2011年6月11日土曜日

塩引数変遷についての研究見通し

相も変わらず「遅々として進む」感じで作業を続けている。各行塩地の塩引数の変遷を辿るという「1-1」ステージは、もうじき終わりそうである。ラストが、両淮という大物なわけだが。

塩斤数をチェックする「1-2」については、半分程度ははっきりしているのだが、残り半分は今一つよくわからない。税収と直結する塩引数については、比較的分かりやすく(それでもかなり複雑な表現を使っていたりするが)、把握もしやすいのだが、塩斤数については、そこまで分かりやすくまとめられていないこともあるのが面倒臭い。
最悪、もう一度人文研へ出張らないといけないかもしれない。

人口数を把握する「1-3」ステージは、作業が住んでいる。というか、先行研究のをそのまま引用するので、問題とならない。

問題は、税収云々が絡んでくる第2ステージなのだが、今から悩んでいても仕方がない。とりあえず第1ステージの今月中の完成を目指す。

にしても、かなりのページ数になりそうで、今から怖い。前後篇に分けるとか、やりたくないんだが。
細かい塩制の変遷を文字で追うのを回避するには、表を多用するしかない。
これがちょっとした項目だけなら、あまり嵩張らないのだが、そうもいくまい。行塩地内の塩引数改訂を1行にまとめたとしても、各行塩地ごとに半ページ~1ページ程度は消費しそうである。
今回チェックする行塩地は7箇所で、平均して3/4ページ使うとするなら、約6ページ程度を使うことになる。雑誌での1ページを簡単に原稿用紙単位に換算すると、だいたい4枚に相当するので、原稿用紙24枚程度ということになる。ちなみに論文1本あたりの制限枚数は、原稿用紙換算で40枚である。無理を言えば、60枚程度ぐらいは我慢してもらえるが。
……どう考えても詰んでいるわけだが、今の時点では考えないことにする。畜生めが。

2011年6月1日水曜日

水無月朔日 東北震災の歴史的評価

フェルナン・ブローデルは、『地中海』を書くに際して、それまで伝統的に歴史学が守備範囲とするものとされていた政治的事件などの「短い歴史」、そしてある世界を構成する基礎的な情報を与えてくれる地理や気候などの「長い歴史」と、その中間である社会や経済の変容といった「中ぐらいの歴史」の三点を挙げ、それぞれの観点から地中海を描きあげた。

僕は、主に経済の歴史に関心を寄せているわけだからして、この「中ぐらいの歴史」の観点から歴史を見ることが多い。
逆に言えば、あまり「出来事」に対しては興味を持たない。無いわけじゃないけど。
極端な例だが、2001年のWTC同時爆破テロが起きた時、もちろん僕も大いに興奮したわけだが、しばらくすると、違和感を感じるようになった。
周囲では、「これで歴史が変わる」とか言っていたが、それを胡散臭く感じるようになったのだ。別に、何も変わらないというわけではないが、この一件一つが転機となるというのは、単純すぎるだろうと思ったのである。

今回の地震でも、やはり「歴史が変わる」と主張する人は多いわけだが、同じく胡散臭く感じる。そりゃまぁ、原子力政策とかはかなり影響を受けるかもしれないが、人類の経済成長を維持するためには一定量のエネルギーが必要であり、化石燃料ではそれを長期にわたって賄うことは出来ず、新エネルギーも当分の間はコストパフォーマンスの点で主力とは成り得ないという現状を鑑みるに、原子力を完全に封殺することは難しいはずである。
もちろん、短期的には原子炉の建設は不可能だし、日本に限ればかなりの長期間に渡り、建設できない可能性は低くはない。以前から胡散臭げに見られてきたが、今回の一件で、原子力村への信頼はほとんど完全に失墜したし。
しかし、これで「歴史が変わる」のか?
まぁ、こうなってくると何を以て歴史が変わったのかという定義からの問題となるだろう。実際、被災した人にとっては、その人もしくはその周囲の人の「歴史」は確実に変わったのだろうし。
ただし、こうした個人的な経験は、僕は取り扱わない。こうしたものも歴史が取り扱うべき分野の一つには違いないのだが、それだと、今この瞬間に車にはねられた人と、根本的に何が違うのかということになるので。

もっとも、こうしたことも、車の増加による事故の発生率と、それによる経済的損失を話すというのなら別である。同じく、地震の発生による社会構造や経済構造の変化という話をするなら、考察の対象となり得よう。まさに「中ぐらいの歴史」の範疇といえる。
さて、この観点からすれば、東北や日本や世界の歴史は変わったのか?

東北についてと限定すれば、大きく変わり得るかもしれない。避難の長期化や経済的基盤の長期的な崩壊、震災復興への負担などにより、これまでの生活は一変しており、そしてその変化は元に戻らない可能性が高い。

日本についてはどうか。経済的には極端な打撃ではない。混乱した生産機能も数年以内に代替可能となる。阪神大震災により神戸の経済組織は大きな打撃を受け、そしてそれは完全な復興を遂げてはいないし、今後もそれはないだろうが、その分の機能は他所が補っているということからの推測である。
ただし、エネルギー政策に対してはかなりの期間影響が及ぶ可能性が高い。また、震災復興のための財政的負担は、財政状態が阪神当時よりも悪化していることから、かなりの問題となるだろう。ただし、どちらの問題にせよ、昨日今日に始まった問題ではないということも留意しておくべきだろう。
総合的には、現時点ではよくわからない。東北の震災を被ったことによる影響は、日本の経済や社会を質的には変化させないだろうが、量的には大きな変化をもたらす可能性がある。経済・社会的負担があまりにも大きくなれば、その構造そのものを変えてしまう可能性もあるだろう。

世界についてはどうか。ほとんど変わらないのではないかと思う。原子力エネルギーへの依存度の高まりは、かつてより弱まるかもしれないが、現在の経済発展の主力である中国・ロシアその他の国々は、何よりもエネルギーを必要としており、そのためなら多少のリスクの高まりなど目にもかけないだろうし、実際、原子炉の安全性をPRするのに躍起になっている。
経済の発達のみがすべてではないが、経済の発達なしに国力を大きく伸ばすことは難しい。そして、経済を大きく伸ばすチャンスというのは、歴史においてそう何度も訪れるものではない。特にロシアほどの化石エネルギーを持たず、生産業が国力の大きな要素となっている中国や韓国の場合、エネルギーは必須である。また、高齢化が急速に進みつつある中、今のうちに稼いでおかないと、日本のような安定した状態(停滞ともいうが)を狙うことすら不可能になりかねないわけであり、その意味では日本よりもよほど切実だろう。

とまぁ、こんなわけで、世界史の観点からすると、この一件は大した影響力を及ぼさないのではないか、と現時点では思っている。日本史の観点からしても、多分そうだろう。細かい部分ではそれなりの影響力を及ぼしはするだろうが、全体的な観点からとなると、こう判断される。
まぁ、来年の今頃は全く違ったことを言っているかもしれないが。歴史家は過去からしか判断できないし、本来、未来のことは守備範囲外だからと、逃げを打っておくことにする。