2010年9月27日月曜日

長月廿七日

さて、中国問題について、考えを整理しよう。

(1)歴史的に、中国は多様多彩な民衆を支配するため、強力な中央集権制度を構築・維持してきた。
(2)だが、それにもかかわらず広大な国土と多様な民衆を支配することは困難で、実質的には地方へ大きな権限を委譲せざるを得なかった。
(3)近代以降、植民地化されてきた中国は、その克服を通して近代化を進めてきた。
(4)近代化において必要な国民の形成は、最も大規模かつ先行していたヨーロッパ列強を追い出す形で侵略を進めていた日本を敵としながら進められてきた。
(5)改革開放により経済の自由化が進められたが、このために生じた政治的自由への希求は、天安門事件という形で噴出した。これは暴力と日本に対するナショナリズムを煽り立てることで抑え込んできた。
(6)市場経済の成長路線は、今後も放棄されることはない。このために政治的自由への希求がより強まるはずだが、現在の共産党独裁を放棄することは考えにくい。
(7)今後の経済発展を維持するためには、相応の資源が必要であり、また大量の輸出品を販売する海外市場へのアクセスが必要となるが、そのためには現在海洋の覇権を握るアメリカと、その東アジアにおける最も有力な同盟国である日本と対立する可能性を、潜在的に抱えている。

以上が歴史的経緯および現在の情勢から判断される中国の状況である。この状況判断は近未来においても有効なはずである。
以上から、さらに次の推測を導き出せる。

(A)経済的自由は、より合理的に経済活動を進めるため、政治的自由を希求する。よって現在の共産党独裁に対する圧力は高まり続ける。
(B)既得権を持たない多数の低所得層は、政治的にきわめて不安定な「大衆」である。彼らを抑えるには、充分な所得もしくは社会保障を提供するか、ナショナリズムを昂揚させて不満を抑圧させるか外部に向けさせるしかない。
(C)人口が多すぎ、地域格差の激しすぎる国内事情から、経済的に問題を解決することは難しい。ナショナリズムの昂揚、特に上述の経緯から日本に対するナショナリズムの昂揚が手段として用いられるだろう。
(D)ナショナリズムを煽ることは、ヨーロッパにおいては第一次大戦、日本においては第二次大戦に至る道程で経験しており、現在では有効ではないが、中国のような近代化の過程にある国では今なお有効である。教育水準の低さと政治的自由の制限による情報の偏りもそれを助長している。だが、その矛先は往々にして弱腰過ぎると受け止められた政府に向きかねない。
(E)教育水準、所得水準の高い中所得層以上および中央政府は、日本との全面的な対立が経済活動に悪影響を及ぼすことから望んでいないはずである。だが、低所得層及び地方官僚は、その恩恵に与りにくく、またその利益よりも近視眼的利益のほうをより重視する可能性が強く、また上述の理由により中央政府がそれを完全に統制することも困難である。

よって、中国は日本に対するナショナリズムを強調するし、それをコントロールすることは、思想信条の自由を制限しているにもかかわらず極めて難しい。
また、ナショナリズムを煽ることはあっても、日本との全面的な対立にまで持ち込まれる可能性は低い。仮に持ち込まれたとしても、現時点で中国が日本を屈服させることは困難であり、またその場合、経済発展には多大な支障が出る。

以上が中国の現状から推測される対日政策の基調である。
逆に日本からすると、中期的(数十年程度)には、日本と中国との総合的な経済力については、格差が広がっていくだろうし、高付加価値産業や研究開発能力も、じりじりと差を詰められていくだろう。またその間、政治的な圧力は高いままである。

日本という海洋国は、基本的に戦争に向かない。正確に言えば、長大な海岸線を抱えていることから防御的な戦争には弱いため、攻撃的な(侵略的な)戦争が向いているということになる。だが、これは現在の覇権国家であるアメリカと協力するか潰すかのどちらかを行う必要がある。かつては後者を望んで失敗したため、現在は前者の方針を採用しているのだが、当座の所、アメリカは中国と全面的に対立する必要を感じていない。というか覇権を維持している限り、現状維持で問題ない。覇権を握るというのはそういうことだ。
中国は、地政学的にはドイツやロシアと同様、大陸国家と見なし得る。つまりアメリカ(あるいは日本)相手に侵略的な戦争を起こしにくい。
かつてのソ連同様、中国もまた外洋海軍の建設に力を入れているが、これには時間と金がかかる。十年やそこらでどうにかなるようなものではない。

要するにどういう事かというと、日本からすれば中国は今後数十年にわたって最大の仮想敵国であり、政治的には最大の敵性国家であるが、向こうから全面的な対立もしくは戦争を仕掛けられる可能性は低いし、万一そうなっても負ける可能性はさらに低いと判断していいということである。

ちなみに、こう書き連ねてきたが、日本と中国とが経済関係で反目する可能性はあまり高くない。全面的な対立に陥ったら話は別だが、そうでない限りは、表向きは友好的な関係を維持する。中国も世界経済の一員であり、最低限のエクスキューズは守る義務がある。例えば今回の一件でレアアース問題を取り上げたが、本当に対日禁輸を行った場合、中国が被るダメージは政治的なものだけでなく、経済的なものとしても相当なものとなったはずである。
良く言われることだが、経済的な依存関係は戦争を阻止する決定的な要因とはならない。日本がアメリカに喧嘩売ったという事実は、軍事や歴史に関心のない人間からは、どういうわけか忘れ去られがちである。

さて、そうであるならば、日本が中国に対して必要以上に友好的に振る舞う必要はない。上辺は友好的な関係を標榜し、経済的関係もそれなりに深めつつ、政治的にはギスギスしていて良いわけである。
というか黙っていてもそうなる。少なくとも向こうにはそうする理由があるし、短期的な理由でそうしないことはあっても、何かのイヴェントが起こればすぐに覆る程度のものでしかない。小泉政権時代の政冷経熱を経て、政治的にも友好ぶりを演出してきたが、それが上辺だけだったことは今回の一件からでも明らかである。
となると、日本が上辺以上の友好を求めても無駄だし、囚人のジレンマを思い起こせば、必要以上の友好を求めることは、それが相手への一方的な譲歩を意味するわけだからして、不利益ですらある。
最低でも、相手と交渉できるカードを用意しておかねばならないし、可能であれば、対中関係のイニシアティブを握り得るだけの用意は調えておくべきだろう。
以前にも書いたが、僕は中国の政治的不安定を更に煽動する、もしくはそうなりやすいよう環境を整えておくことは有効だと考えている。
もちろん実際に煽動するのは愚策である。エクスキューズを守ることは大事である。可能な限り婉曲に、見えにくい形で。反体制組織への間接的な援助など、方法はいくらでもある。

実際に中国が政治的混乱状態に陥った場合、日本が被る政治的・経済的不利益は決して小さくはない。最悪、核ミサイルが飛んでくる可能性すらある。
このあたりのリスクマネージメントは当然進めておかねばならない。というより、それを踏まえて軍事面・経済面での対処法を用意しておく必要がある。

軍事面での対応は、現在進めている軍事力整備の方向性で正しい。小規模な弾道攻撃への防御、対潜水艦・対戦闘機能力の向上、島嶼戦闘能力の整備。いずれも合致している。戦闘機の導入だけはうまくいっていないみたいだが。
経済的には、チャイナリスクの認識ということになるが、政府から直接手を入れにくい分野ではある。が、代替資源の開発や備蓄整備などは進めているし、中国以外における新規生産拠点の開発も進めているわけだから、ある程度の成果は上がっているのだろう。


……とまぁ、こんな話をnoriともりりんにしたら、もりりんから「ゲーム的すぎる」と言われた。
まぁ、それは僕も自覚してはいるが、極端な話、最悪の場合は相手と戦争するぐらいのつもりでいなければ、最悪の場合は戦争する必要があると考えている相手との交渉なんぞ、勝てるわけがない。
極端な手段というのは、それを使うのは負けになるが、それを用意できないのであれば、それはゲームに参加できないもしくは自動的に敗北するという意味で、やはり負けであろう。
ポーカーの例を再び持ってくるのであれば、対等な条件を持つ者同士のゲームであれば、ブラフかどうかは最後まで分からないわけである。最初から降りるラインを示している相手なら、どこからがブラフであるか分かっているわけだから、必勝とまでは言わなくともきわめて有利であろう。
僕にしても、実際に中国に謀略の限りを尽くせとは思っていない。が、それを行うだけの能力を備えておけば、実施するかどうかの意思を交渉の材料として用いることが出来る。交渉の材料も持たずに交渉なんぞ出来るわけがない。
北方領土にせよ竹島にせよ、日本人は交渉材料を用意せずに交渉を行おうとする悪癖というか無邪気な癖があるように思える。バブル前とは異なり、圧倒的な経済力なんてものは失われたのだから、いい加減夢からは覚めるべきだと思うのだが。

2010年9月25日土曜日

長月廿五日

昨日は、リポジトリ関係者の研究会があった。
いろいろと面白かったが、中でもH大担当者の発表が興味深かった。
リポジトリを整備するには著作権の処理が問題となるが、これをいかに処理するかというお話。
今後書かれる論文については、リポジトリを担当する組織に対し、複製権と公衆送信権を承認することで、著者の著作権を維持しつつ、リポジトリとして論文をオンラインに掲載することが可能となる。
またこれまでの論文について、特に著者が故人となっているような古いものについては、サイト上で公示することで、許諾に換えるものとしている。要するに文句がなければ勝手に掲載するというわけである。
著作権法上問題のある行為なのだが、営利の手段ではないことと、いちいち許諾を取ることが現実的ではないことからの、非常手段ということである。
こうした方法については、印仏研などいくつかの大手学会誌ではすでに行われている。これは参考にすべきだろう。

本来、正規の職員のみを対象としているところを無理やり参加させてもらったので、打ち上げと二次会はタダだった。素晴らしい。


酔っぱらって帰宅したら、中国船の船長を釈放したとのこと。
正直、しばらく理解できなかった。アホじゃなかろうかと思わざるを得ない。

この手のビットは、相手の手の内をすべて晒させるのが、当たり前の目標となる。
中国側がレイズを続けていたのであれば、黙ってコールし続けるということである。

フジタの社員が人質になったわけだが、命を取られる可能性は極めて低い。仮に処刑してしまえば、それこそ日本に対して一方的に中国をたたけるワイルドカードを渡すことになるからだ。
レアアースもすぐに備蓄が尽きるわけでもなし、味方を作ってWTOに持ち込めばいい。というか日本が動かずとも動いてくれるようにも持っていけるはずだ。

コールし続ければ、北京は振り上げたこぶしの下ろし所に困ることになる。交渉するならそれからだろう。
一時的に対日感情は悪化するが、これはどのみち避けては通れないコストだし、必要であれば中国に世論操作を求めればいい。おそらく、黙っていても中国政府は世論操作を行うだろうが。
今降りれば、相手に格好の攻め口を与えることになる。
もちろん、次に侵入してきた漁船を拿捕することも可能だが、わざわざそうするメリットがない。

いやほんと、今釈放してどんなメリットがあるんだろうか。さっぱりわからん。


追記
中国の対応が日本政府の予想を超えるのは、充分にあり得る話なので、そこで腰が引けたということ自体は別におかしくはない。
一番いいのは、ゲームを始める前に相手の対応を読み切ったうえで、コールするかドローするかを決めておくことだが、これは現実的には難しい。基本的には相手の出方は推測するしかない。となれば、推測を誤ることもあろう。
今回の最大の問題は、結構な額まで掛け金を釣り上げたところで降りたことであろう。相手が引くに引けないということは、初期の時点で分かっていたはずだ。
ゲームを続けていれば取り返しがつかなくなるという段階には至っていなかったし、その意味では中途半端に過ぎる。
今後ゲームが行われるに際しては、日中双方とも、この結果がスタートラインに影響を及ぼす。日本にとってはどういう意味でも悪影響しか及ぼさないだろう。

2010年9月20日月曜日

長月廿一日

おおむねKindleと格闘する一日。

青空文庫のデータをPDF化する青空キンドルを使って、幾つかのデータを落としてみたのだが、読めないものもある。また、「々」など一部の字は対応していないらしく、読み込めない。このあたりは今後のアップデートで解決される……といいな。


おとつい、3年に及ぶ留学生活を終えて帰国してきたMさんを迎え、H君と三人して晩飯を食ってきた。
中国語は上手くなったが、後はあまり変わっていないような彼女から、色々と面白い話を聞けた。
聞いたと思ったが、今こうして文章にしようとすると大して思い出せない。酒飲んでいたからというのが大きな理由だろうが、まぁ、仕方がない。

あまり役には立ちそうにない話は、しっかりと覚えている。これはいつもの通り。
どういう話からこう繋がったのかよく覚えていないのだが、とにかく、中国との付き合い方みたいな話題だった。
やはり政治的な意味での思想信条の自由がない国なので、色々と難しいところがあったりするそうである。
まぁ、留学生故にというのもあるだろうし、それ故に許されるというのもあるみたいだが。
チベットや台湾、新疆なんかのネタが代表格だろう。あまりおおっぴらに話せないわけである。
特に教授ともなると、建前をきちんと守らないと、自分の首が危なくなる。
なんだったかの折りに、彼女がそうしたネタを口にしたら、それっきり黙り込まれたこともあったそうである。
日本でいう近世以前(あちらでいう古代)を扱う場合は、歴史学でも比較的事実求是の原則が守られるはずなのだが、まぁ程度というものがあるわな。特に外国人にはそのあたりの微妙なラインは見えにくくても仕方がない。

で、そこからどう繋がったかやはり忘れたが、日本にとって、まずい状況に陥った上での中国との付き合い方みたいな話になった。
僕としては、中国は分断して内戦状態にあってくれた方が、日本にとってはまだマシ(良いと思っているわけではない)と考えており、そのように話した。
チベット近代史をやっているH君も似たような意見である。
Mさんはあまりお気に召さなかったようである。


以下は、Mさんとの会話とは直接の関係はない。

基本的に僕の政治、特に国際政治に対する見方は、友好とか理想とかに頼らないドライなものである。
損得のみ。相対的には、損か大損かという選択肢もあり。そんな二択に追い込まれないのがベストだが。
一番良いのは、上の表現に倣えば、得か大得かというものであろう。ここ数年よく聞く「ウィン・ウィン」というヤツである。よく中国政府の人間がこれを口にするが、わざわざこんな言葉を連呼するということから、逆にいかにこうした概念から遠くにいたのかよく分かると思ったりするのだが、これは穿ちすぎだろうか。
それはともかくとして、相互互恵関係というのは、それなりの理由がないと存在しない。互いの利害を補完し合う関係にないと、基本的に成立しない。
中国と日本とでは、このあたりで噛み合わなすぎると、僕は思っている。
中国にとって、日本と仲良くすることで得られるメリットと、日本を敵にすることによって得られるメリットがあるわけだが、歴史的経緯から、前者に比して後者の方が大きすぎる。
中国にとって、協力者としての日本の存在は絶対必要ではない。日本にとってもまた然り。日本の場合、現在の覇権国家であるアメリカの存在がなければ、また分からなくなるが。

それでも仲良くするだけならタダだし、他に面倒がないなら仲良くして悪い理由は全くないのだが、面倒が発生した場合はそうも言っていられなくなる。
今起きている尖閣問題なんかがその良い例だろう。仮に日本が全面譲歩したところで、尖閣以外の何かが問題になるだけである。中国は、圧力の高まる一方の国内を抑えるのに、反日という呪文を必要としているし、これを必要としなくなるということは、少なくとも現在の体制である限りは考えられない。
反日以外の呪文で国内のガス抜きが出来るなら別だが、そんなものは今までの歴史に登場してこなかったし、ガス抜きの必要がなくなるまで圧力が下がるということは、国内全てが「平等に」豊かになっているか、政治が致命的なまでに混乱──要するに共産党政権が崩壊──しているかのどちらかしか考えられない。
人類の歴史上、全ての人が貧しくなって政治が安定することはあっても、その逆がなかったことを考えると、前者の選択肢はあり得ない。後者については、当然共産党政権が望むはずがない。
よって、中国が反日という呪文を手放すことは考えられず、今後も似たような展開になることであろう。

逆の観点から推していくならば、あまりに中国の脅威が高まりすぎた場合、共産党政権の崩壊を目指すというのは、日本の立場からするなら検討していい選択肢となるはずである。
もちろん、その場合は厖大な難民や経済混乱など、非常に大きなリスクを伴うことになるので、安易に採っていい選択肢ではない。(そういえばMさんも口にしていた。ただし、僕からすればこれは対処可能な問題であると思う。コストは嵩むが)
が、損と大損とを比較するならば、話は別になる。日本を敵とすることを宿命付けられた国家がどんどん強大になっていくことを考えれば、状況次第ではリスクを取った方が良い場合もあろう。

日本を敵視することはやむを得ないとして、その上でそのような極端な手段を採らなくても済む体制というのはどういうものだろうか。
例えば韓国は、歴史的経緯から日本を敵視するという点では中国と同じだが、一面で双方とも深刻な危機を想定せずに済んでいる。これは双方がパックスアメリカーナに組み込まれているからであり、また政治的に劣位にある日本が、経済的には優位にあるというためであろう。
中国はこのいずれにも該当しない。新しい関係を築かないことには、この先きわめて不安定な局面に陥った際にどうなるか分からない。
日本の利己的な利益のみを考えるのであれば、中国を解体し、韓国とよく似た政治体制の国家を樹立し、その国と韓国とよく似た外交関係を構築すれば、安定する可能性は高い。
もちろん、これは中国が再び分裂状態に戻るということであり、中国、特に現在権力を握っている共産党にとっては大損である。何としてでもそれを防ごうとするだろう。
であるならば、それは交渉材料に使える。あくまで、中国が国家分裂した際のリスクを覚悟するという非常手段ではあるが、中国への分裂工作を婉曲な形で進めておくことは、別の案件でのカードに使える。

こうした露骨かつ対抗策を見いだしにくいカードというものは、その準備だけでもかなりの面倒事になる。中国や韓国が歴史問題で攻め立ててきたときに、日本が感じる不快感を更に強烈にしたものだろう。
よって、その準備はかなり慎重に行うべきだろうし、またその行使にはさらに慎重になるべきであろう。その意味では核兵器に似ている。
が、日本が表に出ない形でという条件を満たせるのであれば、ある程度は進めておいた方が、この先を考えると賢明なのではあるまいかと、僕は考えている。

実際、表に出ないだけで結構やってはいるみたいである。長くなりすぎるので今日はもう止めるが。

2010年9月19日日曜日

長月十九日

Kindleが届いた。
はえぇよ。

発送が9/17となっているので、2日後の到着と来るならば、国内のデポから届いたということになるのだろう。まぁ、ロジスティクスが強いのはAmazonの力の根源なのだが。
まだ保護シートが届いていないので、元からついているフィルムはそのままにして使うことにする。

早速起動してみる。
随所でいわれていることだが、E-Inkの力は偉大で、とても液晶画面に表示されているものとは思えない。確かにこれは凄いわ。
画面サイズについては、やはり随所でレビューされているとおり、新書サイズまでならストレスなく快適に読めるのだが、A5で小さく感じられ、A4になるとかなり読みづらいものとなる。B4になると読めたものじゃない。
まだ多くはチェックしていない──というか、こうも早いとは思わなかったので、データの大半を仕事場に措いてきてしまった──のだが、幾つかのファイルで試してみたところ、オーソドックスなA5サイズの論文なら、何とか読めそうである。それでも文字は小さい──おおむね7~8ポイントぐらいだろうか──ため、老眼の人には辛いはず。
一応横に倒した状態で表示させることも可能である。この場合、画面サイズがおおむね1.5倍になるわけだが、当然画面の上下は半分になるので、使い勝手は悪くなる。基本的には非常手段と考えるべきだろう。

ある程度覚悟してはいたが、全てのデータのデジタライズというのには、やはり無理がある。先達が述べているとおり、差し当たっては文庫・新書が中心となり、A5サイズまでが実用限界ということになるだろう。
これ以上のサイズの図書をデジタライズしたければ、DXかiPadを手に入れる必要がある。アレならひとまわり大きなサイズまで対応できる。
文庫やコミックを除けば、図書のほとんどはA5ぐらいで、文書類を含めるとしてもA4サイズまでがほとんどなので、やはり将来的にはそこまで至る必要があるかも知れない。

なお、一部のフォントが対応していないらしく、文字で表示されないものがある。日本語や中国語で若干そういう例があったのだが、具体的にどれがそうなのかは今のところ分からない。このあたりは今後のアップデートに期待しても良いだろう。

本来、Kindleは電子図書を読むことを前提としており、PDFはそもそも対象外だったことを考えると、僕の使い方の方がおかしいわけである。
が、日本の電子出版が近い将来に大きく前進するという見込みは、色々宣伝が為されてはいるのだが、僕としては悲観的である。少なくとも、紙の本と同程度の値段設定をしようと考えている間は、売れ行きが大きく伸びるとは思えない。英語版は1割引にしたことで大きく売上を伸ばしたのだが、日本でそれをやるには再販制の壁が立ちふさがる。この制度を撤廃しない限り、簡単にはいくまい。

その日が何時になるのか知らないが、それまでは自炊中心というのが、日本の潮流になるのではないだろうか。多分その間に中国や韓国の方が先に進みそうである。
良きにつけ悪しきにつけ、著作権に縛られることの少ない彼らの方が有利というのは、なかなか皮肉なものであるとは思う。

2010年9月18日土曜日

長月十八日

非常に困難なものであると予想された中国全土の塩政史関係データ入力だが、予想よりも好調である。

基本古籍庫のテキストデータは、200文字以内しかコピーできないという制約がある。
もちろんこれは悪用を防ぐためだが、使いにくいことには違いない。
が、それは我慢すればいい範疇の問題ではある。少なくとも手打ちで入力するよりは効率的だ。
で、文字位置調整のために改行部位には全角スペースを使っているのだが、これはExcelのデータ区切り機能を使い、スペースでデータを区切ってしまえばまとめてつぶせる。
これにより、例えば

成都縣行鹽陸引一千八百五十四張於簡州買鹽至本縣行銷  華陽縣行鹽陸引二千一百張於簡州買鹽至本縣行銷

という文字列は、

成都縣行鹽陸引一千八百五十四張於簡州買鹽至本縣行銷
華陽縣行鹽陸引二千一百張於簡州買鹽至本縣行銷


とふたつのセルに移しこむことができる。
さらに楽をしたいなら「鹽」と「於」などで切っても良いのだが、まぁそこまでせずとも各セルにほしいデータをコピペすればいいわけであり、その隣のセルに算用数字に置き換えた塩引数を入力するわけである。観数字を算用数字に置き換えることもできるだろうが、まぁそれもいい。
すると、

成都縣 陸引一千八百五十四張 1854
華陽縣 陸引二千一百張 2100


という感じになる。最終的にはこうして得られた数字を合計するわけである。

以上の作業は、ほとんどすべて四庫全書本のデータである。もう少しいろいろな時代の史料を欲しくもあるのだが、ある時代において網羅的に集められたデータというのは、建国当初を除けばなかなか得られないものである。四庫全書本のデータはおおむね雍正10年ごろのものなので、清中期ごろのデータとしては重宝するものになるだろう。

まぁ、やっぱり今月中で終わらせるのは無理だろうけど。

2010年9月17日金曜日

長月十七日

円高にものをいわせ、Kindleを買うことにした。正確にはKindle3。先月出たばかりだったか。
2までは日本語フォントに対応していなかったそうだが、3では日本語と中国語に対応しているとのこと。
まぁ、よくよく考えてみると、Kindleを使って読みたいものは、大半がPDF化された論文などの文書なのでOCR機能を使うつもりがなければ、あまり問題なかったような気もする。PDFは2から対応してたんだっけ?

いずれにせよ、ウチにある論文その他を大量に処分できるというのは素晴らしいことである。
処分だけならいまでも出来るのだが、これを読める環境がPCしかないというのが難点だったため、どういう形であるにせよ携帯端末を導入するまでは、本格的なペーパレス化を進める気になれなかったのだ。
ついでにいえば、PDF化の作業は仕事場のScanSnapを使っているのだが、これも自前で欲しいところだ。裁断機だけは大学のを使った方が良いけど。

Kindle3はWiFiモデルとそれに加えて3G通信規格モデルの二種類がある。後者の方が通信速度は速いが、50ドルほど高い。
動画を観るとかならともかく、テキストデータであればせいぜい数メガ程度だし、WiFiのみ($140)で充分だと思ったが、何となく3Gモデル($190)を買った。どういうものかよく分からないので、円高による分を突っ込むくらいのつもりでそちらのしたのだが、素直にWiFiモデルを買って差額の50ドルで何か別の本でも買えば良かったかもしれない。
で、送料・完全を加え、$220.48(19,282円)なり。予算の2万円をぎりぎり割った。
ちなみにその後、保護フィルムを買おうと思い立ったので、+1400円。見事予算オーバーである。

すぐに来るとは思わなかったが、昨日発送通知のメールが届き、来週の水曜には届くらしい。早いと言えば案外早い。この手に受け取って保護フィルム貼って初回起動に成功するまでは信用出来んが。
なお、一応対抗馬として日本橋に行った折りにiPadも見てきた。
面白いオモチャではあるが、オモチャとしての機能を充分に発揮させるには、通信費を捻出する必要がある。携帯をソフトバンクに変えてiPhone+iPadという組み合わせなら安いのだろうが、そこまでする気もないし。
iPadとKindleの最大の差は、色が付くか付かないかということ。Kindleは色が付かない代わりに、2色限定ならiPadよりも優れている(らしい)。

僕としては、動画なんかはPCで見ればいいので、Kindleで充分である。
もりりんと話していたのだが、彼がコレクションしていて置き場所に困っているGun誌などは、写真ページが結構重要である。女の子じゃなくて鉄砲だが、グラビアと同じだ。こういう場合はiPadが良いか悩ましい。僕としては、PDFなり何ならBMPなりでデータを持っておいて、絵を見たいならPCで見ればいいと思うが、このあたりは個人差があるだろう。

ま、来週が楽しみではある。

2010年9月15日水曜日

長月十五日

入力すべき各省志の塩政志からプリントアウトしてみたのだが、紙束の厚さに心が折れそうです。
とりあえず今月中とか無理だわ。
まぁ、何時かは終わると信じて……!(ご愛読ありがとうございました)



先日から、少し考えていることがある。
一応、歴史なんてものを研究していると、時代の変化というヤツにある程度の感覚を持つようになる。もしくは持つように心がけるようになる。

「今は変革期」とか「時代の変わり目にある」なんて、よく聞くセリフだが、実際の所、変わらない時代なんてありゃしないし、せいぜい80年ほどしか生きない人間にとっての変化に過ぎない、と僕なんかには思えてならないようなことも多い。

例えば、アメリカの金融危機なんかが良い例だ。
「100年に一度」なんて連呼していたものだが、ブラックサーズデーもブラックマンデーも無視ですか。第一次や第二次大戦の戦中・戦後の不況は無視ですか。
ブラックマンデーはともかく、それ以外については、もはや直接的な経験としては知らない人の方が多い。所詮は同時代人にとって衝撃なのであって、半世紀ほど、もしくは数世紀ほど後の視点から見てみれば、それほどの変化ではなかったことも多い。

ブローデルやウォーラーステインなどの提示した歴史の見方として、「長い歴史」という概念がある。文字通りの意味で、長期的な変化についての概念だ。
ブローデルは、個々の事件や変化について述べた「短期的変化」、数世代単位で刻まれる社会・経済的な変化について述べた「中期的変化」、地理的条件など簡単には変わらない「長期的変化(持続)」という三つの時代区分を用いて、地中海の歴史について述べた。
つまり、個々の変化を見ていただけでは、長期的な変化を見落とすことになりかねないというわけである。

で、この概念を援用して、時代区分を行うことが可能となる。
短期的には、これまで同様の事件についての歴史。ある特定の変化について述べる。
中期的区分については措くとして(必要かどうかはテーマに依るだろう)、長期的区分としては、「近代」とか「中世」とかが挙げられる。

中国史を研究する場合、古典的なマルクス史観に基づく時代区分や中国一国を強調する時代区分などが存在するが、どちらにしても難がある。これについて議論を行い出すときりがなく、実際、きりがなかったため、最近の研究者はこの問題についてほとんど触れることがない。僕も願い下げだ。
が、世界史レヴェルで歴史をみる場合、やはり時代の大きなくくりは必要だと思う。ウォーラーステインなんかは、「近代」という時代を、15世紀にヨーロッパで誕生したある世界システムが発達して、世界を包含していく過程として捉えている。
これについても異論はあるわけだが、僕としては、大筋として間違ってはいないと考える。
で、この「近代」という時代がいつまで続くのかという問題だが、彼はもうじき終わるのではないかと考えているようだ。

長らくこの点について考えるところがなかったのだが、最近になって同じように思うようになってきた。
「近代」という時代は様々な要素から構成されているのだが、あるひとつの側面から見るなら、特定地域への資本の集中と、それを原資として進められた工業化による富の拡大・集中の時代と見ることが許されるだろう。換言すれば、物質的価値の飽くなき増大が図られた時代ということである。
要するに、植民地から収奪してきた富を元手に工業化を進め、その製品を売りつけることで更に資本を増やしていくという過程である。
この考え方は、1960~80年頃まで適切だったと思う。つまりは植民地というものが、名実と共に地球上から消え去っていった時代までということである。
広義の植民地、つまり不等な関係で資源を収奪される側というのは、現在もある程度は残っているわけだが、かつてほど明瞭な形では存在しない。

さて、話を少し戻そう。工業化を進め、あるいは発達した金融業による資本そのものの集中・管理により、その地域が豊かになっていくというのが、近代における「豊かな」地域の特徴である。
この構造の根本は、工業化(モノカルチャーなど農業の近代化も含めて良いだろう)によって多量の商品を生産し、それを消費させるというものである。この過程で多量の資本が運用されるため、それを握る者は大きな力と富を得る。
では、モノとしての商品がひと通り充足され、これ以上のモノを必要としなくなった社会があるとすれば、どうだろうか。もちろん、消費財は必要だし、新製品もある程度は消費されるが、生存のための需要は大きくはない。それを大きく必要としないほど、社会的インフラが整備されている社会である。

要するに、今の日本だ。
他の先進国も多かれ少なかれそういう傾向にあるが、特に日本においては、生きるのにさほどの資本を必要としない。「健康的で文化的な最低限の」生活という概念は決して現実化しない空文ではあるが、他の社会と比較してみれば、かなり高いレヴェルで達成されていると言える。
まぁ、いつまでこの状況が続くのかは知らないが、数年や十数年で崩れるようなものでもなさそうである。
これとて日本以外の地域から富を収奪した結果ではあるのだが、かつてのような一方的な傾向は強くはない。日本という地域に集積された様々な形態の資本が生み出す価値により、富を手に入れていると考えて良いだろう。

かつてと異なり、日本など先進国でなくてもかなり豊かな生活を送れる可能性が高まりつつあると思う(ここでは貧富の問題を無視する。詳述しないが、歴史的に見れば相対的にはこの問題は弱くなっていると考えられるためだ)。となると、世界全てが、資本の飽くなき集中を目指した時代を終えられるのだろうか?

こうした構造が持続するには、ふたつの問題がある。

ひとつは環境問題。いうまでもなく、現在の経済は物質的価値を生み出すのに環境(天然資源を含む)を消費している。ゼロエミッションが近い将来に達成できそうにないこと、大航海時代のヨーロッパの如く世界を拡大するため宇宙に進出するには、いまだコストが嵩みすぎることから、これまでのように資本を増やしていくことは難しい。

もうひとつはシステムそのものの問題。近代化というもののもうひとつの見方は、技術革新による生産性の向上というものであると思う。
例えば、9人の農夫がひとりの都市生活者を支えていたとする。9人の農夫は、彼らが生産した価値から、自己の再生産(これには家族の扶養や彼の生活を守る行政・軍事機構への納税も含まれる)に必要な分を取り置き、残りを流通させる。流通過程(この過程で一定の価値が消費される)を経て都市へと物資は流れ、都市生活者の生存を賄う(この対価として彼もまた価値を生産し、提供する)わけである。
技術が発達し、農業生産性が上がると、8人の農夫がふたりの都市生活者を支えられることになる。
都市生活者は工業生産品や技術などを開発・生産し、それを提供する。都市生産者のアウトプットが増えれば増えるほど、全体としての価値は増えていくというわけである。
もうひとつ例を出そう。10人の工員が居たとする。機械を導入したことにより、8人で良くなった。2人は研究者なり金融事業者にでもなったとしよう。つまり工員よりも大きなアウトプットを出せる職である。機械の性能と導入規模が増えることにより、必要とされる工員の数は減り、より大きな価値を生み出す職に従事できる人間が増え、全体としての富は更に増えていく。

このモデルには欠陥がある。技術革新によりある業種に必要とされる人員が減ると、余剰人員はより生産価値の高い業務に就き得るということは、あくまで仮定である。適切な雇用の受け皿が存在しないと、失業することになる。つまりアウトプットはゼロになる。
となると、必ずしも生産性の向上を目指すという方向へのみ、指向されるとは限らない。生産性が低くとも、雇用の維持のため、あえて現状を維持するという選択肢も充分にあり得る。日本の農業なんかが良い例だろう。

また、上述したように、生存に必要な価値を高いレヴェルで充足してしまい、これ以上の価値への需要が高まらない場合も、生産性向上へのモチベーションが高まらない。生産性を向上させても需要がなければ意味がないからだ。

以上、長々と述べてきた考えが妥当だとするのなら、物質的価値の増大を目指してきた近代という時代が、終わりを迎えつつあるのかも知れない。
では、ポスト近代とはどういう時代か? こうなると歴史屋の守備範囲を超えるが、あえて臆測するなら、物質的価値以外の価値が高まる時代ということになるだろうか。
こう書くと、途端にうさんくさく感じられてしまう。宗教じみてくるからだろう。確かに宗教というのも非物質的価値のひとつだが、それに止まるものでもあるまい。広義の文化はほぼ全て該当するだろう。
そう言い切ってしまうと、今度はひと昔前のSFで描かれた理想郷みたいなことになってしまいそうだが、まぁそちらもあるまい。
環境・資源の問題はどのみち解決せねばならず、そうなると宇宙に出るしかなくなる。そのためには莫大な資本と更に先進的な技術が必要となる。こちらは近代的価値そのものであるため、これまで通りの枠組みが充分通用するわけである。

よって、その両者のバランスが取られることになるわけである──と書いていて思ったが、それって、結局従来とそれほど変わらないのではなかろうか? 剰余価値を文化と技術開発に投資し、それによって社会の安定と発達を促す……変わらんなぁ。
ま、宇宙に出られる/出なければならなくなるのは、もう少し先になるだろうからして、それまでは文化が相対的に重視される時代になるのだというあたりなら許されるだろう。
なんか、大航海時代を控えたルネサンス時代の到来を予測しているみたいな感じになってきたなぁ。時間をかけて、もう少し考えを整理していこう。

2010年9月11日土曜日

長月十一日

論文に限らないが、面倒な部分と面倒でない部分がある作業を片づけるときに、どこから手をつけるか。
食事の際に好きな料理から食べるか、もしくはケーキのイチゴから食べるか、人類永遠のネタである。

僕はというと、順序はあまり気にしない。というか、好き嫌いでソートしない。五十音なりなんなり、主観の入らない方法が好みである。食事の際はまた別だが。
そうはいっても、異なる種類の作業を、どちらから片づけるかなどという場合は、主観によって決める必要がある。コイントスで決めても良いんだが。

というわけで、明代と清代の、行塩地・塩引数・人口を調査しなければならなくなった現在、どこから手をつけるのか、決定する必要ができた。

で、一番楽そうだった人口について……論文に掲載されている推計値をExcelに入力するだけの簡単な作業です。未経験可。

改めて自分のデータフォルダを確認してみると、すでに入力してました。簡単な作業だけに。

仕方ないので、次に塩引数を入力することにする。いくつか出ている省志から塩政志をコピーし、そこから該当する数字を入力する。
かつてはクソ重い図書を借り出し、1枚10円のコピー費を払って、いちいちコピーを取っていたものである。また単純なデータの集積なので、無駄にページが多かったりする。
時代は進歩し、基本古籍庫から必要なデータをプリントアウトするだけで良くなった。コピペがベストなのだが、さすがにそこまで親切な設計ではないので、ワンクッション置くのは仕方がない。OCR処理は為されているので、コピペ自体は不可能ではないのだが、コピーできる分量に制限があるのだ。
というわけで、地名と数字をいちいち入力しているが、考えてみれば、一番面倒くさい地名ぐらいはコピペしたほうが早いかもしれない。まぁ、今使っている環境からは基本古籍庫にアクセスできないのだが。

現在、雍正刊本の河南通志の作業を進めているのだが、これを十三省分行わねばならないということになるのだろうか。広東と広西は作業の必要がないとしても、あと10省である。考えだけでも死ねそうだ。
頭の中を、エスカフローネのOPのサビが流れる。「のぉみそ、などいーらーなーい」
まぁ、いつか終わる作業である。史料も集めにゃならんし、今月いっぱいでこの仕事が終われば良しとしよう。

2010年9月9日木曜日

長月九日

つらつら考えるに、明代の塩政を研究するだけでは、上手く行かないかも知れない。
もちろん、明代のみで片付けるつもりはなく、明代の研究を終えた後に清代の研究に移るつもりだったが、それでは問題があるかも知れないと言うことである。

もとより、複雑怪奇な塩政について、一度に全ての研究を行えるわけがない。
少なくとも10年前の僕には、塩政全体の見通しなど立てられようもなかった。
そこでケーススタディとして、まず明代の広東について研究を行い、そして地域を広東に絞って定点研究を進めたわけである。

現在の僕は、明代から民国初期までのパースペクティヴを得られる状態にある。地域としては広東のみだが、中国全体の全般的な傾向も予想し得るだろうというのが、現状に対する判断である。

となると、次に行うべきはその実証、つまり中国全土におけるある程度長期にわたる塩政の変化について、検討すべきである。
そう考え、まずは明代から検討し、次に清代へと進めるつもりだった。もう少し具体的に述べると、明代と清代のそれぞれ中期及び後期を対象としたいと考えている。広東においては、清代中期になると官塩供給量の調整を放棄し、需要の拡大は私塩の放置によって賄うことになったが、これは明代においても、また中国全土においても共通しているのだろうか?

ところで、研究の進め方は、まず行塩地(官塩市場)の変遷を明らかにし、次いで販売される官塩の量を明らかとし、それと人口数から得られる需要量とを比較することで、差額として求められる私塩(密売塩)の規模を求め、それによって塩政の安定度を測るというものだった。

このうち行塩地と官塩販売量は、塩政関係史料から求められる。いわば研究の中核である。
で、明代と清代の人口については、人口史の専門家である曹樹基先生の研究成果から求めていた。人口史については今なお研究が続けられているが、中国各地の人口を推計している研究としては最新のものであり、その確度も比較的高いものと、僕は考えている。
ただし、中国人口史の一般論として、明代の統計史料の正確性はかなり宜しくないというのが通説である。正確には清代中期頃まで、人口統計は信用できないものとされている。これは人口統計を製作した理由が、人口数の把握それ自体にあるのではなく、徴税台帳として製作されたため、徴税を忌避する人民が統計から遁れようとしたことと、そしてそれに関連して明代中期以降に進んだ人口の流動化が起きたことなどが理由として挙げられる。
要するに、明代から清代中期の塩の需要規模を正確に把握することは難しいということである。

となると、比較的信頼性の高い清代中期以降について研究を行い、次いで清代初期・明代後期・明代中期(順番はどうでも良いが)と進めた方が、人口数の不透明な部分についても、より蓋然性の高い推測を行うのに適当ではないかと考えたわけである。

もともと二本の論文で行おうとしていた研究であるからして、まとめて一本でというわけにはいかない。相応の時間と労力とを投入し、おそらくはその1・その2という感じで二本立ての論文ということになるだろう。
労力はともかく、時間については頭の痛いところだが、考えてみれば先の論文はまだ発表したばかりであり、1年に二本書くつもりでやれば、なんとか収まるかも知れない。時間的には長期間だが、扱う史料はほぼ同一だからだ。少なくとも、別の論文を二本書くよりは早く済みそうな気がする。

明代については『明実録類纂』を使ったが、清代については、ジャンル別の類纂は出てないはずである。地域別ならあるのだが、さすがに全部チェックするのは辛い。
それほど精度の高い史料が必要なわけでもないので、地方志あたりから塩引数や行塩地について情報を引き出し、まとめる作業を行うことになるだろうか。