2010年8月11日水曜日

葉月十一日

菅政権が、韓国に対して、村山談話に則った形での謝罪を行い、宮内庁が保管する「朝鮮王室儀軌」を「引き渡す」(1964年に締結された「文化財・文化協力協定」において、日本は韓国に対して朝鮮半島から略奪した文化財を返還し、それによってこの問題は解決したため、違法に持ち去った文物を目的語とする「返還」という言葉は使えない)ことになった。

僕は、談話についてはともかく、儀軌の引き渡しは何の好影響ももたらさないだろうなと思っていたが、案の定、大した意味はなかったようだ。
朝鮮日報の日韓併合100年:「総督府が持ち出したものは全て返還対象」という記事は、権哲賢駐日大使の言葉として、今回の引き渡しが全てではないと述べている。

かねてより、韓国・北朝鮮や中国などは、日本に対して「道徳的優越」の立場を堅持する傾向があると思っていた。特に韓国についてはそうだ。
ここでいう「道徳的優越」というのは、何らかの形で被害者となった者が、加害者に対して、その被害を受けたという事実を、交渉における立場の強化材料とする傾向を指す。
もちろん、加害者がその事実に対して大きな関心を持たなければ意味がなく、強い罪悪感を抱いている場合にのみ通用する。

国家でも個人でも、罪に対しては罰を受け、罰を受けることで罪を精算することになる。法的にはその通りだが、罪悪感というような感情については、それをどのように精算するのか、もしくはそもそも精算が許されるのかどうかは、ケースバイケース、あるいはむしろ個人差による。

日本の場合、第二次大戦やそれ以前の植民地支配などについては、戦後全面的に悪とされた。つまり罪に問われたわけで、その罪は幾つかの賠償や交渉により、罰を受けたことになって、現在は法的にはほぼ精算されている(残ってるのは国連の旧敵国条項ぐらいのものじゃないかな)。
となると、残るは感情ということになる。

さて、日本はこの問題において加害者であり、また数世代を経ているので、感情面ではほとんど大きな力を持たなくなった。つまり忘れ去ってしまった。
一方、韓国や中国などは、この感情をナショナリズムを高め、国家形成の強力な道具としてきたので、今に至るも強い影響力を残している。
こうした感情の力を消し去るためには、それを忘れ去るか、あるいは無視できるほどの別の感情を抱くようになるしかない。要するに報仇の念そのものなのだから、仕返ししてやったとか、相手はもはや無視しても良いような小物であるとかの優越感に浸れるようにならないと、消え去ることはない。

仕返しするということはつまり、韓国なり中国なりが日本を植民地支配するということで、それは現実的ではない。サッカーなんかのスポーツ競技でやたら対抗心を燃やして、日本に勝てば大喜びするというのは、この感覚をささやかながらも満足させているためだろう。
優越感に浸るためには、相手より強大にならなくてはならない。正確には強大になったという感覚を持てるようにならなくてはならない。この点で、1990年代の中国と現在の中国では非常に面白い対照を見せている。

1990年代の中国は、日本に対して非常に敵対的だった。ちょうど経済成長のまっただ中で、日本が分かりやすい形でのライヴァルだったためだろう。経済成長に伴う社会的分裂を、ナショナリズムの強化によって解決しようとした江沢民政権の政治方針もあったのだろうが。ちなみに改革開放以前の中国は、日本と同じ土俵に登っていないので、むしろこの点では鈍感だったと言えるだろう。
2000年代後半以降、中国は日本よりも大きな経済力を有するようになりつつあり、この点で優越感を満たしつつあるようだ。感情の話なので、実態そのものは絶対的に重要ではないのだが、今年の時点で総GDPは日本を抜いているので、日本に対する優越をイメージしやすいのだろう。
ついでにいえば、中国は歴史的に日本よりも強大な国であり続けた。この点においても、日本に対する優越を回復するということは、その自尊心を強く満たすだろう。

韓国の場合、そういう意味では日本に対する優越はなかなか満たしにくい。総GDPの話をするなら、人口が日本の10倍の中国と、日本の半分の韓国とでは事情が全く異なるのだから当然だろう。もっとも、一人あたりGDPの話をしても、韓国が日本を追い抜くのはかなり難しい。少なくとも近未来の話としてはあり得ない。
歴史的にも、朝鮮は日本に対して中国とは異なる形での優越感を維持しようとしてきた。近世においては経済的・軍事的には不可能だったので、文化的な形ではあるが。

さて、冒頭で述べた「道徳的優越」というものは、こうした優越感を簡単に獲得できる。何せ韓国や中国が日本から植民地支配を受けたことは動かせない事実であり、それが「悪」であることは、認識の差はあれ三国共に共通しているのだから。
中国と異なり韓国は経済や軍事以外の方法で日本に対する優越感を回復しなければならない。文化面でいえば「韓流」なんかもその一つだろうが、実際問題として、文化的な影響力では日韓どちらが大きいのかなんて、考えるまでもない。
となると、「道徳的優越」ぐらいしか手軽な方法がない。
そこまでして日本に対する優越感を確保しなければならないのかというと、少なくとも韓国については然りといえるだろう。
つまるところ近代国家としてのナショナルアイデンティティの問題である。近代国家というものは、様々な方法でこれを獲得してきたわけである。

あまり自信を持って言える話でもないが、日本などの現在の先進国は、おおむね戦前から戦後の時期にかけてそれを進め、目下ゆるやかに国家の束縛を解き放し、ポストモダンの時代を迎えつつあると思う。
一応断っておくと、「現代」というのは「近代」に含まれるので。ポストモダンはその次の時代のこと。ナショナリズムや国家の優越なんてのは近代の特徴であろう。ポストモダンの特徴なんてものは分からないが、ナショナリズムや国家の力が弱くなっていくことは、多分間違いない。

何をもってモダンとポストモダンの違いとなるのかは、ポストモダンの定義すら不明瞭なので示しようがないが、少なくとも国家統合に務めなくてはならない国と、あまり意を注がなくても国家の分裂を心配しなくて良い国とでは、異なるものだと思う。

つまるところ日本は国家統合の必要性を強く感じていないし、経済・軍事・文化的に強い劣等意識を持つ必要もない。経済的衰退云々はあるが、実態としても強く劣ってはいないといえるだろう。
中国は国家統合の必要性を強く感じてはいるが、経済・軍事面で優越感を抱きつつある。実態としてはまだかなりの差があると思うが、「勢いがある」ことは確かだろうし、彼らもそう認識しているので、日本に対して強いナショナリズムを以て接する必要性を、今のところはあまり感じていない。
韓国は国家統合の必要性を感じてはいるが、経済・軍事・文化的に大きく優越しているという認識を持てないでいる。よって、日本に対して何らかの優越感を持つ必要があり、その材料として「道徳的優越」が持ち出される。

ゆえに、首相がどれだけ頭を下げようと、日本にある「略奪文化財」をどれだけ返却しようと、韓国人の日本に対しする意識は決して変わらない。変えてしまうと国が保たないからだ。

そう考えると、日本が韓国に対して謝罪したり文化財を返却することは、何の意味も持たない。謝罪や返却をしないと感情が一層悪化するのではないか、とも考えられるだろうが、よほど不味いことをしない限り、それは考えにくい。具体的にいえば、村山談話は踏襲し、文化財については言及を避ける。
本当は村山談話そのものにも問題があるのだが、今更なかったことには出来ないので、せめてあれ以上踏み込むことは止めるよう心がける。
もちろん韓国や中国からは批判・非難の声が挙がるが、実際的には大きな問題とはならないはずだ。問題に出来るような材料もないし。

こういう対応は、実に小悪党的ではあるが、政治、特に国際政治というものはそういうものだろう。村山にせよ鳩山にせよ、あるいは今回の一件を主導した仙石にせよ、善人ではあるのだろうが、善意が良い結果のみをもたらすような理想郷に住んでいるわけではないということを理解できない愚者であると言えるだろう。

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