さて、地震そのものへの対策はそろそろひと段落し、復興への道筋をつけるべき時がきた。
これにともない、政治休戦も終了し、イニシアティブ争いが始まっている。
民主・自民の双方とも、そしてその他の少数政党とも、復興そのものの必要性では一致しているわけだが、それをどのように、そして誰のイニシアティブにおいて実施するべきか。
民主というか、管内閣は、自民との大連立を行い、新設の震災対策などを自民の閣僚に任せ、内閣の大枠は変えないという方針を狙っているようである。
自民はそれを蹴った。連立するにせよ、管内閣のもとでは行えないと主張し、首相を自民党から出せと主張している。
もとより民主党よりは自民党の方がましだと考えている僕だが、それにしても管内閣の方針は虫がよすぎるように思う。
震災復興だけ丸投げされても、それをバックアップすべき財務・国交・経産などが民主の手元に残されたのでは、はしごを外されるリスクが高すぎる。というか、これまでにもろくに調整能力を果たせていない管首相に、そのあたりを期待できるわけがない。
というわけで、この提案が出た時、僕は民主(というか管直人)にやる気がないか、もしくは真性のお花畑状態になっているかのどちらかだと思った。彼については、前任者ほど知的能力に欠けているわけではなかろうと評価しているので、実態としてはこの間ぐらい、つまり「上手くいけばいいなぁ。行かなくても、それは提案を蹴った自民の責任だし」ぐらいじゃないかと思っている。
前にも書いたが、彼は悪い意味での現実主義者であり、明確な選択肢を設定し、どちらかを選択した上でそれを追求するという方針を決して持てない人間だと評価している。
よって、自分の側から思い切った譲歩を行い、大きな成果を上げるという政治的術策を実施するには向いていない人間であろうと考えている。
自民の側についてはどうだろう。首相をはじめとする重要閣僚をよこせとなると、相手に飲めるはずもないことは承知しているだろう。特に首相職を与えると、好きな時に内閣解散を行える。今総選挙を実施すれば、民主はひどいことになるだろう。
ゆえに、民主はそれを飲めない。その上で首相なり重要閣僚なりのポストを与えて自民を取り込むというような大技を企画し、実施できるだけの力量を持つ人物となると小沢一郎ぐらいのものだろうが、彼は党内の対立の余波で動ける状態にない。あるいは水面下で画策しているのかもしれないが。
結局のところ、統一選が終わって現時点の各党の支持率を確認したうえでないと、次の手は打ちづらいのだろう。民主と自民は大連立を組むか否か。大連立を組まれるとなると影響力をほとんど喪失する少数政党は、いかにしてそれに反対するか。
明日以降、それが加速するのではないかと思っている。
2011年4月9日土曜日
2011年3月11日金曜日
弥生十一日 宮城地震
たまたま仕事を休んでおとなしくしていたのだが、京都では全然分からなかった。
正確には、東北地方太平洋沖地震というらしいが、東日本大地震とかいうらしい。
M8.9というが、それよりも最大震度7といった方が、受けるダメージを直感的に理解しやすい。
最終的に死者が1000人を越えることはないと思うが、かなりの損害が出るだろう。
この地震そのものについてより、菅内閣の延命に役に立ちそうだなというのが最初の感想だった。
ここしばらく、ガタガタだったわけだが、これで野党も総辞職を狙いにくくなるだろう。
一ヶ月程度は休戦が成立しそうである。
正確には、東北地方太平洋沖地震というらしいが、東日本大地震とかいうらしい。
M8.9というが、それよりも最大震度7といった方が、受けるダメージを直感的に理解しやすい。
最終的に死者が1000人を越えることはないと思うが、かなりの損害が出るだろう。
この地震そのものについてより、菅内閣の延命に役に立ちそうだなというのが最初の感想だった。
ここしばらく、ガタガタだったわけだが、これで野党も総辞職を狙いにくくなるだろう。
一ヶ月程度は休戦が成立しそうである。
2011年1月25日火曜日
睦月廿五日
一昨年、鳩山由紀夫が首相になった時、僕は彼に対して何の期待もしていなかった。
結果は見ての通りで、近代日本政治史上、指折りの無能宰相として辞任した。
僕が彼に対して期待していなかった理由は、彼が民主党の幹事長など要職を務めていた間に、何の実績も挙げられなかったなかったためである。
こと首相になってからの彼の評価としては、「悪い意味での理想家」ということになろうか。
理想を語るのは、トップとして大いに結構なのだが、現実を見ず、また現実へのすり合わせを行おうともせず、宰相としての権力の身を行使しようとすると、酷いことになる。
どう考えてもバカではなかろうかとしか思えないのだが、これでも東大出でスタンフォードでPh.D.を取っている。専攻はORだそうで。最近、リポジトリ関係の仕事をやっていて、政治における意思決定などを対象とするゲーム理論関係の論文を見ると、微苦笑をぬぐえない。
つまるところ、自分の知識や才覚を、現実に適用できない人物ということだろう。そうした点については僕自身も大きな口は叩けないが、個人が自分の能力をどう扱おうと自由だが、公人がそれをやるとシャレにならないことがある。そういうことだと思う。
菅直人については、評価すべき実績としては厚生省の薬害事件があるが、これはトップとして組織をまとめ、成果を出させるという本道からそれた、壊し屋としての業績である。それはそれでおろそかにはできないが、これだけが業績となると、能力の方はどうだろう。やはり民主党のトップとしては、大した結果を残せていないし。
そう思いつつ、ここ一年ほど眺めてきたわけだが、ある程度の評価が定まってきた。
つまり、「悪い意味での現実主義者」である。
その時その時の風を読んで妥協を行い、現実とすり合わせて結果を出そうとするわけだが、大きな目標を定める理想というものがないため、まったく腰が据わらない。文字通り右往左往して、まったく進んでいないどころか後ろに下がっているんじゃないかと思えてくることもある。
そうしたわけで、鳩山とは違った意味でバカにされるわけである。妥協というものは、それを行った人物の評価を少しばかり押し下げる。普通は妥協を行ったことで獲得した成果により、下がった以上の評価を獲るわけだが、成果が出ていないのでは仕方がない。
チャーチルは、優秀な政治家に必要なものとして、「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、なぜそうならなかったのかを説明する能力」とを挙げたそうな。
確かに大事なことだと思う。自民党の公約にせよ民主党のマニュフェストにせよ、実現するものは多くはない。単純に力不足で為し得なかったものから、現実を直視するととてもきれいごとを言っていられなくなった(かつての社会党が陥った状況だ)ことまで、さまざまである。
問題は、なぜそれを実現できなかったかを説明し、その代案を提示することであろう。
僕が見る限り、民主党政権になってからもっとも欠けているのがこの点だ。
例えば福祉問題などは、「少ない税で多い福祉」というのが国民の要望だ。低成長の社会においては、言うまでもなく実現不可能な話である。「少ない税で少ない福祉」(小さい政治)か「多い税で多い福祉」(大きい政治)のどちらかしかあり得ない。(「中ぐらいの税で中ぐらいの福祉」というのも可能性としては挙げ得るが、議論を進めるのに何のメリットもないので捨象する。小さい政治だろうが大きい政治だろうが、実現する際には一定の妥協が行われ、ある程度は「中ぐらい」になるためだ)
どちらかを選べといわれ、ここ数年の大きな流れは、「大きい福祉」のためには「大きい税」(消費税増税)もやむを得ないという方向に流れつつあるようだ。
ならば増税すればいいわけだが、民主党は増税はしない、もしくは政治から無駄を削った上で行うと主張した。それが例えば「仕分け」や「埋蔵金発掘」として現れたわけである。
少し考えれば、仕分けで幾ばくかの無駄を省いたところで、消費税を数倍にするだけの効果を見込めるわけがないということぐらい、わかりそうなものである。まして、使えば減るだけの埋蔵金から、経常的に必要とされる福祉予算を割り当てられるわけもあるまい。
が、そうした行為は政治的には意味があったと僕は考えている。財政的には無意味だが、国民に対して、「我々はこうも頑張っているのです」というパフォーマンスを行うことは、将来的には行わざるを得ない増税という不人気な政治的アクションを行うのに、少しでも抵抗を減らす程度の効果は見込めるためだ。要するに、エクスキューズを作るためというわけである。
で、仕分けや埋蔵金では、やはり福祉予算は出ない。マニュフェストは実施できないわけだが、そこで国民に対して頭を下げ、「すみません。色々やってみましたが、やはりお金が足りません。今後も政治から無駄遣いを減らすべく努力を続けはしますが、どうしても必要な分だけは増税させてください」と訴えかける(他にも色々な政治的術策は弄するべきだろうが、そこは専門家に任せるべきだろう)。
で、増税を行う。その評価は次の選挙結果となって現れる。
と、政治には素人の僕なんかはそうするものだと思うわけだが、どうも菅首相の動きをみていると、仕分けや埋蔵金で何とかなると本気で思っていたのか、あるいは他に理由があるのか、そのままごり押しで増税しようとしているようだ。
党内は小沢問題で混乱中。野党との協議も、妥協に必要な材料を示さないのだから成立するめどは立たず、国民に対して頭を下げるという政治的レトリックすら行わない。
これでどうするつもりなんだろうか?
妥協に妥協を重ねれば、当座の問題は回避できるかもしれないが、その場合、おそらくほとんど成果を残さないことになる。で、妥協を行った相手以外からの不満は確実に高まる。
それこそゲーム理論の世界の話だが、いま菅が採っている政治的戦術方針をそのまま続けると、ほとんど点数を得ることなく、他のプレイヤーからの不満ばかり買うことになる。
冗談抜きで三月総辞職になりかねない。総選挙はとても行える状態じゃないから、自民党政権末期みたいな状態がさらに続くことになる。
他人事だったら笑える話だが、一応僕も日本というチームのプレイヤーの一人であり、他人事じゃないので笑えない。
どうなるのかねぇ。
結果は見ての通りで、近代日本政治史上、指折りの無能宰相として辞任した。
僕が彼に対して期待していなかった理由は、彼が民主党の幹事長など要職を務めていた間に、何の実績も挙げられなかったなかったためである。
こと首相になってからの彼の評価としては、「悪い意味での理想家」ということになろうか。
理想を語るのは、トップとして大いに結構なのだが、現実を見ず、また現実へのすり合わせを行おうともせず、宰相としての権力の身を行使しようとすると、酷いことになる。
どう考えてもバカではなかろうかとしか思えないのだが、これでも東大出でスタンフォードでPh.D.を取っている。専攻はORだそうで。最近、リポジトリ関係の仕事をやっていて、政治における意思決定などを対象とするゲーム理論関係の論文を見ると、微苦笑をぬぐえない。
つまるところ、自分の知識や才覚を、現実に適用できない人物ということだろう。そうした点については僕自身も大きな口は叩けないが、個人が自分の能力をどう扱おうと自由だが、公人がそれをやるとシャレにならないことがある。そういうことだと思う。
菅直人については、評価すべき実績としては厚生省の薬害事件があるが、これはトップとして組織をまとめ、成果を出させるという本道からそれた、壊し屋としての業績である。それはそれでおろそかにはできないが、これだけが業績となると、能力の方はどうだろう。やはり民主党のトップとしては、大した結果を残せていないし。
そう思いつつ、ここ一年ほど眺めてきたわけだが、ある程度の評価が定まってきた。
つまり、「悪い意味での現実主義者」である。
その時その時の風を読んで妥協を行い、現実とすり合わせて結果を出そうとするわけだが、大きな目標を定める理想というものがないため、まったく腰が据わらない。文字通り右往左往して、まったく進んでいないどころか後ろに下がっているんじゃないかと思えてくることもある。
そうしたわけで、鳩山とは違った意味でバカにされるわけである。妥協というものは、それを行った人物の評価を少しばかり押し下げる。普通は妥協を行ったことで獲得した成果により、下がった以上の評価を獲るわけだが、成果が出ていないのでは仕方がない。
チャーチルは、優秀な政治家に必要なものとして、「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、なぜそうならなかったのかを説明する能力」とを挙げたそうな。
確かに大事なことだと思う。自民党の公約にせよ民主党のマニュフェストにせよ、実現するものは多くはない。単純に力不足で為し得なかったものから、現実を直視するととてもきれいごとを言っていられなくなった(かつての社会党が陥った状況だ)ことまで、さまざまである。
問題は、なぜそれを実現できなかったかを説明し、その代案を提示することであろう。
僕が見る限り、民主党政権になってからもっとも欠けているのがこの点だ。
例えば福祉問題などは、「少ない税で多い福祉」というのが国民の要望だ。低成長の社会においては、言うまでもなく実現不可能な話である。「少ない税で少ない福祉」(小さい政治)か「多い税で多い福祉」(大きい政治)のどちらかしかあり得ない。(「中ぐらいの税で中ぐらいの福祉」というのも可能性としては挙げ得るが、議論を進めるのに何のメリットもないので捨象する。小さい政治だろうが大きい政治だろうが、実現する際には一定の妥協が行われ、ある程度は「中ぐらい」になるためだ)
どちらかを選べといわれ、ここ数年の大きな流れは、「大きい福祉」のためには「大きい税」(消費税増税)もやむを得ないという方向に流れつつあるようだ。
ならば増税すればいいわけだが、民主党は増税はしない、もしくは政治から無駄を削った上で行うと主張した。それが例えば「仕分け」や「埋蔵金発掘」として現れたわけである。
少し考えれば、仕分けで幾ばくかの無駄を省いたところで、消費税を数倍にするだけの効果を見込めるわけがないということぐらい、わかりそうなものである。まして、使えば減るだけの埋蔵金から、経常的に必要とされる福祉予算を割り当てられるわけもあるまい。
が、そうした行為は政治的には意味があったと僕は考えている。財政的には無意味だが、国民に対して、「我々はこうも頑張っているのです」というパフォーマンスを行うことは、将来的には行わざるを得ない増税という不人気な政治的アクションを行うのに、少しでも抵抗を減らす程度の効果は見込めるためだ。要するに、エクスキューズを作るためというわけである。
で、仕分けや埋蔵金では、やはり福祉予算は出ない。マニュフェストは実施できないわけだが、そこで国民に対して頭を下げ、「すみません。色々やってみましたが、やはりお金が足りません。今後も政治から無駄遣いを減らすべく努力を続けはしますが、どうしても必要な分だけは増税させてください」と訴えかける(他にも色々な政治的術策は弄するべきだろうが、そこは専門家に任せるべきだろう)。
で、増税を行う。その評価は次の選挙結果となって現れる。
と、政治には素人の僕なんかはそうするものだと思うわけだが、どうも菅首相の動きをみていると、仕分けや埋蔵金で何とかなると本気で思っていたのか、あるいは他に理由があるのか、そのままごり押しで増税しようとしているようだ。
党内は小沢問題で混乱中。野党との協議も、妥協に必要な材料を示さないのだから成立するめどは立たず、国民に対して頭を下げるという政治的レトリックすら行わない。
これでどうするつもりなんだろうか?
妥協に妥協を重ねれば、当座の問題は回避できるかもしれないが、その場合、おそらくほとんど成果を残さないことになる。で、妥協を行った相手以外からの不満は確実に高まる。
それこそゲーム理論の世界の話だが、いま菅が採っている政治的戦術方針をそのまま続けると、ほとんど点数を得ることなく、他のプレイヤーからの不満ばかり買うことになる。
冗談抜きで三月総辞職になりかねない。総選挙はとても行える状態じゃないから、自民党政権末期みたいな状態がさらに続くことになる。
他人事だったら笑える話だが、一応僕も日本というチームのプレイヤーの一人であり、他人事じゃないので笑えない。
どうなるのかねぇ。
2010年9月27日月曜日
長月廿七日
さて、中国問題について、考えを整理しよう。
(1)歴史的に、中国は多様多彩な民衆を支配するため、強力な中央集権制度を構築・維持してきた。
(2)だが、それにもかかわらず広大な国土と多様な民衆を支配することは困難で、実質的には地方へ大きな権限を委譲せざるを得なかった。
(3)近代以降、植民地化されてきた中国は、その克服を通して近代化を進めてきた。
(4)近代化において必要な国民の形成は、最も大規模かつ先行していたヨーロッパ列強を追い出す形で侵略を進めていた日本を敵としながら進められてきた。
(5)改革開放により経済の自由化が進められたが、このために生じた政治的自由への希求は、天安門事件という形で噴出した。これは暴力と日本に対するナショナリズムを煽り立てることで抑え込んできた。
(6)市場経済の成長路線は、今後も放棄されることはない。このために政治的自由への希求がより強まるはずだが、現在の共産党独裁を放棄することは考えにくい。
(7)今後の経済発展を維持するためには、相応の資源が必要であり、また大量の輸出品を販売する海外市場へのアクセスが必要となるが、そのためには現在海洋の覇権を握るアメリカと、その東アジアにおける最も有力な同盟国である日本と対立する可能性を、潜在的に抱えている。
以上が歴史的経緯および現在の情勢から判断される中国の状況である。この状況判断は近未来においても有効なはずである。
以上から、さらに次の推測を導き出せる。
(A)経済的自由は、より合理的に経済活動を進めるため、政治的自由を希求する。よって現在の共産党独裁に対する圧力は高まり続ける。
(B)既得権を持たない多数の低所得層は、政治的にきわめて不安定な「大衆」である。彼らを抑えるには、充分な所得もしくは社会保障を提供するか、ナショナリズムを昂揚させて不満を抑圧させるか外部に向けさせるしかない。
(C)人口が多すぎ、地域格差の激しすぎる国内事情から、経済的に問題を解決することは難しい。ナショナリズムの昂揚、特に上述の経緯から日本に対するナショナリズムの昂揚が手段として用いられるだろう。
(D)ナショナリズムを煽ることは、ヨーロッパにおいては第一次大戦、日本においては第二次大戦に至る道程で経験しており、現在では有効ではないが、中国のような近代化の過程にある国では今なお有効である。教育水準の低さと政治的自由の制限による情報の偏りもそれを助長している。だが、その矛先は往々にして弱腰過ぎると受け止められた政府に向きかねない。
(E)教育水準、所得水準の高い中所得層以上および中央政府は、日本との全面的な対立が経済活動に悪影響を及ぼすことから望んでいないはずである。だが、低所得層及び地方官僚は、その恩恵に与りにくく、またその利益よりも近視眼的利益のほうをより重視する可能性が強く、また上述の理由により中央政府がそれを完全に統制することも困難である。
よって、中国は日本に対するナショナリズムを強調するし、それをコントロールすることは、思想信条の自由を制限しているにもかかわらず極めて難しい。
また、ナショナリズムを煽ることはあっても、日本との全面的な対立にまで持ち込まれる可能性は低い。仮に持ち込まれたとしても、現時点で中国が日本を屈服させることは困難であり、またその場合、経済発展には多大な支障が出る。
以上が中国の現状から推測される対日政策の基調である。
逆に日本からすると、中期的(数十年程度)には、日本と中国との総合的な経済力については、格差が広がっていくだろうし、高付加価値産業や研究開発能力も、じりじりと差を詰められていくだろう。またその間、政治的な圧力は高いままである。
日本という海洋国は、基本的に戦争に向かない。正確に言えば、長大な海岸線を抱えていることから防御的な戦争には弱いため、攻撃的な(侵略的な)戦争が向いているということになる。だが、これは現在の覇権国家であるアメリカと協力するか潰すかのどちらかを行う必要がある。かつては後者を望んで失敗したため、現在は前者の方針を採用しているのだが、当座の所、アメリカは中国と全面的に対立する必要を感じていない。というか覇権を維持している限り、現状維持で問題ない。覇権を握るというのはそういうことだ。
中国は、地政学的にはドイツやロシアと同様、大陸国家と見なし得る。つまりアメリカ(あるいは日本)相手に侵略的な戦争を起こしにくい。
かつてのソ連同様、中国もまた外洋海軍の建設に力を入れているが、これには時間と金がかかる。十年やそこらでどうにかなるようなものではない。
要するにどういう事かというと、日本からすれば中国は今後数十年にわたって最大の仮想敵国であり、政治的には最大の敵性国家であるが、向こうから全面的な対立もしくは戦争を仕掛けられる可能性は低いし、万一そうなっても負ける可能性はさらに低いと判断していいということである。
ちなみに、こう書き連ねてきたが、日本と中国とが経済関係で反目する可能性はあまり高くない。全面的な対立に陥ったら話は別だが、そうでない限りは、表向きは友好的な関係を維持する。中国も世界経済の一員であり、最低限のエクスキューズは守る義務がある。例えば今回の一件でレアアース問題を取り上げたが、本当に対日禁輸を行った場合、中国が被るダメージは政治的なものだけでなく、経済的なものとしても相当なものとなったはずである。
良く言われることだが、経済的な依存関係は戦争を阻止する決定的な要因とはならない。日本がアメリカに喧嘩売ったという事実は、軍事や歴史に関心のない人間からは、どういうわけか忘れ去られがちである。
さて、そうであるならば、日本が中国に対して必要以上に友好的に振る舞う必要はない。上辺は友好的な関係を標榜し、経済的関係もそれなりに深めつつ、政治的にはギスギスしていて良いわけである。
というか黙っていてもそうなる。少なくとも向こうにはそうする理由があるし、短期的な理由でそうしないことはあっても、何かのイヴェントが起こればすぐに覆る程度のものでしかない。小泉政権時代の政冷経熱を経て、政治的にも友好ぶりを演出してきたが、それが上辺だけだったことは今回の一件からでも明らかである。
となると、日本が上辺以上の友好を求めても無駄だし、囚人のジレンマを思い起こせば、必要以上の友好を求めることは、それが相手への一方的な譲歩を意味するわけだからして、不利益ですらある。
最低でも、相手と交渉できるカードを用意しておかねばならないし、可能であれば、対中関係のイニシアティブを握り得るだけの用意は調えておくべきだろう。
以前にも書いたが、僕は中国の政治的不安定を更に煽動する、もしくはそうなりやすいよう環境を整えておくことは有効だと考えている。
もちろん実際に煽動するのは愚策である。エクスキューズを守ることは大事である。可能な限り婉曲に、見えにくい形で。反体制組織への間接的な援助など、方法はいくらでもある。
実際に中国が政治的混乱状態に陥った場合、日本が被る政治的・経済的不利益は決して小さくはない。最悪、核ミサイルが飛んでくる可能性すらある。
このあたりのリスクマネージメントは当然進めておかねばならない。というより、それを踏まえて軍事面・経済面での対処法を用意しておく必要がある。
軍事面での対応は、現在進めている軍事力整備の方向性で正しい。小規模な弾道攻撃への防御、対潜水艦・対戦闘機能力の向上、島嶼戦闘能力の整備。いずれも合致している。戦闘機の導入だけはうまくいっていないみたいだが。
経済的には、チャイナリスクの認識ということになるが、政府から直接手を入れにくい分野ではある。が、代替資源の開発や備蓄整備などは進めているし、中国以外における新規生産拠点の開発も進めているわけだから、ある程度の成果は上がっているのだろう。
……とまぁ、こんな話をnoriともりりんにしたら、もりりんから「ゲーム的すぎる」と言われた。
まぁ、それは僕も自覚してはいるが、極端な話、最悪の場合は相手と戦争するぐらいのつもりでいなければ、最悪の場合は戦争する必要があると考えている相手との交渉なんぞ、勝てるわけがない。
極端な手段というのは、それを使うのは負けになるが、それを用意できないのであれば、それはゲームに参加できないもしくは自動的に敗北するという意味で、やはり負けであろう。
ポーカーの例を再び持ってくるのであれば、対等な条件を持つ者同士のゲームであれば、ブラフかどうかは最後まで分からないわけである。最初から降りるラインを示している相手なら、どこからがブラフであるか分かっているわけだから、必勝とまでは言わなくともきわめて有利であろう。
僕にしても、実際に中国に謀略の限りを尽くせとは思っていない。が、それを行うだけの能力を備えておけば、実施するかどうかの意思を交渉の材料として用いることが出来る。交渉の材料も持たずに交渉なんぞ出来るわけがない。
北方領土にせよ竹島にせよ、日本人は交渉材料を用意せずに交渉を行おうとする悪癖というか無邪気な癖があるように思える。バブル前とは異なり、圧倒的な経済力なんてものは失われたのだから、いい加減夢からは覚めるべきだと思うのだが。
(1)歴史的に、中国は多様多彩な民衆を支配するため、強力な中央集権制度を構築・維持してきた。
(2)だが、それにもかかわらず広大な国土と多様な民衆を支配することは困難で、実質的には地方へ大きな権限を委譲せざるを得なかった。
(3)近代以降、植民地化されてきた中国は、その克服を通して近代化を進めてきた。
(4)近代化において必要な国民の形成は、最も大規模かつ先行していたヨーロッパ列強を追い出す形で侵略を進めていた日本を敵としながら進められてきた。
(5)改革開放により経済の自由化が進められたが、このために生じた政治的自由への希求は、天安門事件という形で噴出した。これは暴力と日本に対するナショナリズムを煽り立てることで抑え込んできた。
(6)市場経済の成長路線は、今後も放棄されることはない。このために政治的自由への希求がより強まるはずだが、現在の共産党独裁を放棄することは考えにくい。
(7)今後の経済発展を維持するためには、相応の資源が必要であり、また大量の輸出品を販売する海外市場へのアクセスが必要となるが、そのためには現在海洋の覇権を握るアメリカと、その東アジアにおける最も有力な同盟国である日本と対立する可能性を、潜在的に抱えている。
以上が歴史的経緯および現在の情勢から判断される中国の状況である。この状況判断は近未来においても有効なはずである。
以上から、さらに次の推測を導き出せる。
(A)経済的自由は、より合理的に経済活動を進めるため、政治的自由を希求する。よって現在の共産党独裁に対する圧力は高まり続ける。
(B)既得権を持たない多数の低所得層は、政治的にきわめて不安定な「大衆」である。彼らを抑えるには、充分な所得もしくは社会保障を提供するか、ナショナリズムを昂揚させて不満を抑圧させるか外部に向けさせるしかない。
(C)人口が多すぎ、地域格差の激しすぎる国内事情から、経済的に問題を解決することは難しい。ナショナリズムの昂揚、特に上述の経緯から日本に対するナショナリズムの昂揚が手段として用いられるだろう。
(D)ナショナリズムを煽ることは、ヨーロッパにおいては第一次大戦、日本においては第二次大戦に至る道程で経験しており、現在では有効ではないが、中国のような近代化の過程にある国では今なお有効である。教育水準の低さと政治的自由の制限による情報の偏りもそれを助長している。だが、その矛先は往々にして弱腰過ぎると受け止められた政府に向きかねない。
(E)教育水準、所得水準の高い中所得層以上および中央政府は、日本との全面的な対立が経済活動に悪影響を及ぼすことから望んでいないはずである。だが、低所得層及び地方官僚は、その恩恵に与りにくく、またその利益よりも近視眼的利益のほうをより重視する可能性が強く、また上述の理由により中央政府がそれを完全に統制することも困難である。
よって、中国は日本に対するナショナリズムを強調するし、それをコントロールすることは、思想信条の自由を制限しているにもかかわらず極めて難しい。
また、ナショナリズムを煽ることはあっても、日本との全面的な対立にまで持ち込まれる可能性は低い。仮に持ち込まれたとしても、現時点で中国が日本を屈服させることは困難であり、またその場合、経済発展には多大な支障が出る。
以上が中国の現状から推測される対日政策の基調である。
逆に日本からすると、中期的(数十年程度)には、日本と中国との総合的な経済力については、格差が広がっていくだろうし、高付加価値産業や研究開発能力も、じりじりと差を詰められていくだろう。またその間、政治的な圧力は高いままである。
日本という海洋国は、基本的に戦争に向かない。正確に言えば、長大な海岸線を抱えていることから防御的な戦争には弱いため、攻撃的な(侵略的な)戦争が向いているということになる。だが、これは現在の覇権国家であるアメリカと協力するか潰すかのどちらかを行う必要がある。かつては後者を望んで失敗したため、現在は前者の方針を採用しているのだが、当座の所、アメリカは中国と全面的に対立する必要を感じていない。というか覇権を維持している限り、現状維持で問題ない。覇権を握るというのはそういうことだ。
中国は、地政学的にはドイツやロシアと同様、大陸国家と見なし得る。つまりアメリカ(あるいは日本)相手に侵略的な戦争を起こしにくい。
かつてのソ連同様、中国もまた外洋海軍の建設に力を入れているが、これには時間と金がかかる。十年やそこらでどうにかなるようなものではない。
要するにどういう事かというと、日本からすれば中国は今後数十年にわたって最大の仮想敵国であり、政治的には最大の敵性国家であるが、向こうから全面的な対立もしくは戦争を仕掛けられる可能性は低いし、万一そうなっても負ける可能性はさらに低いと判断していいということである。
ちなみに、こう書き連ねてきたが、日本と中国とが経済関係で反目する可能性はあまり高くない。全面的な対立に陥ったら話は別だが、そうでない限りは、表向きは友好的な関係を維持する。中国も世界経済の一員であり、最低限のエクスキューズは守る義務がある。例えば今回の一件でレアアース問題を取り上げたが、本当に対日禁輸を行った場合、中国が被るダメージは政治的なものだけでなく、経済的なものとしても相当なものとなったはずである。
良く言われることだが、経済的な依存関係は戦争を阻止する決定的な要因とはならない。日本がアメリカに喧嘩売ったという事実は、軍事や歴史に関心のない人間からは、どういうわけか忘れ去られがちである。
さて、そうであるならば、日本が中国に対して必要以上に友好的に振る舞う必要はない。上辺は友好的な関係を標榜し、経済的関係もそれなりに深めつつ、政治的にはギスギスしていて良いわけである。
というか黙っていてもそうなる。少なくとも向こうにはそうする理由があるし、短期的な理由でそうしないことはあっても、何かのイヴェントが起こればすぐに覆る程度のものでしかない。小泉政権時代の政冷経熱を経て、政治的にも友好ぶりを演出してきたが、それが上辺だけだったことは今回の一件からでも明らかである。
となると、日本が上辺以上の友好を求めても無駄だし、囚人のジレンマを思い起こせば、必要以上の友好を求めることは、それが相手への一方的な譲歩を意味するわけだからして、不利益ですらある。
最低でも、相手と交渉できるカードを用意しておかねばならないし、可能であれば、対中関係のイニシアティブを握り得るだけの用意は調えておくべきだろう。
以前にも書いたが、僕は中国の政治的不安定を更に煽動する、もしくはそうなりやすいよう環境を整えておくことは有効だと考えている。
もちろん実際に煽動するのは愚策である。エクスキューズを守ることは大事である。可能な限り婉曲に、見えにくい形で。反体制組織への間接的な援助など、方法はいくらでもある。
実際に中国が政治的混乱状態に陥った場合、日本が被る政治的・経済的不利益は決して小さくはない。最悪、核ミサイルが飛んでくる可能性すらある。
このあたりのリスクマネージメントは当然進めておかねばならない。というより、それを踏まえて軍事面・経済面での対処法を用意しておく必要がある。
軍事面での対応は、現在進めている軍事力整備の方向性で正しい。小規模な弾道攻撃への防御、対潜水艦・対戦闘機能力の向上、島嶼戦闘能力の整備。いずれも合致している。戦闘機の導入だけはうまくいっていないみたいだが。
経済的には、チャイナリスクの認識ということになるが、政府から直接手を入れにくい分野ではある。が、代替資源の開発や備蓄整備などは進めているし、中国以外における新規生産拠点の開発も進めているわけだから、ある程度の成果は上がっているのだろう。
……とまぁ、こんな話をnoriともりりんにしたら、もりりんから「ゲーム的すぎる」と言われた。
まぁ、それは僕も自覚してはいるが、極端な話、最悪の場合は相手と戦争するぐらいのつもりでいなければ、最悪の場合は戦争する必要があると考えている相手との交渉なんぞ、勝てるわけがない。
極端な手段というのは、それを使うのは負けになるが、それを用意できないのであれば、それはゲームに参加できないもしくは自動的に敗北するという意味で、やはり負けであろう。
ポーカーの例を再び持ってくるのであれば、対等な条件を持つ者同士のゲームであれば、ブラフかどうかは最後まで分からないわけである。最初から降りるラインを示している相手なら、どこからがブラフであるか分かっているわけだから、必勝とまでは言わなくともきわめて有利であろう。
僕にしても、実際に中国に謀略の限りを尽くせとは思っていない。が、それを行うだけの能力を備えておけば、実施するかどうかの意思を交渉の材料として用いることが出来る。交渉の材料も持たずに交渉なんぞ出来るわけがない。
北方領土にせよ竹島にせよ、日本人は交渉材料を用意せずに交渉を行おうとする悪癖というか無邪気な癖があるように思える。バブル前とは異なり、圧倒的な経済力なんてものは失われたのだから、いい加減夢からは覚めるべきだと思うのだが。
2010年9月25日土曜日
長月廿五日
昨日は、リポジトリ関係者の研究会があった。
いろいろと面白かったが、中でもH大担当者の発表が興味深かった。
リポジトリを整備するには著作権の処理が問題となるが、これをいかに処理するかというお話。
今後書かれる論文については、リポジトリを担当する組織に対し、複製権と公衆送信権を承認することで、著者の著作権を維持しつつ、リポジトリとして論文をオンラインに掲載することが可能となる。
またこれまでの論文について、特に著者が故人となっているような古いものについては、サイト上で公示することで、許諾に換えるものとしている。要するに文句がなければ勝手に掲載するというわけである。
著作権法上問題のある行為なのだが、営利の手段ではないことと、いちいち許諾を取ることが現実的ではないことからの、非常手段ということである。
こうした方法については、印仏研などいくつかの大手学会誌ではすでに行われている。これは参考にすべきだろう。
本来、正規の職員のみを対象としているところを無理やり参加させてもらったので、打ち上げと二次会はタダだった。素晴らしい。
酔っぱらって帰宅したら、中国船の船長を釈放したとのこと。
正直、しばらく理解できなかった。アホじゃなかろうかと思わざるを得ない。
この手のビットは、相手の手の内をすべて晒させるのが、当たり前の目標となる。
中国側がレイズを続けていたのであれば、黙ってコールし続けるということである。
フジタの社員が人質になったわけだが、命を取られる可能性は極めて低い。仮に処刑してしまえば、それこそ日本に対して一方的に中国をたたけるワイルドカードを渡すことになるからだ。
レアアースもすぐに備蓄が尽きるわけでもなし、味方を作ってWTOに持ち込めばいい。というか日本が動かずとも動いてくれるようにも持っていけるはずだ。
コールし続ければ、北京は振り上げたこぶしの下ろし所に困ることになる。交渉するならそれからだろう。
一時的に対日感情は悪化するが、これはどのみち避けては通れないコストだし、必要であれば中国に世論操作を求めればいい。おそらく、黙っていても中国政府は世論操作を行うだろうが。
今降りれば、相手に格好の攻め口を与えることになる。
もちろん、次に侵入してきた漁船を拿捕することも可能だが、わざわざそうするメリットがない。
いやほんと、今釈放してどんなメリットがあるんだろうか。さっぱりわからん。
追記
中国の対応が日本政府の予想を超えるのは、充分にあり得る話なので、そこで腰が引けたということ自体は別におかしくはない。
一番いいのは、ゲームを始める前に相手の対応を読み切ったうえで、コールするかドローするかを決めておくことだが、これは現実的には難しい。基本的には相手の出方は推測するしかない。となれば、推測を誤ることもあろう。
今回の最大の問題は、結構な額まで掛け金を釣り上げたところで降りたことであろう。相手が引くに引けないということは、初期の時点で分かっていたはずだ。
ゲームを続けていれば取り返しがつかなくなるという段階には至っていなかったし、その意味では中途半端に過ぎる。
今後ゲームが行われるに際しては、日中双方とも、この結果がスタートラインに影響を及ぼす。日本にとってはどういう意味でも悪影響しか及ぼさないだろう。
いろいろと面白かったが、中でもH大担当者の発表が興味深かった。
リポジトリを整備するには著作権の処理が問題となるが、これをいかに処理するかというお話。
今後書かれる論文については、リポジトリを担当する組織に対し、複製権と公衆送信権を承認することで、著者の著作権を維持しつつ、リポジトリとして論文をオンラインに掲載することが可能となる。
またこれまでの論文について、特に著者が故人となっているような古いものについては、サイト上で公示することで、許諾に換えるものとしている。要するに文句がなければ勝手に掲載するというわけである。
著作権法上問題のある行為なのだが、営利の手段ではないことと、いちいち許諾を取ることが現実的ではないことからの、非常手段ということである。
こうした方法については、印仏研などいくつかの大手学会誌ではすでに行われている。これは参考にすべきだろう。
本来、正規の職員のみを対象としているところを無理やり参加させてもらったので、打ち上げと二次会はタダだった。素晴らしい。
酔っぱらって帰宅したら、中国船の船長を釈放したとのこと。
正直、しばらく理解できなかった。アホじゃなかろうかと思わざるを得ない。
この手のビットは、相手の手の内をすべて晒させるのが、当たり前の目標となる。
中国側がレイズを続けていたのであれば、黙ってコールし続けるということである。
フジタの社員が人質になったわけだが、命を取られる可能性は極めて低い。仮に処刑してしまえば、それこそ日本に対して一方的に中国をたたけるワイルドカードを渡すことになるからだ。
レアアースもすぐに備蓄が尽きるわけでもなし、味方を作ってWTOに持ち込めばいい。というか日本が動かずとも動いてくれるようにも持っていけるはずだ。
コールし続ければ、北京は振り上げたこぶしの下ろし所に困ることになる。交渉するならそれからだろう。
一時的に対日感情は悪化するが、これはどのみち避けては通れないコストだし、必要であれば中国に世論操作を求めればいい。おそらく、黙っていても中国政府は世論操作を行うだろうが。
今降りれば、相手に格好の攻め口を与えることになる。
もちろん、次に侵入してきた漁船を拿捕することも可能だが、わざわざそうするメリットがない。
いやほんと、今釈放してどんなメリットがあるんだろうか。さっぱりわからん。
追記
中国の対応が日本政府の予想を超えるのは、充分にあり得る話なので、そこで腰が引けたということ自体は別におかしくはない。
一番いいのは、ゲームを始める前に相手の対応を読み切ったうえで、コールするかドローするかを決めておくことだが、これは現実的には難しい。基本的には相手の出方は推測するしかない。となれば、推測を誤ることもあろう。
今回の最大の問題は、結構な額まで掛け金を釣り上げたところで降りたことであろう。相手が引くに引けないということは、初期の時点で分かっていたはずだ。
ゲームを続けていれば取り返しがつかなくなるという段階には至っていなかったし、その意味では中途半端に過ぎる。
今後ゲームが行われるに際しては、日中双方とも、この結果がスタートラインに影響を及ぼす。日本にとってはどういう意味でも悪影響しか及ぼさないだろう。
2010年8月11日水曜日
葉月十一日
菅政権が、韓国に対して、村山談話に則った形での謝罪を行い、宮内庁が保管する「朝鮮王室儀軌」を「引き渡す」(1964年に締結された「文化財・文化協力協定」において、日本は韓国に対して朝鮮半島から略奪した文化財を返還し、それによってこの問題は解決したため、違法に持ち去った文物を目的語とする「返還」という言葉は使えない)ことになった。
僕は、談話についてはともかく、儀軌の引き渡しは何の好影響ももたらさないだろうなと思っていたが、案の定、大した意味はなかったようだ。
朝鮮日報の日韓併合100年:「総督府が持ち出したものは全て返還対象」という記事は、権哲賢駐日大使の言葉として、今回の引き渡しが全てではないと述べている。
かねてより、韓国・北朝鮮や中国などは、日本に対して「道徳的優越」の立場を堅持する傾向があると思っていた。特に韓国についてはそうだ。
ここでいう「道徳的優越」というのは、何らかの形で被害者となった者が、加害者に対して、その被害を受けたという事実を、交渉における立場の強化材料とする傾向を指す。
もちろん、加害者がその事実に対して大きな関心を持たなければ意味がなく、強い罪悪感を抱いている場合にのみ通用する。
国家でも個人でも、罪に対しては罰を受け、罰を受けることで罪を精算することになる。法的にはその通りだが、罪悪感というような感情については、それをどのように精算するのか、もしくはそもそも精算が許されるのかどうかは、ケースバイケース、あるいはむしろ個人差による。
日本の場合、第二次大戦やそれ以前の植民地支配などについては、戦後全面的に悪とされた。つまり罪に問われたわけで、その罪は幾つかの賠償や交渉により、罰を受けたことになって、現在は法的にはほぼ精算されている(残ってるのは国連の旧敵国条項ぐらいのものじゃないかな)。
となると、残るは感情ということになる。
さて、日本はこの問題において加害者であり、また数世代を経ているので、感情面ではほとんど大きな力を持たなくなった。つまり忘れ去ってしまった。
一方、韓国や中国などは、この感情をナショナリズムを高め、国家形成の強力な道具としてきたので、今に至るも強い影響力を残している。
こうした感情の力を消し去るためには、それを忘れ去るか、あるいは無視できるほどの別の感情を抱くようになるしかない。要するに報仇の念そのものなのだから、仕返ししてやったとか、相手はもはや無視しても良いような小物であるとかの優越感に浸れるようにならないと、消え去ることはない。
仕返しするということはつまり、韓国なり中国なりが日本を植民地支配するということで、それは現実的ではない。サッカーなんかのスポーツ競技でやたら対抗心を燃やして、日本に勝てば大喜びするというのは、この感覚をささやかながらも満足させているためだろう。
優越感に浸るためには、相手より強大にならなくてはならない。正確には強大になったという感覚を持てるようにならなくてはならない。この点で、1990年代の中国と現在の中国では非常に面白い対照を見せている。
1990年代の中国は、日本に対して非常に敵対的だった。ちょうど経済成長のまっただ中で、日本が分かりやすい形でのライヴァルだったためだろう。経済成長に伴う社会的分裂を、ナショナリズムの強化によって解決しようとした江沢民政権の政治方針もあったのだろうが。ちなみに改革開放以前の中国は、日本と同じ土俵に登っていないので、むしろこの点では鈍感だったと言えるだろう。
2000年代後半以降、中国は日本よりも大きな経済力を有するようになりつつあり、この点で優越感を満たしつつあるようだ。感情の話なので、実態そのものは絶対的に重要ではないのだが、今年の時点で総GDPは日本を抜いているので、日本に対する優越をイメージしやすいのだろう。
ついでにいえば、中国は歴史的に日本よりも強大な国であり続けた。この点においても、日本に対する優越を回復するということは、その自尊心を強く満たすだろう。
韓国の場合、そういう意味では日本に対する優越はなかなか満たしにくい。総GDPの話をするなら、人口が日本の10倍の中国と、日本の半分の韓国とでは事情が全く異なるのだから当然だろう。もっとも、一人あたりGDPの話をしても、韓国が日本を追い抜くのはかなり難しい。少なくとも近未来の話としてはあり得ない。
歴史的にも、朝鮮は日本に対して中国とは異なる形での優越感を維持しようとしてきた。近世においては経済的・軍事的には不可能だったので、文化的な形ではあるが。
さて、冒頭で述べた「道徳的優越」というものは、こうした優越感を簡単に獲得できる。何せ韓国や中国が日本から植民地支配を受けたことは動かせない事実であり、それが「悪」であることは、認識の差はあれ三国共に共通しているのだから。
中国と異なり韓国は経済や軍事以外の方法で日本に対する優越感を回復しなければならない。文化面でいえば「韓流」なんかもその一つだろうが、実際問題として、文化的な影響力では日韓どちらが大きいのかなんて、考えるまでもない。
となると、「道徳的優越」ぐらいしか手軽な方法がない。
そこまでして日本に対する優越感を確保しなければならないのかというと、少なくとも韓国については然りといえるだろう。
つまるところ近代国家としてのナショナルアイデンティティの問題である。近代国家というものは、様々な方法でこれを獲得してきたわけである。
あまり自信を持って言える話でもないが、日本などの現在の先進国は、おおむね戦前から戦後の時期にかけてそれを進め、目下ゆるやかに国家の束縛を解き放し、ポストモダンの時代を迎えつつあると思う。
一応断っておくと、「現代」というのは「近代」に含まれるので。ポストモダンはその次の時代のこと。ナショナリズムや国家の優越なんてのは近代の特徴であろう。ポストモダンの特徴なんてものは分からないが、ナショナリズムや国家の力が弱くなっていくことは、多分間違いない。
何をもってモダンとポストモダンの違いとなるのかは、ポストモダンの定義すら不明瞭なので示しようがないが、少なくとも国家統合に務めなくてはならない国と、あまり意を注がなくても国家の分裂を心配しなくて良い国とでは、異なるものだと思う。
つまるところ日本は国家統合の必要性を強く感じていないし、経済・軍事・文化的に強い劣等意識を持つ必要もない。経済的衰退云々はあるが、実態としても強く劣ってはいないといえるだろう。
中国は国家統合の必要性を強く感じてはいるが、経済・軍事面で優越感を抱きつつある。実態としてはまだかなりの差があると思うが、「勢いがある」ことは確かだろうし、彼らもそう認識しているので、日本に対して強いナショナリズムを以て接する必要性を、今のところはあまり感じていない。
韓国は国家統合の必要性を感じてはいるが、経済・軍事・文化的に大きく優越しているという認識を持てないでいる。よって、日本に対して何らかの優越感を持つ必要があり、その材料として「道徳的優越」が持ち出される。
ゆえに、首相がどれだけ頭を下げようと、日本にある「略奪文化財」をどれだけ返却しようと、韓国人の日本に対しする意識は決して変わらない。変えてしまうと国が保たないからだ。
そう考えると、日本が韓国に対して謝罪したり文化財を返却することは、何の意味も持たない。謝罪や返却をしないと感情が一層悪化するのではないか、とも考えられるだろうが、よほど不味いことをしない限り、それは考えにくい。具体的にいえば、村山談話は踏襲し、文化財については言及を避ける。
本当は村山談話そのものにも問題があるのだが、今更なかったことには出来ないので、せめてあれ以上踏み込むことは止めるよう心がける。
もちろん韓国や中国からは批判・非難の声が挙がるが、実際的には大きな問題とはならないはずだ。問題に出来るような材料もないし。
こういう対応は、実に小悪党的ではあるが、政治、特に国際政治というものはそういうものだろう。村山にせよ鳩山にせよ、あるいは今回の一件を主導した仙石にせよ、善人ではあるのだろうが、善意が良い結果のみをもたらすような理想郷に住んでいるわけではないということを理解できない愚者であると言えるだろう。
僕は、談話についてはともかく、儀軌の引き渡しは何の好影響ももたらさないだろうなと思っていたが、案の定、大した意味はなかったようだ。
朝鮮日報の日韓併合100年:「総督府が持ち出したものは全て返還対象」という記事は、権哲賢駐日大使の言葉として、今回の引き渡しが全てではないと述べている。
かねてより、韓国・北朝鮮や中国などは、日本に対して「道徳的優越」の立場を堅持する傾向があると思っていた。特に韓国についてはそうだ。
ここでいう「道徳的優越」というのは、何らかの形で被害者となった者が、加害者に対して、その被害を受けたという事実を、交渉における立場の強化材料とする傾向を指す。
もちろん、加害者がその事実に対して大きな関心を持たなければ意味がなく、強い罪悪感を抱いている場合にのみ通用する。
国家でも個人でも、罪に対しては罰を受け、罰を受けることで罪を精算することになる。法的にはその通りだが、罪悪感というような感情については、それをどのように精算するのか、もしくはそもそも精算が許されるのかどうかは、ケースバイケース、あるいはむしろ個人差による。
日本の場合、第二次大戦やそれ以前の植民地支配などについては、戦後全面的に悪とされた。つまり罪に問われたわけで、その罪は幾つかの賠償や交渉により、罰を受けたことになって、現在は法的にはほぼ精算されている(残ってるのは国連の旧敵国条項ぐらいのものじゃないかな)。
となると、残るは感情ということになる。
さて、日本はこの問題において加害者であり、また数世代を経ているので、感情面ではほとんど大きな力を持たなくなった。つまり忘れ去ってしまった。
一方、韓国や中国などは、この感情をナショナリズムを高め、国家形成の強力な道具としてきたので、今に至るも強い影響力を残している。
こうした感情の力を消し去るためには、それを忘れ去るか、あるいは無視できるほどの別の感情を抱くようになるしかない。要するに報仇の念そのものなのだから、仕返ししてやったとか、相手はもはや無視しても良いような小物であるとかの優越感に浸れるようにならないと、消え去ることはない。
仕返しするということはつまり、韓国なり中国なりが日本を植民地支配するということで、それは現実的ではない。サッカーなんかのスポーツ競技でやたら対抗心を燃やして、日本に勝てば大喜びするというのは、この感覚をささやかながらも満足させているためだろう。
優越感に浸るためには、相手より強大にならなくてはならない。正確には強大になったという感覚を持てるようにならなくてはならない。この点で、1990年代の中国と現在の中国では非常に面白い対照を見せている。
1990年代の中国は、日本に対して非常に敵対的だった。ちょうど経済成長のまっただ中で、日本が分かりやすい形でのライヴァルだったためだろう。経済成長に伴う社会的分裂を、ナショナリズムの強化によって解決しようとした江沢民政権の政治方針もあったのだろうが。ちなみに改革開放以前の中国は、日本と同じ土俵に登っていないので、むしろこの点では鈍感だったと言えるだろう。
2000年代後半以降、中国は日本よりも大きな経済力を有するようになりつつあり、この点で優越感を満たしつつあるようだ。感情の話なので、実態そのものは絶対的に重要ではないのだが、今年の時点で総GDPは日本を抜いているので、日本に対する優越をイメージしやすいのだろう。
ついでにいえば、中国は歴史的に日本よりも強大な国であり続けた。この点においても、日本に対する優越を回復するということは、その自尊心を強く満たすだろう。
韓国の場合、そういう意味では日本に対する優越はなかなか満たしにくい。総GDPの話をするなら、人口が日本の10倍の中国と、日本の半分の韓国とでは事情が全く異なるのだから当然だろう。もっとも、一人あたりGDPの話をしても、韓国が日本を追い抜くのはかなり難しい。少なくとも近未来の話としてはあり得ない。
歴史的にも、朝鮮は日本に対して中国とは異なる形での優越感を維持しようとしてきた。近世においては経済的・軍事的には不可能だったので、文化的な形ではあるが。
さて、冒頭で述べた「道徳的優越」というものは、こうした優越感を簡単に獲得できる。何せ韓国や中国が日本から植民地支配を受けたことは動かせない事実であり、それが「悪」であることは、認識の差はあれ三国共に共通しているのだから。
中国と異なり韓国は経済や軍事以外の方法で日本に対する優越感を回復しなければならない。文化面でいえば「韓流」なんかもその一つだろうが、実際問題として、文化的な影響力では日韓どちらが大きいのかなんて、考えるまでもない。
となると、「道徳的優越」ぐらいしか手軽な方法がない。
そこまでして日本に対する優越感を確保しなければならないのかというと、少なくとも韓国については然りといえるだろう。
つまるところ近代国家としてのナショナルアイデンティティの問題である。近代国家というものは、様々な方法でこれを獲得してきたわけである。
あまり自信を持って言える話でもないが、日本などの現在の先進国は、おおむね戦前から戦後の時期にかけてそれを進め、目下ゆるやかに国家の束縛を解き放し、ポストモダンの時代を迎えつつあると思う。
一応断っておくと、「現代」というのは「近代」に含まれるので。ポストモダンはその次の時代のこと。ナショナリズムや国家の優越なんてのは近代の特徴であろう。ポストモダンの特徴なんてものは分からないが、ナショナリズムや国家の力が弱くなっていくことは、多分間違いない。
何をもってモダンとポストモダンの違いとなるのかは、ポストモダンの定義すら不明瞭なので示しようがないが、少なくとも国家統合に務めなくてはならない国と、あまり意を注がなくても国家の分裂を心配しなくて良い国とでは、異なるものだと思う。
つまるところ日本は国家統合の必要性を強く感じていないし、経済・軍事・文化的に強い劣等意識を持つ必要もない。経済的衰退云々はあるが、実態としても強く劣ってはいないといえるだろう。
中国は国家統合の必要性を強く感じてはいるが、経済・軍事面で優越感を抱きつつある。実態としてはまだかなりの差があると思うが、「勢いがある」ことは確かだろうし、彼らもそう認識しているので、日本に対して強いナショナリズムを以て接する必要性を、今のところはあまり感じていない。
韓国は国家統合の必要性を感じてはいるが、経済・軍事・文化的に大きく優越しているという認識を持てないでいる。よって、日本に対して何らかの優越感を持つ必要があり、その材料として「道徳的優越」が持ち出される。
ゆえに、首相がどれだけ頭を下げようと、日本にある「略奪文化財」をどれだけ返却しようと、韓国人の日本に対しする意識は決して変わらない。変えてしまうと国が保たないからだ。
そう考えると、日本が韓国に対して謝罪したり文化財を返却することは、何の意味も持たない。謝罪や返却をしないと感情が一層悪化するのではないか、とも考えられるだろうが、よほど不味いことをしない限り、それは考えにくい。具体的にいえば、村山談話は踏襲し、文化財については言及を避ける。
本当は村山談話そのものにも問題があるのだが、今更なかったことには出来ないので、せめてあれ以上踏み込むことは止めるよう心がける。
もちろん韓国や中国からは批判・非難の声が挙がるが、実際的には大きな問題とはならないはずだ。問題に出来るような材料もないし。
こういう対応は、実に小悪党的ではあるが、政治、特に国際政治というものはそういうものだろう。村山にせよ鳩山にせよ、あるいは今回の一件を主導した仙石にせよ、善人ではあるのだろうが、善意が良い結果のみをもたらすような理想郷に住んでいるわけではないということを理解できない愚者であると言えるだろう。
2010年7月29日木曜日
文月廿九日
さて、少し前の話。
ルーピーこと鳩山由紀夫前総理については、もう少し粘るかと思っていた。
政治家として、致命的に能力に欠け、しかも理想を持っているという「頭の悪い働き者」そのものの激(迷)走ぶりを見せてくれたわけである。
僕はポッポのことを、政治家として評価するに足りない能力の持ち主ではあるが、ひとつ政治屋として大事な適性を持っていると思っていた。
諦めの悪さというヤツで、これは逆境時の粘り腰の源となる。安倍や福田があっさりと(前者と後者とを同一視できないと思ってはいるが)辞めた理由として、二世議員の諦めの良さというのが指摘されることがあった。が、別に二世議員だから皆往生際が良いという訳でもなし、適性というか性格的なものなので、鳩山がそれを身につけていたところで変なことはない。
そう思っていたのだが、あっさり辞められた。
唯一政治家(屋)向けだと思っていた性格の見立てだが、僕の誤りだったようだ。単純に、痛覚に乏しかっただけということらしい。
で、菅直人が舞い戻ってきた。
鳩山ほどではないが、正直、余り評価していない人物である。
ちなみに政治家に詳しいわけでもない僕の評価は、ごく普通にこれまでの業績から判断するというだけのものである。
で、その評価基準からすると、彼はキャリアの割に大した仕事をしていない。
厚労相時代の薬害エイズ問題を暴いた時が、唯一大きな業績だと思う。アレは確かに立派な業績ではあるが、何かを生み出した故の成果ではなく、ぶっ壊したことによって得られた成果であろう。
別にそれが悪いというわけではないのだが、今求められている能力ではないし、第一、トップに立つ者がそれだけではダメだろうと思う。
壊し屋というと小泉純一郎を思い出すが、アレとも違う気がする。あちらはもっとゴールや原則が分かりやすかった。自己のヴィジョンを発するのが上手いということになるだろうか。
菅が下手なのかどうかは分からないが、現状、上手く伝えられていないことは確かだろう。
というか、このあたり上手い人なら、お遍路を自己アピールの場に使うか、最低でも終わらせると思うぞ。
というわけで、あまり高くは評価していなかった。ダメだとも思っていないので、お手並み拝見というところ。
結果、参院選は大敗したが、まぁこちらは予想通りであろう。予想以上でもあったかも知れないが。
どのみち、参院選は決定的な戦場ではない。もちろんねじれ国会の中で国政を停滞させることにもなるだろうが、このあたりは時間をかけて自民党との間で合意を形成していくべきであろう。たしか合衆国も、国家の原則的な問題については争点としないという合意を作ったのは、第二次大戦後頃のはずだったような。
僕としては、対外的な問題や緊急問題なんかはそうした合意の対象とすべきだが、それ以外は多少の時間がかかることはやむを得ないと思っている。
開票作業時、ニコニコの生放送を観ていたのだが、堀江がみんなの党を強く推していた。
彼も主張していたが、みんなの党は小さい政治を(比較的)明確に指向する政党で、彼やひろゆきのような起業家タイプの人間には非常に親和性が高い。
ちなみに、貧乏生活をしている割には、僕のみんなの党に対する親和性も高い。経済を指向して、原則を重視するとなると、こうなるわけだ。
僕にしても上手い考えは浮かばないが、小さい政治による経済の活性化は、日本にとっても有効であろうと思う。アメリカ流の新自由主義にまで行く必要はない。金融不況で明らかなとおり、市場自由主義を推し進めすぎても、破綻の際のダメージが大きくなるだけだし、根本的に不健全だ。
不健全であること自体は悪いとは思わない。ヴェンチャーを次々と走らせるには、どこかゲーム感覚であることも必要だろうし、リスクを畏れないこういう心の有り様を「冒険心」というのであれば、必須のものとすら言える。
まぁ、程度問題というわけである。
これからの時代において、日本を経済的に発展させることは、おそらくかなり難しい。
19世紀から20世紀中盤にかけてまでの時代、製造業が富の源泉だった。
第二次大戦後、富の源泉は金融の方にシフトした。まぁ、ロンドンとニューヨークの話になると長くなるので措く。あまり詳しくもないし。
いずれにせよ、日本が金融を利用してさらなる経済的成功を収めることは、ほとんど不可能であると思う。ちなみにここで言う成功のレヴェルは、ロンドンとニューヨーク(あと上海も)を蹴り落とすという程度。金融の世界は、勝者のイスが非常に少ないためだ。
これまで日本の経済を支えてきた製造業は、今後も柱ではあり続けるだろうが、最先端の製造技術を維持するにはかなりの労力が必要であり、最先端以外の製造業は、日本よりも生産コストの低い地域へと移転していくわけだから、トータルとしての富の量は、良くて現状維持、普通に考えれば減ることになるだろう。
つまり、少数のエリートから成るR&Dセクションと、多数の非エリートから成る一般製造セクションとに分かれていたものが、後者が海外に移転してしまうということ。
もちろん、非エリート(大半が中小企業であろう)の持つ技術力云々は軽視できないが、軽視できない技術を持った企業ばかりではないし、そうした技術を持っていたとしても、それが必ずしも価値の高いものであるとは限らない。
単価の安い無地のタオルを生産するのに高い能力を持っていても、それによるアドヴァンテージは、中国やヴェトナムで製造されるタオルが持つ価格競争力を覆すものではあるまい、ということだ。
政治に話を戻すとして、政治の側から、こうした経済の発達を促すことは難しいと思う。
新技術や新しい形態のビジネスを生み出す能力は、官僚制度や政治主導の中からは難しい。というか、ほとんど無理だろう。リスクだらけの世界なのだから。
すると、市場で育んでもらうしかない。が、そのためには市場への関与を減らす小さい政治になってもらう必要がある。
自分の考えをまとめまとめ書いているので、どうしても散漫になるし、これで正しいのかどうかも分からないが、とりあえず僕の考えは以上の通りである。
以下はもう少し大きな流れから展望したもの。
仮に小さい政治路線を進めたとして、その場合の問題点は、市場全能主義へ陥らないように監視する必要性があることと、そもそも小さい政治によるメリットを、覇権国家でもない日本がどれだけ受け取れるだろうかという疑問である。
前者は当然として、後者は説明が難しい。
世界システム環境下において、中心と周辺という構造があるというのが近代という時代の特徴であると思う。ちなみにこの関係はかなりの多様性を持つので、単純な従属論だけでは説明不足となるのだが、このあたりについては僕も勉強中である。
さて、敢えて単純な従属論モデルを用いて説明すると、中心が周辺のリソースを一方的に吸収するというのがモデルの骨子になるが、この中で成功するには、中心グループに入り、周辺を持つ必要があるということになる。中心を帝国、周辺を植民地と考えれば分かりやすい。
このモデルが通用したのは、どれだけ頑張っても60年代まで。現代においては通用しない。
それでも、情報が集まり、革新が行われる「中央部」と、その成果が適用される「それ以外の地域」という構造は、今でも使えると思う。「中央部」を「新技術を産みだし、さらにそれにより新商品を生み出す地域」とし、「それ以外の地域」を「商品の市場」と考えればいい。
中央部に何がどこまで含まれるのか、いまいち不明瞭である。かつてなら、「アメリカ」とか「中国」とか国名を挙げて説明できたのだが、今、そしてこれからは国家の要素が弱くなっていく。「地域」とか「企業」なんかが挙がるようになると、議論の出発点である「日本の経済を発展させる」という部分が崩れ出す。
あるいはそれで正解なのかも知れない。小さい政治路線を徹底的に進めた形を想像すれば分かる。
例えばその解のひとつは、「勝ち組企業に所属する」。日本に住むのかロンドンに住むのかは問われない。イノヴェーションはその企業が行い、富が集中するのもその企業である。その企業の構成員以外は、消費者としての立場しか与えられない。
また別の解として、所属する組織(国家や企業など)も限定されないというものになる。主体となるのは個人だが、その個人はネットワークの中を頻繁に転身する。
どちらもアメリカで行われ、そして金融危機の時に信頼性を大きく損なった解である。
してみると、そうして企業や個人を国家の枠組みである程度管理することが必要になるわけだ。
しかし、これを行う必要があるのはアメリカのような、勝ち組企業・個人を集めている国であり、日本はまずその場に立つための努力をしなければならないわけで……。
循環してきた。まだ考えが煮詰まっていない証拠である。
だいたい、僕程度があっさりと論理的蓋然性の高い解を導き出せるとしたのなら、もっと前に外の誰かがやっているはずなのだ。
というわけで、グダグダのまま終わる。
ルーピーこと鳩山由紀夫前総理については、もう少し粘るかと思っていた。
政治家として、致命的に能力に欠け、しかも理想を持っているという「頭の悪い働き者」そのものの激(迷)走ぶりを見せてくれたわけである。
僕はポッポのことを、政治家として評価するに足りない能力の持ち主ではあるが、ひとつ政治屋として大事な適性を持っていると思っていた。
諦めの悪さというヤツで、これは逆境時の粘り腰の源となる。安倍や福田があっさりと(前者と後者とを同一視できないと思ってはいるが)辞めた理由として、二世議員の諦めの良さというのが指摘されることがあった。が、別に二世議員だから皆往生際が良いという訳でもなし、適性というか性格的なものなので、鳩山がそれを身につけていたところで変なことはない。
そう思っていたのだが、あっさり辞められた。
唯一政治家(屋)向けだと思っていた性格の見立てだが、僕の誤りだったようだ。単純に、痛覚に乏しかっただけということらしい。
で、菅直人が舞い戻ってきた。
鳩山ほどではないが、正直、余り評価していない人物である。
ちなみに政治家に詳しいわけでもない僕の評価は、ごく普通にこれまでの業績から判断するというだけのものである。
で、その評価基準からすると、彼はキャリアの割に大した仕事をしていない。
厚労相時代の薬害エイズ問題を暴いた時が、唯一大きな業績だと思う。アレは確かに立派な業績ではあるが、何かを生み出した故の成果ではなく、ぶっ壊したことによって得られた成果であろう。
別にそれが悪いというわけではないのだが、今求められている能力ではないし、第一、トップに立つ者がそれだけではダメだろうと思う。
壊し屋というと小泉純一郎を思い出すが、アレとも違う気がする。あちらはもっとゴールや原則が分かりやすかった。自己のヴィジョンを発するのが上手いということになるだろうか。
菅が下手なのかどうかは分からないが、現状、上手く伝えられていないことは確かだろう。
というか、このあたり上手い人なら、お遍路を自己アピールの場に使うか、最低でも終わらせると思うぞ。
というわけで、あまり高くは評価していなかった。ダメだとも思っていないので、お手並み拝見というところ。
結果、参院選は大敗したが、まぁこちらは予想通りであろう。予想以上でもあったかも知れないが。
どのみち、参院選は決定的な戦場ではない。もちろんねじれ国会の中で国政を停滞させることにもなるだろうが、このあたりは時間をかけて自民党との間で合意を形成していくべきであろう。たしか合衆国も、国家の原則的な問題については争点としないという合意を作ったのは、第二次大戦後頃のはずだったような。
僕としては、対外的な問題や緊急問題なんかはそうした合意の対象とすべきだが、それ以外は多少の時間がかかることはやむを得ないと思っている。
開票作業時、ニコニコの生放送を観ていたのだが、堀江がみんなの党を強く推していた。
彼も主張していたが、みんなの党は小さい政治を(比較的)明確に指向する政党で、彼やひろゆきのような起業家タイプの人間には非常に親和性が高い。
ちなみに、貧乏生活をしている割には、僕のみんなの党に対する親和性も高い。経済を指向して、原則を重視するとなると、こうなるわけだ。
僕にしても上手い考えは浮かばないが、小さい政治による経済の活性化は、日本にとっても有効であろうと思う。アメリカ流の新自由主義にまで行く必要はない。金融不況で明らかなとおり、市場自由主義を推し進めすぎても、破綻の際のダメージが大きくなるだけだし、根本的に不健全だ。
不健全であること自体は悪いとは思わない。ヴェンチャーを次々と走らせるには、どこかゲーム感覚であることも必要だろうし、リスクを畏れないこういう心の有り様を「冒険心」というのであれば、必須のものとすら言える。
まぁ、程度問題というわけである。
これからの時代において、日本を経済的に発展させることは、おそらくかなり難しい。
19世紀から20世紀中盤にかけてまでの時代、製造業が富の源泉だった。
第二次大戦後、富の源泉は金融の方にシフトした。まぁ、ロンドンとニューヨークの話になると長くなるので措く。あまり詳しくもないし。
いずれにせよ、日本が金融を利用してさらなる経済的成功を収めることは、ほとんど不可能であると思う。ちなみにここで言う成功のレヴェルは、ロンドンとニューヨーク(あと上海も)を蹴り落とすという程度。金融の世界は、勝者のイスが非常に少ないためだ。
これまで日本の経済を支えてきた製造業は、今後も柱ではあり続けるだろうが、最先端の製造技術を維持するにはかなりの労力が必要であり、最先端以外の製造業は、日本よりも生産コストの低い地域へと移転していくわけだから、トータルとしての富の量は、良くて現状維持、普通に考えれば減ることになるだろう。
つまり、少数のエリートから成るR&Dセクションと、多数の非エリートから成る一般製造セクションとに分かれていたものが、後者が海外に移転してしまうということ。
もちろん、非エリート(大半が中小企業であろう)の持つ技術力云々は軽視できないが、軽視できない技術を持った企業ばかりではないし、そうした技術を持っていたとしても、それが必ずしも価値の高いものであるとは限らない。
単価の安い無地のタオルを生産するのに高い能力を持っていても、それによるアドヴァンテージは、中国やヴェトナムで製造されるタオルが持つ価格競争力を覆すものではあるまい、ということだ。
政治に話を戻すとして、政治の側から、こうした経済の発達を促すことは難しいと思う。
新技術や新しい形態のビジネスを生み出す能力は、官僚制度や政治主導の中からは難しい。というか、ほとんど無理だろう。リスクだらけの世界なのだから。
すると、市場で育んでもらうしかない。が、そのためには市場への関与を減らす小さい政治になってもらう必要がある。
自分の考えをまとめまとめ書いているので、どうしても散漫になるし、これで正しいのかどうかも分からないが、とりあえず僕の考えは以上の通りである。
以下はもう少し大きな流れから展望したもの。
仮に小さい政治路線を進めたとして、その場合の問題点は、市場全能主義へ陥らないように監視する必要性があることと、そもそも小さい政治によるメリットを、覇権国家でもない日本がどれだけ受け取れるだろうかという疑問である。
前者は当然として、後者は説明が難しい。
世界システム環境下において、中心と周辺という構造があるというのが近代という時代の特徴であると思う。ちなみにこの関係はかなりの多様性を持つので、単純な従属論だけでは説明不足となるのだが、このあたりについては僕も勉強中である。
さて、敢えて単純な従属論モデルを用いて説明すると、中心が周辺のリソースを一方的に吸収するというのがモデルの骨子になるが、この中で成功するには、中心グループに入り、周辺を持つ必要があるということになる。中心を帝国、周辺を植民地と考えれば分かりやすい。
このモデルが通用したのは、どれだけ頑張っても60年代まで。現代においては通用しない。
それでも、情報が集まり、革新が行われる「中央部」と、その成果が適用される「それ以外の地域」という構造は、今でも使えると思う。「中央部」を「新技術を産みだし、さらにそれにより新商品を生み出す地域」とし、「それ以外の地域」を「商品の市場」と考えればいい。
中央部に何がどこまで含まれるのか、いまいち不明瞭である。かつてなら、「アメリカ」とか「中国」とか国名を挙げて説明できたのだが、今、そしてこれからは国家の要素が弱くなっていく。「地域」とか「企業」なんかが挙がるようになると、議論の出発点である「日本の経済を発展させる」という部分が崩れ出す。
あるいはそれで正解なのかも知れない。小さい政治路線を徹底的に進めた形を想像すれば分かる。
例えばその解のひとつは、「勝ち組企業に所属する」。日本に住むのかロンドンに住むのかは問われない。イノヴェーションはその企業が行い、富が集中するのもその企業である。その企業の構成員以外は、消費者としての立場しか与えられない。
また別の解として、所属する組織(国家や企業など)も限定されないというものになる。主体となるのは個人だが、その個人はネットワークの中を頻繁に転身する。
どちらもアメリカで行われ、そして金融危機の時に信頼性を大きく損なった解である。
してみると、そうして企業や個人を国家の枠組みである程度管理することが必要になるわけだ。
しかし、これを行う必要があるのはアメリカのような、勝ち組企業・個人を集めている国であり、日本はまずその場に立つための努力をしなければならないわけで……。
循環してきた。まだ考えが煮詰まっていない証拠である。
だいたい、僕程度があっさりと論理的蓋然性の高い解を導き出せるとしたのなら、もっと前に外の誰かがやっているはずなのだ。
というわけで、グダグダのまま終わる。
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