、判断に困るが、社科実情データ図録という便利なサイトがあり、ここのヨーロッパの超長期人口推移というところから引っ張ってくると、十字軍のころのヨーロッパがおおむね4000万人ぐらいだったらしい。
ただし、この世界の設定は、地球でいえば近世に入る直前から15世紀初期ぐらいを想定しているので、ペスト大流行(14世紀半ば)前のヨーロッパの人口が7000万人だったことを考えると、半数以下である。ちと少なめというところか。
しかし、この世界は150年ほど前に世界規模の大戦争を演じており、その際に人口が激減していてもおかしくないので、まぁ良いとする。

次に所得水準を設定する。
まず、農民、兵士、徒弟、貧乏な聖職者などの貧乏人、つまり平均的な人間1世帯が1日の生活に必要なカネ(というかモノを含めた価値)は、この世界の通貨で100ラートとしている。これは銀貨1枚で、無理やり現代日本円に直すと、5000円となる。無理やりと断ったのは、前近代社会と近代社会とでは、食糧のような消費財と、家具や服のような耐久消費財、武器や奢侈品などで、ずいぶんと価値が異なるためである。
ちなみに1ラートの価値は、消費財なら50円、耐久消費財なら100円、武器や奢侈品は200円で換算している。
富農、店を持つ商人、正規の職人、将校、ある程度まともな教会の司祭などが中所得層となる。彼らが自分の身分を保つために必要とする消費を行うには、200ラートを必要とする。日本円に換算する場合は100円のレートを使い、20000円と考える。
今でもある程度そうだが、ある社会階層であることを社会的に認知させるには、一定の服装や装飾品、食事や住居を持つことが要請される。ひとは他人の外見を見て、その人物を判断するのである。
で、貴族や大商人、将軍(普通は貴族と同じ意味)、高位聖職者などは、400ラート以上を必要とする。日本円に換算する場合は200円のレートを用い、80000円と考える。もちろん、上級貴族や王族となるとまた別になるが、それは措く。

で、次は税率。これは直接税と間接税の問題、階層状に形成されている各領主の取り分、教会の取り分など、かなり複雑に構成されている。
ここでは単純に、直接税のみを考えるものとし、最上位(王や皇帝。ホルニッセ帝国のみは例外で選帝卿)の取り分が10%、教会が10%、所属領主が30%とする。この数値が地球の史実に照らし合わせて妥当なのか判断が付きかねるが、5公5民なら少ないような気もする。まぁ、ここに出てくる数字以外の収入や収奪があり、そこで帳尻を付けているものとしておこう。
さて、以上の設定によれば、ホルニッセ帝国のある農民が100ラート払う場合、10ラートは選帝卿、10ラートは教会、30ラートは領主の騎士に払う。
ここで、人口100人(20世帯)の小さな村を考えよう。
騎士は、20×30ラートを得ることになるが、彼もまた収入の30パーセントを上級領主たる男爵に支払わねばならない。つまり、600ラートのうち180ラートを支払い、420ラートが手元に残る計算になる。まぁ、高貴なる身分の人間に必要な支出は、かろうじて賄えそうである。

ちょと話が脇に逸れるが、これは騎士ひとりを捻出するのに必要な最低規模をも示している。D&Dのゲーム設定では、人口20~80(4~16世帯)を集落としているが、この規模では騎士を養えないわけである。騎士ひとりを養うには100人の人口が必要である。
この数字が妥当なのかどうか、判断する材料を持ち合わせていない。そもそも、その世界における軍制(騎士の軍事的位置づけ)によって変化が出るし、当然、それを支える経済力が問題となる。貧乏人100人よりは豊かな100人の方が、養える騎士数の多いことは自明である。
ま、そういうわけで、この数字はこの世界の便宜上のものとする。この世界は比較的裕福な設定にしてあるので、この程度なら養えるだろう。

さて話を戻そう。420ラートを得た騎士だが、彼は領民のように選帝卿や教会に対して収入の10%を支払う必要があるのだろうか。
騎士が教会や王(選帝卿)に納税する義務があるのかというと、ここは微妙だ。王権や教会権の大きさや歴史的経緯に左右される。とりあえず、グランビルの諸国家では、王権は今ひとつ強くなく(少なくともホルニッセ帝国の皇帝の財政上の権力は弱い)、また教会も中世ヨーロッパのキリスト教会ほどには強くないと考えておき、騎士には納税の義務はないものとしておく。このあたりは変えるかも知れないが。
なお、仮に10%を教会に支払うとした場合、この騎士の収入は420-30=390ラートとなり、騎士身分を維持できなくなることになる。税率を上げるか、騎士を養うに足る村の規模を大きくするしかないということになるわけだ。

騎士は、180ラートを男爵に支払う。
男爵領の平均人口はどうなるのだろうか。
これも舞台によって大きく変わるのだが、かつてゲームで用いた設定で、レジオス子爵領という領土を設定した。ここはかなり裕福な領地で、4つの連隊を有しているとしている。連隊長は男爵相当(軍制については長くなるので説明しない)なので、4人の男爵がいてもいい勘定になる(実際にはひとりしかいないのだが、それも措く)。
レジオス子爵領の人口は約20万人である。つまり、男爵領ひとつあたり5万人の領民がいる計算になる。騎士数に直せば500人である。まぁ、実際にそんなに騎士がいるとは思えないが。
仮にそのまま計算を進めれば、500人の騎士が180ラートを支払えば、9万ラートとなる。うち30%の2.7万ラートは子爵に送られる。
子爵は2.7万×4と行きたいが、実際には子爵は男爵領ひとつを直轄地に持っているので、2.7万×3+9万で17.1万ラートの収入となる。
子爵の次は伯爵だが、ホルニッセ帝国においては、選帝卿に組み込まれている伯爵は子爵とほぼ同じ扱い(格だけは上)なので、この上は選帝卿(侯爵と公爵の差はない。これについても措く)になる。
レジオス子爵の上位は、オラーニュ選帝卿である。オラーニュ選帝卿の下には、レジオス子爵領以外に3つの子爵・伯爵領と、直轄領がある。つまり5つの領土があるわけである。仮にこの基準を当てはめるとしたら、17.1万ラートの収入を得た子爵は、30%の5.1万ラートを選帝卿に納めるので、選帝卿の収入は、5.1万×4+17.1万=37.5万ラート。
この計算は、一日あたりの収入なので、歳入を計算してみると、1.4億ラート。日本円換算で70億円。
これに加え、選帝卿は民が直接払う10%税を得る。このモデルにおける人口は、20万×6で120万人となっているので、ひとり10ラート支払うわけだから、一日あたり1200万ラート。一年では43.2億ラートとなる。手下の諸侯や騎士からの揚がりなんて目じゃないね。
ちなみに日本円で4320億円。あまり意味のある比較ではないが、Wikipediaによると、2005年の大分県の人口がだいたい120万人である。で、大分県の予算規模は、5904億円(2009年度)
本当なら15世紀初頭頃のヨーロッパで、人口120万人ほどの王国の予算規模を知りたいのだが、まぁ無理だろう。

こんな感じでデータを作っていると、他にも色々と想像を巡らせられる。
例えば、オラーニュ選帝卿領の常備兵力は、120万人の人口に対して12000人の騎士として表せる。これはプファルツやピエモンテなど、他の選帝卿家でも同じ事。
が、オラーニュは歩兵を重視しており、騎士ひとりに対して歩兵が約10人程度就く。つまり、騎兵1.2万と歩兵12万人をさほど無理なく動員できると設定できるわけである。
プファルツは騎士を重視しており、騎士ひとりに対して、従騎士ひとり、歩兵4人が就く。つまり、騎兵2.4万と歩兵4.8万を動員できる。プファルツの方が強いのではないかと思うところだが(いや、実際帝国最強としているが)、プファルツの歩兵はオラーニュのそれほど高い戦闘力を持っていない。これは個人戦闘能力の問題ではなく、軍制上、プファルツは歩兵を重視していないためである。オラーニュは歩兵を重視しており、弓兵として使えるよう訓練しているため、総合戦闘力としては、さほどプファルツに劣るわけではないということになる。
で、ピエモンテは騎士ひとりに対して歩兵が2人ほどしか就かない。つまり騎兵1.2万と歩兵2.4万。しかもこの歩兵はプファルツのそれ同様、騎士の護衛となる従卒として使われるので、オラーニュのそれほどの戦闘能力を持たない。
それではダメなのでは? となるが、ピエモンテはその分のカネを平時は経済活動に投じ、有事には傭兵を雇用することで賄っている。傭兵の戦闘能力は高いので、これはこれで馬鹿にならない。他の諸侯も傭兵は使うのだが、ピエモンテとは異なり、補完的に用いている。

このようにして各諸侯を個性付けていくわけである。なかなか楽しいのだが、面倒くさいのもまた事実。
これに、教会組織をどうのこうのとか、間接税や商人たちの資本移動なんかを考え出すと、面白くはあるのだが時間がいくらあっても足りないので、とりあえずこんなところとしておく。

2011年1月27日木曜日

睦月廿七日

さて、研究の方だが、あまり芳しくない。
行き詰まっていると言うよりは、単に時間をかけてやっていないというだけのことである。

思うに、一日2時間程度の割合でデジタライズ作業を続けており、これがよろしくない。

確かにそれなりの成果は出ており、現在で単行本400冊、雑誌100冊を片付けている。
スキャナを導入したのが11月上旬。いまで約3ヶ月弱経っているわけである。
つまり、一日平均5.5冊の割合で処理していることになる。一回に処理する冊数は、基本的に10冊なので、おおむね隔日作業を行っている計算になる。

で、デジタライズ作業は、それなりに神経を消耗させる。古い本だと、ダブルフィードがやたら多いのだ。
古い本は、経年劣化か本の上に本を積み上げすぎたからか、本のてっぺん部分がギザギザになってしまっており、そのためきっちりと紙送りが為されないのが原因である。
もうひとつの原因は、紙送りを重力に頼っているため、デフォルトの状態だと急角度過ぎて二枚目が送られやすくなっていることにある。
対策としては、ひとつめについては、本を裁断する際に天の部分を2mm程度切っておくことがある程度有効である。結構忘れてたり、また一見したところ綺麗な天になっているため、大丈夫だろうと思っていた本が実はダメだったりするということもあるので、油断が出来ない。
ふたつめについては、台を作ろうかと思っている。30度程度の角度を持つ台を噛ませておけば、紙送り側はほぼ水平になる。これがどの程度効果があるのかは不明だが、足下に本を挟んで軽く角度を付けるだけでも、それなりに効果があるらしいので、やはり意味はあるはずである。

とまぁ、こんな感じで現時点では結構気を使う。気を使うと漢文などと向き合う気にはなれなくなる。MPを消費するのだよ。

が、やる気を削られていた理由のひとつが年末年始の多忙にあったことは確かなのだから、2月と3月は比較的気合いを入れられるかも知れない。というか、この時期に進められないと、今年中に一本発表するという目標を達成できなくなってしまう。

というか、実の所、今年は無理かも知れないと思っている。
やはりこれまで慣れてきた広東というステージから中国全土にまで風呂敷を広げると、方法論は同じであっても、かなりの情報をこなさなければならなくなる。
まぁ、所詮は作業なのだが、作業をこなすには根性(MP)が必要なので、その根性に不足する現在は、あまり宜しくない。

かといって、本の裁断を止めるのも気が引ける。
作業を続けていて思ったのだが、部屋が少しずつ片付いていくにつれ、頭がまともに働くような気がしてきたのだ。かなりの部分までは気のせいなのだが、確かに論文や史料を発掘するのに一苦労という状態では、精神衛生に悪い。もう少し部屋のスペースと精神衛生状態の改善を図る必要は、確かにある。

差しあたりは上手く両立させてくださいとしか言えないのが残念なところ。まぁ、工夫の建て方は見えてきているので、もう少し頑張ることにしよう。

2011年1月25日火曜日

睦月廿五日

一昨年、鳩山由紀夫が首相になった時、僕は彼に対して何の期待もしていなかった。
結果は見ての通りで、近代日本政治史上、指折りの無能宰相として辞任した。
僕が彼に対して期待していなかった理由は、彼が民主党の幹事長など要職を務めていた間に、何の実績も挙げられなかったなかったためである。
こと首相になってからの彼の評価としては、「悪い意味での理想家」ということになろうか。
理想を語るのは、トップとして大いに結構なのだが、現実を見ず、また現実へのすり合わせを行おうともせず、宰相としての権力の身を行使しようとすると、酷いことになる。
どう考えてもバカではなかろうかとしか思えないのだが、これでも東大出でスタンフォードでPh.D.を取っている。専攻はORだそうで。最近、リポジトリ関係の仕事をやっていて、政治における意思決定などを対象とするゲーム理論関係の論文を見ると、微苦笑をぬぐえない。
つまるところ、自分の知識や才覚を、現実に適用できない人物ということだろう。そうした点については僕自身も大きな口は叩けないが、個人が自分の能力をどう扱おうと自由だが、公人がそれをやるとシャレにならないことがある。そういうことだと思う。

菅直人については、評価すべき実績としては厚生省の薬害事件があるが、これはトップとして組織をまとめ、成果を出させるという本道からそれた、壊し屋としての業績である。それはそれでおろそかにはできないが、これだけが業績となると、能力の方はどうだろう。やはり民主党のトップとしては、大した結果を残せていないし。
そう思いつつ、ここ一年ほど眺めてきたわけだが、ある程度の評価が定まってきた。
つまり、「悪い意味での現実主義者」である。
その時その時の風を読んで妥協を行い、現実とすり合わせて結果を出そうとするわけだが、大きな目標を定める理想というものがないため、まったく腰が据わらない。文字通り右往左往して、まったく進んでいないどころか後ろに下がっているんじゃないかと思えてくることもある。
そうしたわけで、鳩山とは違った意味でバカにされるわけである。妥協というものは、それを行った人物の評価を少しばかり押し下げる。普通は妥協を行ったことで獲得した成果により、下がった以上の評価を獲るわけだが、成果が出ていないのでは仕方がない。

チャーチルは、優秀な政治家に必要なものとして、「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、なぜそうならなかったのかを説明する能力」とを挙げたそうな。
確かに大事なことだと思う。自民党の公約にせよ民主党のマニュフェストにせよ、実現するものは多くはない。単純に力不足で為し得なかったものから、現実を直視するととてもきれいごとを言っていられなくなった(かつての社会党が陥った状況だ)ことまで、さまざまである。
問題は、なぜそれを実現できなかったかを説明し、その代案を提示することであろう。
僕が見る限り、民主党政権になってからもっとも欠けているのがこの点だ。

例えば福祉問題などは、「少ない税で多い福祉」というのが国民の要望だ。低成長の社会においては、言うまでもなく実現不可能な話である。「少ない税で少ない福祉」(小さい政治)か「多い税で多い福祉」(大きい政治)のどちらかしかあり得ない。(「中ぐらいの税で中ぐらいの福祉」というのも可能性としては挙げ得るが、議論を進めるのに何のメリットもないので捨象する。小さい政治だろうが大きい政治だろうが、実現する際には一定の妥協が行われ、ある程度は「中ぐらい」になるためだ)
どちらかを選べといわれ、ここ数年の大きな流れは、「大きい福祉」のためには「大きい税」(消費税増税)もやむを得ないという方向に流れつつあるようだ。
ならば増税すればいいわけだが、民主党は増税はしない、もしくは政治から無駄を削った上で行うと主張した。それが例えば「仕分け」や「埋蔵金発掘」として現れたわけである。
少し考えれば、仕分けで幾ばくかの無駄を省いたところで、消費税を数倍にするだけの効果を見込めるわけがないということぐらい、わかりそうなものである。まして、使えば減るだけの埋蔵金から、経常的に必要とされる福祉予算を割り当てられるわけもあるまい。
が、そうした行為は政治的には意味があったと僕は考えている。財政的には無意味だが、国民に対して、「我々はこうも頑張っているのです」というパフォーマンスを行うことは、将来的には行わざるを得ない増税という不人気な政治的アクションを行うのに、少しでも抵抗を減らす程度の効果は見込めるためだ。要するに、エクスキューズを作るためというわけである。
で、仕分けや埋蔵金では、やはり福祉予算は出ない。マニュフェストは実施できないわけだが、そこで国民に対して頭を下げ、「すみません。色々やってみましたが、やはりお金が足りません。今後も政治から無駄遣いを減らすべく努力を続けはしますが、どうしても必要な分だけは増税させてください」と訴えかける(他にも色々な政治的術策は弄するべきだろうが、そこは専門家に任せるべきだろう)。
で、増税を行う。その評価は次の選挙結果となって現れる。

と、政治には素人の僕なんかはそうするものだと思うわけだが、どうも菅首相の動きをみていると、仕分けや埋蔵金で何とかなると本気で思っていたのか、あるいは他に理由があるのか、そのままごり押しで増税しようとしているようだ。
党内は小沢問題で混乱中。野党との協議も、妥協に必要な材料を示さないのだから成立するめどは立たず、国民に対して頭を下げるという政治的レトリックすら行わない。
これでどうするつもりなんだろうか?
妥協に妥協を重ねれば、当座の問題は回避できるかもしれないが、その場合、おそらくほとんど成果を残さないことになる。で、妥協を行った相手以外からの不満は確実に高まる。
それこそゲーム理論の世界の話だが、いま菅が採っている政治的戦術方針をそのまま続けると、ほとんど点数を得ることなく、他のプレイヤーからの不満ばかり買うことになる。
冗談抜きで三月総辞職になりかねない。総選挙はとても行える状態じゃないから、自民党政権末期みたいな状態がさらに続くことになる。

他人事だったら笑える話だが、一応僕も日本というチームのプレイヤーの一人であり、他人事じゃないので笑えない。
どうなるのかねぇ。

2011年1月22日土曜日

睦月廿四日

久々に読書感想文。

鷲田小彌太『あの哲学者にでも聞いてみるか――ニートや自殺は悪いことなのか』祥伝社、2007.12

哲学にはトンと関心がなかった。今もない。philosophyの字義どおり、思考活動そのものを目的とする学問というのが、現実とどう接点を持つのか、理解できなかったからだ。
僕がやっている歴史学というヤツも、現実との接点の薄さは似たようなものかもしれないが、少なくとも僕が心がけているのは「今のこの世界は、どうして成立したのか」という問題意識を抱き、それを踏まえて研究をしようとしている。いやまぁ、その問題意識と研究とがどう接点を持てているのかとなると、また別の問題であると言葉を濁さざるを得ないわけだが。
閑話休題。この本は、サブタイトル通り、ニートや自殺をはじめとした今日的問題について、歴史上の哲学者に仮託して答えるというものである。いわゆる「なりきり」ものだ。
これが結構面白い。仕事人間であることの是非をマルクスに問う章では、マルクスが憤怒しながら答えて問答になっていないし、援助交際についてソクラテスに問う章では、「ああいえばこういう」式の議論で質問者をかえって悩ませるしと、こちらがステレオタイプに抱いている哲学者のキャラをうまく掴んで、かつそれなりに考えさせるようになっている。必ずしも結論を出さないのは、こうした問題には結論が簡単には出るものではなく、個々人の考えがその人にとっての(当座の)結論であるという観点から、この本が書かれているためだ。
大事なのは答えを出すことではなく、考えを深めることであるというのが哲学なのであれば、なるほど哲学にも価値があると思わせる内容だった。

最近はこうした本が結構増えている気がする。既存の学問が、その存在価値を問われるようになってきたが、それに対する応えの表れということだろう。
歴史学でそういう本を書く人は……あまりいないなぁ。
昔、W先生が、司馬遼太郎の著す歴史と、歴史学者の著す歴史について述べたことがあった。歴史畑の人間も含めて、誰もが司馬遼太郎の本の方が面白く感じて、歴史書を読まないというわけだ。ゆえに歴史家としては、司馬遼太郎の本よりも面白い歴史書(もしくは歴史小説)を書くべきだということになるわけだが、現実については言うまでもあるまい。ままならんものである。

睦月廿三日

最近思っていることに、日本の教育システム上の問題点というものがある。

小中高ときて、大学を経て社会に出るのが、従来型の教育とされてきた。
最近では、大学院の修士課程ぐらいはここに含めていいかもしれない。
が、職業教育としては、社会に出てから、企業が行ってきたという点は見逃してはならないだろう。

社会・経済構造が変わり、近年では、企業の側で教育投資に回すべき資金がなくなってきた。少なくとも、かつてほどお金をかけなくなってきている。
もう少し具体的に書くと、教育対象を正社員(幹部候補生)に限定し、正社員の雇用数を減らすことにより、教育費の総額を抑制しているということになる。
人事部門の能力が大して高まっていないので、幹部候補生として入社する新入社員の質にばらつきがあり、教育費を投資しても大きな効果を見込めない人間がいたり(それでも幹部候補生なので一定の出世は遂げて部下を率いることになり、問題を起こすことになる)、その一方で高い潜在能力を持っているのに、非正規雇用として社会に出たがために教育を受けられず、能力を伸ばせないままの人間が出たりしているわけだが、これはとりあえず措く。

日本の大学や大学院は、実務的な能力を鍛えるという意味では非常に問題が多い。
大学で学んだことが社会に出て役に立たない例が珍しくないというのは、本来、教育機関としては問題外である。
教える側も教わる側も、さらには将来大学生を雇用する側も、それに大きな疑問を有していないというのが現状だろう。
もちろん、口ではいろいろ言っているが、何かを変えるという段階には至っていない。大学の教員や職員を観察している限りでは、負担は増えているが成果はないという感じである。
新入大学生の質が低下しているというのは事実であろうが、大学の教育能力が低いので、質が低いままで新入社員(もしくは非正規労働者)となるわけである。
先述したとおり、企業の側も教育コストを渋るため、日本全体の労働者の質が低下していくということになる。

まとめると、

① 小中高の教育水準が低下し、大学生の質が低下。
② 大学の教育能力が低いので、大学・大学院卒業生の質は①と同程度。
③ ②のうち、正社員として採用される人間(A)と非正規労働者(B)になる人間とで二分。
④ 企業からの教育を受けるのは、(A)のみ

ということになる。多くの場合、(A)と(B)との間の移動はないため、以前より質の下がった(A)と、質的向上を見込めない(B)が、日本社会を構成することになる。
そりゃまずかろう。日本最大の資源を人間だと考えるなら、日本の資源が枯渇していくということになる。
何とかならんものかなと考えてみたのだが、うまい案は少ない。というか、そんなものがあればとうの昔に実施されているだろう。歴史上、うまい案があっても実施できない例というのは無数にあるのだが、まぁそれはそれとして。

とりあえず僕の考えられる範囲では、①についてはどうにもならない。いわゆる「ゆとり教育」がうんぬんという話になるのだろうが、教育というのは学校だけがするものではない。家庭や社会による教育というのも非常に大きい。ゆえに、ゆとり教育を撤廃しただけでは解決しない。そして、家庭や社会の教育能力を高めるのは一朝一夕には不可能である。というより、今話題にしている日本の人的資源に対する教育を改善しないことには解決しない。つまり、ここから問題に取り組もうとすると、循環論法に陥ってしまう。
③と④については、それが営利団体である企業の任意である以上、やはりどうにもならない。日本の経済的活力が高く、充分な教育コストを払っても、それがペイするというのであれば話は別だが、終身雇用制が幻想上のものとなった以上、企業としてはいついなくなるか知れないような人間に対してまで教育コストを投じる理由はないはずである。(A)と(B)の連絡がないという硬直的すぎる人事システムには改善の余地があるだろうが、これとて、必要な人材を囲い込むというリスクヘッジの結果と考えるなら、企業にしてみればシステムを変える動機にはなりえないだろう。

というわけで、大学(院)教育にいきつく。
高校から上がってきた大学生は、大した勉強もせず(本人たちの認識は異なるだろうが)、四年後に卒業していく。就職の面接で必ず聞かれるであろう大学で得られたものに、就業に役立つ技能というものが挙げられないというのは、本来あり得ない話である。
アメリカ式の「入るは易いが出るのは難い」にすればいいかというと、そう簡単なものでもない。留年者や退学者を山のように出すことになる。
が、僕はそれでいいのではないかと思うようになっている。一定の能力を習得できなければ卒業させないというのは、非常に誠実だともいえる。
本人が勉強したくないのであれば、社会に出ればいい。そしてあるスキルを必要だと感じたら、その時に大学に通えばいい。
実際、僕が見ていても、社会人上がりのおじさんおばさん学生は、相対的に熱心に勉強している。大学で身につけられるスキルの価値と、自分たちが払っている金の価値を理解できているのだから、当然であろう。
ただし、これを現実のものとするには、企業側の雇用流動性が今よりも高くなければならない。雇用しようとする人間の履歴に留年や退学があっても、それをマイナスとしない評価基準が必要になるし、雇用した人間が大学に戻るために退職するということも認めなければならない。つまり、企業による教育というのは、さらに実効性が低下することになることを覚悟する必要がある。
お金の動きという点から考えると、企業が教育コストとして用意していた部分は、おそらくは国へ吸収され、個人の教育費用として奨学金なり教育機関への助成金なりに充てられることになろう。もちろん企業は抵抗するだろうが、それは政治の問題である。
また、人事制度を今よりもはるかに流動性の高いものにしろというのも、企業としては抵抗するところだろう。たぶん、お金の問題よりも抵抗は強いだろう。
が、ここを変えないと話は成立しない。また、少しずつではあるが、学歴よりも経歴の方を重視する方向へと採用基準が変わりつつある。政治に期待すべきは、この方向性を加速するということであろう。

さすがにそれを可能とするだけの政治能力が今の日本の政界や財界に在るのかというと、疑問視せざるをえない。が、こういうシステムの改革はうまくいっている時には動機が働かないし、全く駄目になった時では改革の負担に耐えられなくなる。今みたいな傾きかけた時期のみが可能なのだが……こういう時期に立て直せるだけの活力があるのだろうか? 
昔であれば、「中興の祖」みたいなのがそうした仕事をするわけだが(というか、そうした仕事をしたから中興の祖になるわけだが)、今のような個人の力量が大きな影響を及ぼさない時代ではどうかな? 
いや、指導者の力量というのは時代を問わずに重要なので、今であっても優れた指導者がいれば、そういう方向に持っていけるのかもしれない。あまり僕は個人の力量を重視しないのだが、それも程度問題と考えるべきであって、やはり優れたリーダーは社会を変えるのかもしれない。

睦月廿二日

一応は関心があったので、ReaderやGalapagosの実物をチェックした。

感想は、「部分的には見るべきところがあるとはいうものの、全体的にはパッとしないKindleやiPadの焼き直し」というもの。

まずReaderから。
画面は文庫サイズ対応の5型と新書サイズ対応の6型のふたつがある。
これはこの手の電子書籍リーダー全般に言えることだが、ハードが揃っていても、ソフトがないとどうにもならない。
当然ながら、発売まもない現時点ではソフト、つまり本は揃っていない。
ゆえに、この方向からは何とも言えない。
ソフトとしては、電子書籍以外に自炊して制作された画像ファイルもある。僕のように、蔵書を整理して、という目的から入った人間にとっては、こちらの方がメインになる。
で、その観点からすると、読みやすく読めたら何でも構わないわけなので、問題は使い勝手の良さ如何ということになる。
評価すべきポイントは、画面サイズ・重量・インターフェイスのみっつである。
Kindleのように9インチサイズがある場合はさすがに別だが、5インチと6インチではさして変わらない。
新書が読めるなら文庫も読めるわけで、それを考えれば6インチサイズの方が良いように思える。正直、5型の存在する理由がよくわからない。それほど重量や手持ち感に違いがあるようにも思えないし。
一応スペックを書いておこう。

Reader(5型)
145.4mm×104.6mm×9.2mm
155g

Reader(6型)
169.6mm×119.1mm×10.3mm
215g

Kindle3
190mm×123mm×8.5mm
241g(Wi-Fi版), 247g(3G+Wi-Fi版)

KindleDX
264mm×183mm×9.7mm
536g

Kindleの方がやや大きくて重いが、これはキーボードや通信機能があるため。
この点については、そうした機能をすべて接続するPCに依存することで小型軽量化を果たしたReaderにも理があると思う。
問題は小型軽量化を果たしたが、値段はむしろ高めという点にあるのだろうが、Kindle3はもとより原価割れを覚悟してるのではなかろうかというような値段になっているので、そのあたりは措くことにする。ITmediaの記事によると、Kindle2の定価359ドルに対し、原価は185.49ドルだそうな。Kindle3については不明だが、それほど利益が出ていないことは想像に難くない。
また、インターフェイスについては、両サイドにページ送りボタンのついているKindleの方が明らかに使い勝手が良かった。片手で扱うとなると、ページ送りボタンが表面左寄りに配置されているReaderの場合、左手でしか不可能である。
あと、Readerはメタルフレームなのだが、これもKindleみたいに樹脂製にすれば同じ強度でもう少し軽くなったのではなかろうか。この辺りは素人なので何とも言えないが。

結論として、Kindleより先に出ていたのなら評価されるが、Kindleの後を追っている現状としては、特に評価すべき点を見いだせない、つまりKindleを持っている人間がわざわざ購入すべき品ではない、ということになる。
これが最初の機体となると話は別である。要するに、いまだAmazonが日本語版Kindleを発売していない現在であれば、これを買う人はそこそこ居るであろう。その意味では正しい時期に適当なスペックの商品であるといえる。去年の夏ごろにこれが出ていたら、僕もKindleではなくこちらを買っていた可能性が高い。

iPadとGalapagosについても、ほぼ同じ感想を持った。僕はiPadを持っていないので、詳しい評価はできないが、後を追うならもっと斬新な要素を持っていてもいいのじゃないかとは思った。
日本は新しい価値を創造するのが苦手とはよく言われてきたことだが、まさにそれを実感した感じ。たぶん、数年内に韓国か中国でもっと安い機体が出るんじゃないかなぁ。

2011年1月20日木曜日

睦月廿日

なお、今回の記事はやたら長いうえに内容がない。一応警告まで。


別に第二次大戦期に限った話ではないが、ある程度歴史やら戦史やらを齧った人間なら、ifに関心を持つようになる。
言うまでもなく、歴史にifを持ち込むのは禁じ手である。なぜかというに、何ら生産的ではないからだ。
ただしふたつの例外がある。ひとつは「可能性を検討する」というもの。これは歴史学でもアリとされている。
例えば日本の鎖国を評価するのに、「もし鎖国しなかったなら」というifを設けて思考実験を行うことは、それなりに有意義である。肯定否定それぞれの評価が下されることになるが、鎖国した時期及びその前後の日本(と世界)を検討するのに有用な役割を果たすことになろう。
もうひとつの例外は、はなっから有益かどうかを考慮せず、単なる妄想を楽しむ場合。妄想なんだから生産的であるかどうかは問題外である。

いわゆるシミュレーション小説・ゲームなどにおいては、後者が重視される。シミュレーションという意味では前者を重視しても良いはずで、古典的なシミュレーションゲームでは比較的こちらを重視する(おかげでゲーム性に問題が出ることも往々にしてあるが、ここでは措く)のだが、エンターテイメント性の強いゲームでは、あまり問題としない。特に昨今のゲーム業界では、前者を重視するタイプのゲームは、覿面にクソゲー呼ばわりされること必定である。
まぁ、シミュレーションそのものを楽しむことは、想像力や知識などの面においてかなりの水準が要求されるので、こちらを重視する勢力が相対的に少数派たることは仕方ないのだろう。


さて、ここまでが前置き。
年末ぐらいから色々と蔵書の電子化を進めてきたわけだが、佐藤大輔の小説なんかも大半を電子化し、久しぶりにそれらを読んでいた。
で、僕も妄想してみようと思ったわけである。

お題は、「太平洋戦争で日本が戦術的勝利を収め続けた場合、どうなるか」。
開戦時点で日本に勝ち目がなかったことは、この分野に少しでも関心のある人間なら常識の範疇に入るであろうが、それはどこまで捻じ曲げられるだろうか。
実を言うと、hoi2の架空シナリオを作るためのネタである(本当に作るかどうかはまた別の話)。「なんかの間違いで日本が勝ってしまった世界」で、1940年代後半から50年代前半ぐらいからゲームを始めるとしたら、どういう設定が必要になるかを考えてみたわけだ。

定番としては、ミッドウェーで日本が負けたというのがある。
繰り返すが、大戦略というレヴェルでは、日本はすでに負けているのだが、そこは目をつぶっての話である。
しかし大戦略的環境(日本の総合的な国力)を無視するわけではない。
ゆえに、ミッドウェーで「運命の30分」とやらをもみ消すこととしても、当時の日本海軍の状態からして、その次かそのまた次あたりで大敗北を喫するはずと考える。ミッドウェー海戦で敗北したことはある意味偶然の産物だが、1942年中ごろ(遅くとも後半)に日本が大きな敗北を喫することは、ほとんど必然と考えていい。戦略目標の欠如、情報への関心の低さ、戦力回復能力の低さ、軍上層部の慢心などを考えると、他の結論は出ない。

そこで、南雲司令長官には一足先にミッドウェーを味わっていただく。
具体的にはミッドウェーの二か月前、セイロン沖海戦にて、イギリス軍の空襲が「偶然に」成功し、甲板に飛行機を並べた《赤城》は大破し、第一航空艦隊司令部は機能を停止する(南雲と源田は重傷、草鹿は戦死の判定)。
ちなみに史実では空襲はあったものの、機数が少なすぎ、攻撃機の能力も低すぎて被害はなかった。逆に、一発入ればミッドウェーと同じことになった可能性もあった。
こうして、以降は南遣艦隊司令長官の小沢治三郎が指揮を執る。そして作戦後、その時点で南遣艦隊は概ね任務を終えているため、小沢はそのまま一航艦長官へ横滑りするものとする。史実だと小沢はこの年の11月まで南遣艦隊の指揮官で、それから第3艦隊司令長官に転出するのだが、半年ばかり早まるわけである。

で、ミッドウェーだが、《赤城》が失われたため、アリューシャン攻略は中止され、4航戦の《隼鷹》・《龍驤》が参加する。
展開そのものは同じになるが、ミッドウェー第二次攻撃用の爆装が行われた状態で敵機動部隊を発見した時、山口多門だけでなく同じくらい戦闘的な角田覚治からの意見具申により、南雲よりは航空戦における時間の重要性を感じている小沢は、航空隊を出撃させる(逆に航空戦に通じているがために、正規の装備を整えることを重視する可能性もあるが、そちらは黙殺する)。
もちろん空襲を受けるわけで、そのために《赤城》の代わりの位置にいた《隼鷹》と、《加賀》・《蒼龍》は中破する。が、誘爆は起きないので、ある程度の復旧は見込まれる。
そして爆装した攻撃隊は《エンタープライズ》・《ホーネット》の甲板を叩き、一時的に発着不能とする。
そして《飛龍》・《龍驤》搭載機を中心とする第二次攻撃隊により、《ヨークタウン》大破(のち潜水艦攻撃で沈没)。
結局、空母戦力の消耗を鑑みて、スプルーアンスは撤退を決意し、ミッドウェーは本隊到着を以て占領される。

以上が妄想上のミッドウェー海戦である。この結果、一時的に太平洋から米軍の空母戦力が消滅することになり、日本軍はFS作戦を実施、また米軍はガダルカナル上陸に始まるウォッチタワー作戦を順延することになる。
また、空母の攻撃力と脆弱性を鑑み、改マル5計画においては、改飛龍型(のちの《雲龍》型)ではなくて甲板装甲を有する改大鳳型およびG14型の建造に集中することになる。

FS作戦は、大小の海戦を繰り返し、それなりの損害を受けながらも順調に進み、42年末には完遂される。
しかし、米豪分断というFS作戦の目的は達成されない。やる気になっている連合国がオーストラリアを手放すわけがないのだ。

で、 43年は、南太平洋においては数次の大規模海戦が行われ、またポートモレスビー攻略作戦も進行する。イニシアティブを失うことが敗北への転落を意味すると承知している山本五十六は、かなりの損害を出しつつも攻勢を続け、隔月建造の勢いで空母を投入する米軍も、戦力の逐次投入の愚を承知しながらも部隊を展開し、出血を続ける。
こうして8月にはポートモレスビーも陥落するが、陸軍は伸びきった戦線を維持するため、ビルマ方面から戦力を引き抜くことを余儀なくされる。
また、9月にはイタリアが陥落し、ヨーロッパの戦局が改善するため、オーストラリアは講和に応じない。
艦隊を動かす重油がほぼ払底してしまった日本海軍は、別の方向からオーストラリアを屈服させるべく、連山を戦略爆撃機として用いるため開発を急がせる。また、航空戦力の消耗の激しさを補うため、ドイツが降伏したイタリア艦艇に用いた対艦誘導兵器の入手に腐心するようになる。
燃料の底がついた日本軍と戦力を損耗させてしまった米軍のどちらも、43年の後半は活発には動かなくなる。
なお、10月にはミッドウェーを奪還される。どのみち兵站が続くわけがないので当然である。同様にフィジーやサモアも放棄が決定される。連合艦隊は嫌がるだろうが、無い袖は振れない。
ちなみに、連合軍潜水艦による通商破壊戦は、史実と同様の展開である。つまり、ちまちまと攻撃を受けている。ガダルカナルの大消耗がないので、損害そのものは低いのだが、兵站が伸びている分、攻撃される可能性も増えているためだ。こうして11月には海上護衛総司令部が設立されるが、兵站が伸びている分、史実以上に苦労の多いことになるだろう。

日本が戦争のイニシアティブを失い、米軍の反攻が始まるのは44年が明けてから。
それを予想していた日本軍は、こつこつと蓄えてきた燃料備蓄を取り崩し、マーシャル沖での迎撃戦に挑むが、この時点で戦力バランスは米軍の方に傾いており、4月にはマーシャル諸島を失うことになる。史実より、約半年遅れというところか。
なお、ミッドウェー喪失の時点で島嶼防衛の重要性に気付いた日本は、マーシャルの防備に取り掛かったのだが、間に合わなかった。引き続きマリアナ諸島の防御に力を入れることになる。
なお、7月にはドイツの機密資料を多数積み込んだ《伊29》が日本に到着する。史実では台湾海峡付近で沈没しているのだが、まだ日本がマリアナ諸島やフィリピンを抑えているため、米軍潜水艦の攻撃は史実ほど深刻ではない。
なお、中国戦線では史実通り一号作戦(大陸打通作戦)が実施されている。大陸からのB29空襲は、やはり一定の脅威ではあったためだ。が、インパール作戦は行われていない。ビルマ方面の戦力がニューギニア方面へ引き抜かれていたため、守勢を保つことが肝要(というか他に方法がない)であると、ビルマ方面の指揮官だった牟田口廉也が考えていたためである。

米軍は数か月の準備を整え、ラバウルとトラックの航空戦力を叩いたうえで、サイパン上陸を狙う。
10月、史実より5か月遅れで行われたマリアナ沖海戦は、双方の海上戦力をすり潰すような激戦となる。が、このころまで何とか高い練度を有していた日本の航空戦力と、試験的に投入された対艦誘導弾「桜花」(ドイツのフリッツXの改良型)などの活躍もあり、かろうじて米軍を追い返す。ちなみにこれまでの消耗もあり、米軍機動部隊は史実ほどの陣容を擁してはいない。

上陸部隊を壊滅させられ、ニミッツは解任はされなかったものの、大きく発言力を減じることになる。代わりにニューギニア、フィリピン方面への攻勢を主張するマッカーサーの立場が強化される。
またルーズヴェルトは44年末の大統領選には勝利するが、史実ほどの圧倒的優勢ではなく、むしろ僅差の勝利といえる結果だった。

11月には日本軍はガダルカナルを放棄する。また2年半にわたって空母戦力を率いてきた小沢は軍令部次長に転任し、後任には中将に昇進した山口多門が就くことになる。
こうして45年を迎えた。

連合艦隊の主力は大きく戦力を減らし、これまで極力消耗戦を避けてきた航空部隊の練度もそろそろ低下しつつある。燃料不足も大規模戦闘の度に備蓄を失うので、充分とは言いかねる状況にある。
空母による殴り合いをなるべく回避するため、マリアナ沖でなかなかの成果を上げた対艦誘導弾の開発に力を入れることになった。マリアナ沖で投入された桜花11型は無線誘導で、着弾まで追随する必要があったため、VT信管付き対空砲弾を投入するようになった現状では損害が大きすぎた点が改良の要である。
かくして、国内で研究がすすめられていた赤外線誘導装置を搭載し、また搭載母機を一式陸攻から銀河に変えた22型が開発され、さらに開発は完了したものの使い道を失って宙ぶらりんだった連山に搭載する32型なども開発された。
赤外線誘導は母機が危険にさらされないというメリットがあるが、細かい誘導が出来ないというデメリットもある。強い赤外線を発する標的を狙うので、特定の大型艦に攻撃が集中してしまうのだ。時速800㎞で突っ込んでくる1.2トンもの弾頭の力をもってすれば、空母なら2発も喰らえば戦闘力を失ってしまうので、それ以上は無駄である。戦艦に対してはあまり効かないだろうけど。
いくら桜花の生産が簡単であるとしても、数を作るのはかなりの手間が必要であることも問題だった。いまだ国内が安泰なため、研究能力も十全を発揮できてはいるが、それでもこの時期の日本には手に余る代物だった。

が、アメリカの方も頭を悩ませていた。確かに日本海軍の力は減じつつあるのだが、決定的な差が出来ない。個々の戦闘において痛み分けに近い結果が続くため、総合力に勝るアメリカが最終的に勝利することは疑いない。
しかし、そこに至るまでの損害が問題となっていた。この時期、ヨーロッパ戦線はほぼけりがつく状態になっており、ドイツの降伏は時間の問題だった。
一方で太平洋戦線は思うようには進んでおらず、大統領と海軍が批判される結果になっていた。

ニューギニア攻略と次のフィリピン攻略へと歩を進めるべく2月より行われたラバウル・ポートモレスビー攻略戦では、連合艦隊総力と桜花を装備した連山の群れが、再建を果たした米軍に襲い掛かり、双方が壊滅的な損害を出した。
だが、桜花をまとめて喰らった米空母は、いかに間接防御力を発達させたエセックス級であってもまず沈んでしまう。一方で、《大鳳》・《信濃》などの重防御空母を前衛においた日本側は、戦力的には劣勢でもかなりの攻撃に持ちこたえるし、また戦闘後の回復も比較的早かった。が、それ以外の従来型空母はほとんどその姿を消していた。
凄惨な流血の末、3月にラバウルが、そして6月にポートモレスビーが陥落し、ようやくオーストラリアの脅威を除いてフィリピンへの道を開いたのだが、まだマリアナは戦力を保持している状態だった。つまり、史実より1年遅れていることになる。
それでも、逆に言えば1年かけてマリアナ・フィリピンを攻略すれば、日本本土への空襲や潜水艦攻撃を行うことが可能となる。いや、連合艦隊がほぼ戦力を喪失していることを考えると、それより早いかもしれない。

が、そうした見込みは、別の方向から崩されることになった。
2月に行われたヤルタ会談で、ドイツ降伏後に参戦することが決まっていたソ連が、史実通り8月9日に参戦し、満州を席巻した。
千島列島への攻撃は、再編中の日本海軍によって大打撃を受けて失敗したが、関東軍は後退を続けることになった。
日本軍は虎の子の連山を兵站攻撃に投入し、ソ連軍の前進を遅らせようとしたが、日本陸軍の再配置が完了し、ソ連軍の勢いを抑えることに成功した9月の時点で、朝鮮半島北部、そして山海関以北は全て喪失していた。

ここで、日本は連合国との講和への動きを本格化させた。
正確には、ラバウル失陥の責任を取って総辞職した東條内閣の後任となった鈴木貫太郎は、比較的早い時点から和平の可能性を探っていたのだが、連合国の対応は芳しくはなかった。
また日本側も7月に出されたポツダム宣言を、表面的には黙殺していた。
だが、ソ連の参戦を受け、事情が変わった。
ソ連に対して比較的宥和的だったルーズヴェルトが4月に死去し、後任となったトルーマンは、ソ連の勢力拡大を懸念していた。
このままでは、一年をかけて日本を屈服させる前に、ソ連の手で降伏しかねない。そうなると後れを取ってベルリンを奪われたドイツの二の舞となる。
チャーチルの後任となったアトリーも、ソ連の勢力拡大を望まなかった。
さらに、アメリカ国民がこれ以上の犠牲を望んでいなかった。

かくして、45年12月24日、ソ連を除く連合国各国(代表として米英仏蘭中)と日本との間で、オアフ停戦条約が調印された。条件は、南洋諸島を除く第一次大戦での獲得領土・中国からの獲得領土の返上、満州国解体、朝鮮独立。つまり、日本が日清戦争以降に築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄する。ハルノートよりさらに踏み込んだものである。
そして翌46年2月15日、ソ連をはじめとするオアフ条約非調印国を含めたウラジオストク停戦条約調印。こちらで焦点となったのは、北半分を占領された朝鮮半島の扱いだった。将来的な朝鮮の独立を約束するが、暫定的に朝鮮半島における38度線を分割ラインとし、北側をソ連の所轄、南側を日本の所轄とする。将来的には統一し、信任統治を行う方針で合意。

こうした和平に対し、米軍の一部と中国政府では抵抗があった。特に国民党政府は日本の軍事力に制限を加えるよう求めていた。
が、アメリカ政府では対日から対ソへ仮想敵をシフトさせていたことと、大戦中の国民党政府のふがいなさと腐敗に愛想を尽かしており、かつ中国側もろくな人脈を持っていなかったことから、大きな発言力は持たなかった。また、どのみち制限するまでもなく、日本の軍事力はしばらく回復しそうにないと判断されていた。
なお、中国共産党は特に抵抗することもなく停戦を受け入れている。彼らは次の内戦へ目を向けていたためだ。日本が影響力を失い、連合国の手も届かないのであれば、ソ連からの潤沢な支援を受け取れる彼らの方が圧倒的に優勢である。

そして日本は、戦争に敗北しなかった。国家の存亡を勝利条件とするなら、むしろ勝利したといえる。
が、国内から崩壊しそうな状態だった。
多数の熟練労働者を徴兵された産業は体力を失い、また生産の内容も軍需産業へ偏りすぎていた。
植民地もすべて失ったため、資源の安定供給も見込めない。
四年を超える総力戦を戦い抜いた軍は、特に海軍は壊滅状態だった。
開戦前に600万トンに達していた商船団は半減していた。

差し当たり200個近い師団を動員していた陸軍は、十分の一以下にまで縮小する必要がある。
だが海軍の方は、特に問題ない。何せフネが残っていないから。
最後まで生き残った大型艦は、戦艦は《大和》・《武蔵》。空母は《翔鶴》・《瑞鶴》・《加賀》・《大鳳》・《海鳳》・《蒼鳳》・《信濃》。いずれもかなり損傷しており、長期の整備が必要となっている。特に老朽化した《加賀》は、解体した方が早いかもしれない。なお、改大鳳型が1隻、G14型が2隻ほど建造中だったが、いずれも資材不足のため工事は進捗していない。
重巡や軽巡はほぼ全滅している。すり潰されてしまったのだ。
駆逐艦も似たようなもので、戦前からの特型や甲型はほぼ姿を消している。秋月型や松型ばかりである。
潜水艦もほぼ壊滅。
大戦中盤からの海上護衛戦の主役だった海防艦などは多数残っているが、その大半は戦時急造型で、戦争が終われば予備艦となるか解体される運命である。

まとめてみると、確かに日本は生き残ったのだが、軍事大国としては生き残りようがない状態になっていた。
まぁ、植民地が無くなったので陸軍は必要なくなったが、海上交通路の覇権を争うべき海軍は、その根幹は残ったにせよほぼ一からの再建が必要となる。
太平洋の覇者となったアメリカが日本に対して特に好意的になる理由はないので、これからの日本は、史実以上に苦しいことになるであろう。
これまでの方法ではどうにもならないし、「勝てなかった」軍の発言力もかなり損なわれてしまっているので、これから当分の間は通商と外交で生きていくしかなさそうである。
加えて、おそらくは民主主義と共産主義の影響力が強まるはずである。

だが、アメリカの方も手放しでは喜べない。結局、「海軍の戦い」では日本に勝てなかったわけで、「陸軍の戦い」でドイツに勝利したことと比較されると、どうしても海軍の発言力が見劣りすることになる。
また、そもそも日本と争うことになった原因のひとつだった中国への権益は、戦争を終えても手に入らずじまいだった。むしろ、戦争末期になって参戦してきたソ連の影響力が増す結果となっている。

かくしてスターリンが漁夫の利を占めることになった。東アジア方面において、史実よりもより強力な立場を持てたためだ。朝鮮半島南部には日本が影響力を有する朝鮮人民共和国(史実ではすぐに消滅した。大韓民国の母体の一つ)が発足したが、親日・親米両派の争いや共産主義勢力の伸張などにより、あまり頭を悩ませることはないだろうと考えられる。
中国についても、近い将来、中国共産党による勝利がもたらされることだろう。


……とまぁ、こういう感じである。ちなみに世界中が民族主義のうねりに巻き込まれだす50年ごろに「ドイツ戦争」が起きて、東西が第三次世界大戦へと突き進む予定である。
日本はどちらからも距離を置く立ち位置にいるので、表向きは蚊帳の外、その裏側では戦時中から培ってきた親日民族主義勢力への支援を行い、東南アジアの独立を支援することになるかもしれない。
そういうふうに表現すると悪くなさそうだが、肝心のカネがないのが問題となる。史実と異なり、西側ブロックの金融力を当てにすることはできないためだ。
下手をすると、貧乏なまま共産主義革命が起きるかもしれない。

いずれにせよ、ひどいものである。文字通りの「火葬」戦記といえる。国土そのものはあまり酷いことにはならなかったが、連合艦隊はほとんど燃え尽きてしまった。たぶん、史実の日本より悪い状態で戦後という時代を歩むことになるのではなかろうか。史実とは異なり、西側からも東側からも嫌われている状態なので。
うまくいったとして、軍部独裁体制から民主主義へのゆるやかな路線転換。悪い場合は共産主義革命。もしくは軍部による反クーデタ。後者の方が悪いかな。
もちろん、第三次世界大戦が飛び火してキノコ雲がたつというデッドエンドもあるが、まぁそれは仕方がない。人類滅亡みたいなものだし。
ただ、1949年に核実験に成功したソ連が、1950年代前半において、日本にまで核攻撃を仕掛けられる可能性はあまり高くなさそうだ。

こういう妄想はやってみると結構楽しいものだが、妄想以上のものではないことを強く感じるようにもなる。何せ、ある程度真面目に検討すると、ほとんどの場合史実より悪い結果になる。
考えてみれば当たり前の話で、現実だと必ず起きる「都合の良い偶然」は起きず、「都合の悪い偶然」は概ね起きる。前者は記録上存在しないが、後者は記録上存在するのでこうなるのは仕方がない。
また、現実において様々な戦略を立て、戦術を遂行していた人々は、僕よりもはるかに高い能力を持った人々である。例えば今回、米軍の反攻戦略を史実のそれに近い「飛び石戦略」で組み立て、史実よりも強力な抵抗を受けたことにより失敗させて、マッカーサーの陸路戦略に切り替えさせたが、本職の高級参謀たちなら別の戦略を立てていたかもしれない。ポートモレスビーやラバウルをいちいち占領せずに無力化するにとどめ、フィリピンをまっすぐ狙うとか。
アメリカが対日勝利をあきらめた理由として、米軍の進行速度の遅さと損害に比してソ連の侵攻が速やかだったことが挙げられるが、45年初めごろまでにフィリピンの制海権を握れば、日本の海上交通路は干上がってしまう。マリアナ諸島を攻略せずとも、日本を降伏に追い込むこともできたかもしれない。

このように妄想の上に妄想を重ねて出来上がった仮想世界にKaiserreichなんかがあるが、ああいうのはなかなか大変なものだと思う。
こちらもこの妄想世界をさらに推し進めて第三次世界大戦にまで持っていければ良いのだが、まぁそれまでに飽きてしまいそうだ。

2011年1月8日土曜日

睦月八日

年末年始も、あまり休めなかった。

大みそかには実家に戻り、恒例のボードゲームを行った。
お題は『Civilization』。正確にはそのアドヴァンス版。
Civというと、今では『Sid Meier's Civilization』の方が圧倒的に知名度が高いが、こちらもボードゲームでは古典の名作である。一応PCゲーム化もされている。

日本語訳なんて気の利いたものは付いていないのだが、ずいぶん前に『Tactics』誌で翻訳ルールが掲載されており、それを便利に使っている。ただし、この翻訳はかなり出来が悪く、誤訳がかなりあるので、怪しい部分は原文を参照するべきだろう。
僕らにとっては数年ぶりのプレイだが、だいたいは覚えていたのでそれほど問題はなかった。
問題は、プレイ時間が長すぎることである。
最後までやろうものなら、二日ぐらいかかるのが普通だったので、五時間程度のプレイ時間では結構きつい。
まぁ、出来るところまでやろうということでゲーム開始。

僕はエジプト。
まさやんがアフリカ(つまりカルタゴ)。
かずやがイリリア(つまりローマ)。
もりりんがトラキア(つまりドナウ河あたり)。
noriがアッシリア(というか事実上のトルコ)。
ヤスがバビロニア。
そして電気屋がクレタ。

かずやは初プレイとなる。ランダムで担当国を決めたのだが、あまりバランスは良くない。
具体的には、ヤスが僕を目の敵にして殴りかかってきやがった。

noriとは速攻で手を結んだので、本来最大の敵となる北辺はほぼ無防備で構わない。こちらもまさやんとは手を結んだのだが、どのみちアフリカはエジプトと手を結ぶしかないので、あまり旨みはない。まぁ、すぐに寝首をかきに来るようなヤツが背中にいる場合を考えると、非常に都合がよかったと思うべきだろうが。
ゲーム中、バビロニアとエジプトは一・二を争う大国である。言い方を変えると初心者向き。
だが、蛮族モードになったバビロニアの侵略を迎え撃つとなると、エジプトの方も大変である。というか、バビロニアじゃなくてヒッタイトだろ、これ。
主戦場はシナイ半島となる。これは紀元前4k年も紀元後2k年も大して変りはない。
もうひとつの戦場は紅海沿岸。ここはほとんど砂漠なのだが、ここを抑えられるとナイル河上流部の心臓部を叩かれかねないので、死守しなければならない。
基本的に砂漠地帯で多数の兵力を動かせないため、一度都市にしてしまえば簡単には攻略できない。もちろん、増援もあまり望めないので、あまり変な位置に都市を造ることもできない。というか、変な場所には都市を作れるだけの人口を送り込めない。
結局、南パレスチナ方面の都市は迂回し、シナイ半島および紅海沿岸で激戦が繰り広げられることになったわけである。
ただし、このゲームは人口数の少ない方が手番が後になるので、慎重にユニットを動かせば、あまり問題はない。次のターンぐらいまで読めれば何とかなるのだ。寄せ手は第兵力が必要になるので、必然的に手番も先になる傾向があるのだ。
もっとも、このゲームの肝はランダムで発生する災害にあるので、こちらの予想を覆されることは往々にしてある。
というわけで、エジプトあたりの陸軍国家の定石なら「神秘主義」→「土器づくり」のところを、少数精鋭の海軍国家向けである「帆布づくり」→「金属精錬」となった。どこのクレタだ。
必死で都市数を死守し、交易カードを集めてここまで乗り切ると、ロクに都市化もできていないバビロニアではやはり勝てなくなる。というわけでヤスは諦めた。

一方、西方ではアフリカとトラキアがイリリアを挟撃する形になっており、かずやは苦しんでいた。イリリアなら速攻でシチリアにまで足を延ばしておきたいところなのだが、初心者だと一歩遅れてしまう。
まさやんは後背のエジプトを心配しなくても良い状態だったので、安心して速攻を掛けられる。シチリアを抑えてしまい、相手のすきを見てサルディニアなども攻略する。
イリリアが気を取られている間に、トラキアが背後から忍び寄ってモエシア(ドナウ河流域)の穀倉地帯を奪っていく形になった。

結局、中盤からは東方ではほとんど戦争が起きなくなったため、順調に文明が進んだ。
災害には見舞われるが、もとより地力の高い地域なので、すぐに回復する。
最後の方で災害カードの連打に見舞われ、疫病と内戦となにかもうひとつ(他にもあったが、災害の上限は3つまで)を喰らって、国力が半壊してしまったが、それでもかき集めていた財力にものを言わせて集めた文明カードのおかげで、タイムアウト時のトップは僕だった。
もう一時間ぐらいやっていれば、ほぼ完全状態にまで持ち込めたかもしれないが、まぁこんなところだろう。

こんな感じで大みそかは終わった。


元旦を迎え、夕方になると、T先生から電話が。
パソコンが動かなくなったのだと。
二日に、ご自宅にまで伺いますのでと返事をする。


二日。先生宅にまで行き、様子を見てもよくわからない。
というわけで八条のソフマップにまで持って行き、チェックしてもらうと、今度は動く。
こういうのは釈然としないものだが、よくあることである。
再び持ち帰り、電源周りを整理すると、動いた。
たぶん、タコ足配線による電力不足だと思うが、断言できないのが頭が痛い。
ソフマップで買ってきた外付けHDにPCのデータ部分をコピーし、これをバックアップとするように心がけてもらうことにした。
バックアップは色々と面倒が多いのだが、やらないと後悔するので困る。苦労の少ないバックアップ体制となると、RAIDを使ったりオンラインストレージを使ったりすることになるのだろうが、そこまでは僕も経験がないし、データ量自体がそれほど多くはないので、原始的な手作業が費用対効果の面からは一番良いのかもしれない。


三日は疲れ果てて寝ていた。
四日から仕事である。
そして現在に至る。
ちなみに明日は休みだが、あさっては激務が予想される。今週が山だろうなぁ。