2010年8月31日火曜日

葉月丗一日

編集してたらいきなり消えた。cgiを使った書き込みシステムはクズだから信用するなと思っていてこれである。cgiが悪いのかどうかは知らんが、壮絶に気分が悪い。


不愉快なので今日はこれまでにする。
信用すべきでないシステムを使った僕が悪いと反省すべきだろう。

2010年8月18日水曜日

葉月十八日

我が職場は、お盆の時期には8日にわたってお休みとなる。
まぁ、本家がお寺ということもあり、かつては職員の少なからざる数が、坊主を本業としていたこともあったのだろう。ちなみに僕の上司も本業は住職なので尋ねてみたところ、実際盆暮れは忙しいらしい。
もっとも、今となっては職員の大半が俗人であり、どれほど意味があるのか怪しくなってきている。ついでに職員は8月には夏休みシフトというヤツを取っており、通常の半分程度しか出勤しなくて良いことになっている。もちろん給料は普通通り出る。

僕はといえば、労働時間にかかわらず有休なんてものはないので、休めば休んだだけ貧乏が悪化することになる。正直なところ、職員の職員による職員のための休暇なので……書いていて腹が立ってきたので、この話題はこのあたりで打ち切ることにする。


で、お盆はnoriの家で一日ボードゲームを楽しむという習慣があるのだが、今年もそういうことになったのだが、実の所、直前まで実施されるか怪しいところだった。
彼の本業はコンクリ検査技師なのだが、大阪のコンクリ業界がここ一ヶ月以上ストを続けており、スケジュールもクソもなくなったためである。
話を聞いてみると、ゼネコンに対して待遇改善を要求、それは当たり前なのだが、その要求を遡及適用せよとのことらしかった。

当たり前の話だが、契約が既に締結され、必要な予算も確定している仕事にあって、待遇改善の遡及適用、つまり人にかける予算を増やせと要求することは、プロジェクトそのものを破綻に追い込みかねない暴挙である。だいたい、半島人じゃあるまいし遡及適用(まぁ法ではないが、契約だって同じようなものだ)なんて、法や契約の大前提をぶち壊しにしかねない要求を行う方がおかしい。
noriも当初は交渉戦術だと思っていたらしいが、全然話し合いを行おうとしていないらしく、つまりは本気で要求しているらしい。なんでも中央から派遣された専従の人間が取り仕切っているらしい。
たしか、韓国の大邱だったかで起きた起亜自動車のストがそんな感じだったはずだ。工場の労働者の意見なんぞ無視して、無茶苦茶な要求を突きつけ、話をややこしくするだけしてから、ストが終わると去っていく。困るのは現場の労使のみ。沖縄なんかの反戦・反基地運動でも似たような話があるらしいので、要するにこの手の運動のお約束なのだろう。

noriの話によると、一番困っているのはストの参加者ではなく、その周辺の人間らしい。一応、スト参加者には組合から金が下りている。が、建設というのはコンクリ労働者だけで行うものではない。彼らのストにより現場は機能を停止し、他の労働者も日当をもらえなくなっているのだが、当然ながらコンクリの組合が彼らの面倒まで見ることはない。実際、そろそろそうした業者も破綻が始まっているそうな。

ちなみにnori本人はどうかというと、「大阪以外の現場を回っている」とのこと。そりゃまぁそうだろう。が、現場までの移動時間が大幅に増えたので、忙しくなったそうな。
ついでにお盆休みの直前になってから、一時的に組合もストを解除したため、ものすごい量の仕事が舞い込むことになり、お盆休みが消滅したのだそうな。
有休とかその手の休みをもらったことのない僕は知らなかったのだが、いわゆるお盆休みとは、まとめて有休を取っても「構わない」時期なのだそうな。
つまり、必要が有れば働かなければならない。この国の常識によると、有休とは何時取ってもいい休みではないためである。

まぁ、建設業界にはご苦労様ということで。高度経済成長とバブルの時代が終わり、建設業界は少しずつ縮小していく傾向にある。今回のスト問題は、その反発として起きたひとつの現れだろう。


で、何とか行われたボードゲームの日を除くと、僕は京都の自室に籠もりっぱなしで、ずっとゲームと史料の処理を進めていた。
外に出歩くこともないので、昼夜逆転なんてものではない。いや、綺麗に逆転してただけか。夜寝て昼起きるのも、昼寝て夜起きるのも、睡眠時間と活動時間の量が大きく変わるわけでもないのに、どうして昼夜逆転するのか、少し不思議ではある。

爛れきった生活を一週間送ったことにより、体調はあまり良くない。ダルイし。典型的なクーラー病である。
その甲斐あって、実録の史料整理はほぼ終わった。次に地方志や全集を当たることになるが、その前に実録の史料だけで、当座の分析を行うのも良いかもしれない。

2010年8月11日水曜日

葉月十一日

菅政権が、韓国に対して、村山談話に則った形での謝罪を行い、宮内庁が保管する「朝鮮王室儀軌」を「引き渡す」(1964年に締結された「文化財・文化協力協定」において、日本は韓国に対して朝鮮半島から略奪した文化財を返還し、それによってこの問題は解決したため、違法に持ち去った文物を目的語とする「返還」という言葉は使えない)ことになった。

僕は、談話についてはともかく、儀軌の引き渡しは何の好影響ももたらさないだろうなと思っていたが、案の定、大した意味はなかったようだ。
朝鮮日報の日韓併合100年:「総督府が持ち出したものは全て返還対象」という記事は、権哲賢駐日大使の言葉として、今回の引き渡しが全てではないと述べている。

かねてより、韓国・北朝鮮や中国などは、日本に対して「道徳的優越」の立場を堅持する傾向があると思っていた。特に韓国についてはそうだ。
ここでいう「道徳的優越」というのは、何らかの形で被害者となった者が、加害者に対して、その被害を受けたという事実を、交渉における立場の強化材料とする傾向を指す。
もちろん、加害者がその事実に対して大きな関心を持たなければ意味がなく、強い罪悪感を抱いている場合にのみ通用する。

国家でも個人でも、罪に対しては罰を受け、罰を受けることで罪を精算することになる。法的にはその通りだが、罪悪感というような感情については、それをどのように精算するのか、もしくはそもそも精算が許されるのかどうかは、ケースバイケース、あるいはむしろ個人差による。

日本の場合、第二次大戦やそれ以前の植民地支配などについては、戦後全面的に悪とされた。つまり罪に問われたわけで、その罪は幾つかの賠償や交渉により、罰を受けたことになって、現在は法的にはほぼ精算されている(残ってるのは国連の旧敵国条項ぐらいのものじゃないかな)。
となると、残るは感情ということになる。

さて、日本はこの問題において加害者であり、また数世代を経ているので、感情面ではほとんど大きな力を持たなくなった。つまり忘れ去ってしまった。
一方、韓国や中国などは、この感情をナショナリズムを高め、国家形成の強力な道具としてきたので、今に至るも強い影響力を残している。
こうした感情の力を消し去るためには、それを忘れ去るか、あるいは無視できるほどの別の感情を抱くようになるしかない。要するに報仇の念そのものなのだから、仕返ししてやったとか、相手はもはや無視しても良いような小物であるとかの優越感に浸れるようにならないと、消え去ることはない。

仕返しするということはつまり、韓国なり中国なりが日本を植民地支配するということで、それは現実的ではない。サッカーなんかのスポーツ競技でやたら対抗心を燃やして、日本に勝てば大喜びするというのは、この感覚をささやかながらも満足させているためだろう。
優越感に浸るためには、相手より強大にならなくてはならない。正確には強大になったという感覚を持てるようにならなくてはならない。この点で、1990年代の中国と現在の中国では非常に面白い対照を見せている。

1990年代の中国は、日本に対して非常に敵対的だった。ちょうど経済成長のまっただ中で、日本が分かりやすい形でのライヴァルだったためだろう。経済成長に伴う社会的分裂を、ナショナリズムの強化によって解決しようとした江沢民政権の政治方針もあったのだろうが。ちなみに改革開放以前の中国は、日本と同じ土俵に登っていないので、むしろこの点では鈍感だったと言えるだろう。
2000年代後半以降、中国は日本よりも大きな経済力を有するようになりつつあり、この点で優越感を満たしつつあるようだ。感情の話なので、実態そのものは絶対的に重要ではないのだが、今年の時点で総GDPは日本を抜いているので、日本に対する優越をイメージしやすいのだろう。
ついでにいえば、中国は歴史的に日本よりも強大な国であり続けた。この点においても、日本に対する優越を回復するということは、その自尊心を強く満たすだろう。

韓国の場合、そういう意味では日本に対する優越はなかなか満たしにくい。総GDPの話をするなら、人口が日本の10倍の中国と、日本の半分の韓国とでは事情が全く異なるのだから当然だろう。もっとも、一人あたりGDPの話をしても、韓国が日本を追い抜くのはかなり難しい。少なくとも近未来の話としてはあり得ない。
歴史的にも、朝鮮は日本に対して中国とは異なる形での優越感を維持しようとしてきた。近世においては経済的・軍事的には不可能だったので、文化的な形ではあるが。

さて、冒頭で述べた「道徳的優越」というものは、こうした優越感を簡単に獲得できる。何せ韓国や中国が日本から植民地支配を受けたことは動かせない事実であり、それが「悪」であることは、認識の差はあれ三国共に共通しているのだから。
中国と異なり韓国は経済や軍事以外の方法で日本に対する優越感を回復しなければならない。文化面でいえば「韓流」なんかもその一つだろうが、実際問題として、文化的な影響力では日韓どちらが大きいのかなんて、考えるまでもない。
となると、「道徳的優越」ぐらいしか手軽な方法がない。
そこまでして日本に対する優越感を確保しなければならないのかというと、少なくとも韓国については然りといえるだろう。
つまるところ近代国家としてのナショナルアイデンティティの問題である。近代国家というものは、様々な方法でこれを獲得してきたわけである。

あまり自信を持って言える話でもないが、日本などの現在の先進国は、おおむね戦前から戦後の時期にかけてそれを進め、目下ゆるやかに国家の束縛を解き放し、ポストモダンの時代を迎えつつあると思う。
一応断っておくと、「現代」というのは「近代」に含まれるので。ポストモダンはその次の時代のこと。ナショナリズムや国家の優越なんてのは近代の特徴であろう。ポストモダンの特徴なんてものは分からないが、ナショナリズムや国家の力が弱くなっていくことは、多分間違いない。

何をもってモダンとポストモダンの違いとなるのかは、ポストモダンの定義すら不明瞭なので示しようがないが、少なくとも国家統合に務めなくてはならない国と、あまり意を注がなくても国家の分裂を心配しなくて良い国とでは、異なるものだと思う。

つまるところ日本は国家統合の必要性を強く感じていないし、経済・軍事・文化的に強い劣等意識を持つ必要もない。経済的衰退云々はあるが、実態としても強く劣ってはいないといえるだろう。
中国は国家統合の必要性を強く感じてはいるが、経済・軍事面で優越感を抱きつつある。実態としてはまだかなりの差があると思うが、「勢いがある」ことは確かだろうし、彼らもそう認識しているので、日本に対して強いナショナリズムを以て接する必要性を、今のところはあまり感じていない。
韓国は国家統合の必要性を感じてはいるが、経済・軍事・文化的に大きく優越しているという認識を持てないでいる。よって、日本に対して何らかの優越感を持つ必要があり、その材料として「道徳的優越」が持ち出される。

ゆえに、首相がどれだけ頭を下げようと、日本にある「略奪文化財」をどれだけ返却しようと、韓国人の日本に対しする意識は決して変わらない。変えてしまうと国が保たないからだ。

そう考えると、日本が韓国に対して謝罪したり文化財を返却することは、何の意味も持たない。謝罪や返却をしないと感情が一層悪化するのではないか、とも考えられるだろうが、よほど不味いことをしない限り、それは考えにくい。具体的にいえば、村山談話は踏襲し、文化財については言及を避ける。
本当は村山談話そのものにも問題があるのだが、今更なかったことには出来ないので、せめてあれ以上踏み込むことは止めるよう心がける。
もちろん韓国や中国からは批判・非難の声が挙がるが、実際的には大きな問題とはならないはずだ。問題に出来るような材料もないし。

こういう対応は、実に小悪党的ではあるが、政治、特に国際政治というものはそういうものだろう。村山にせよ鳩山にせよ、あるいは今回の一件を主導した仙石にせよ、善人ではあるのだろうが、善意が良い結果のみをもたらすような理想郷に住んでいるわけではないということを理解できない愚者であると言えるだろう。

2010年8月8日日曜日

葉月八日

久しぶりの連休(土曜と日曜が休み)なのに、一日部屋に閉じこもってゲームしていた。
昼頃まで寝てて、そと出るのが暑くて嫌なので、クーラー効かしてゲーム三昧。ダメな人ですね。

少しは建設的なことでもというわけで、史料の読み込みというか日本語訳を行っている。ちなみに僕は漢文を訓読(白文に句点と読点を付ける)するだけで書き下しはせず、そのまま日本語訳をする。どうせ読むときには漢文読みになるので、書き下すだけ無駄だと思っているためである。

論文に史料を引用する場合、訓読文か書き下し文か日本語訳文か、そのいずれか、もしくは二つを選んで掲載するのが普通である。僕の場合は、本文は日本語訳、註に訓読文を載せる。
となると、使う分だけ日本語訳した文章を用意しておかなければならない。また、議論を進めるにあたり、史料の大意を拾うにしても、やはり一度は読み込んでおいた方が、健全ではある。

というわけで、漢文を翻訳する。原文となる漢文は、すでに『実録類纂』からピックアップし、それをGoogle Documentのスプレッドシートに放り込んである。
ある史料について、「年次」「巻次」「本文」「訳文」を揃えるわけである。頭三つは終わっているので、翻訳だけが残る作業となる。
直接Google Documentに入力すれば良いのだが、これが非常に使いにくい。重いし、ソートなどの機能面でもExcelなどには大きく劣る。そりゃまぁタダなんだから文句は言えんが。
仕方ないので、一度シートをダウンロードしてOpen Officeで開き、ソートなどの作業を行い、史料だけテキストエディタにコピペして、そこで訳した文章を貼り付けなおすという段取りで進めている。

そこまでしてGoogle Document(正確にはそのスプレッドシート。言いにくいなぁ)を使う理由は、メディアを持ち歩かなくても、ネット環境さえあればどこでも作業が出来るというメリットがあるため。この意味ではクラウドコンピューティングの利便性は素晴らしいものがある。
まぁ、所詮はタダのソフトだし、また毛唐仕様(英語圏における運用が最初の想定となっているため、2バイト文字を扱う場合に、使い勝手が悪くなることを指す僕の造語。IME等が代表例)なので、文書なども非常に作りにくい。
実際には、僕が扱う端末は限られているので、基本的には使い慣れたソフトで作業を行い、データをGoogle Documentに放り投げるという感じで作業が行われている。Google Document附属のソフトを使うのは、どちらかというと緊急用である。そうと割り切れば充分な性能を持ってるし。

そんな感じで作業を進めてみても、まだ二割ほどしか進んでいない。ゲームやる暇が有れば、そっちを進めておけば──というのは、まぁ小学生のころからの基本的な後悔のパターンである。仕方ないね。

2010年8月6日金曜日

葉月六日

しばらく前からMount & Bladeをやっている。無印ではなく、War band版の方。
もとよりアクションゲームにそれほど関心がなく(ついでに得意でもなく)、FPSというものにも手を出していなかったのだが、中世ヨーロッパ風の割と真面目なゲームということで、買ってみた。
例によってパラドゲーなのだが、購入のつい二三日前まで半額セールをやっていたので、かなりおしい気分になった。それでも2k円――というか円高の恩恵でさらに安くなっている。これで何年も遊べるのだから、安いものだ。というか、よく商売が成立するなぁとは思う。

パラドのゲームは、HOIシリーズやEUシリーズなんかも、ほどほどのリアリティというあたりを目指していると思う。
日本では見かけないタイプのメーカーだ。というか、日本のSLGメーカーはGSを例外として初心者向けのゲームしかないが。そしてGSは上級者向けでかなりお子様お断り的なメーカーなので、パラドぐらいのそこそこ気楽にできるヘヴィゲームという(つまり中級者向け)ものは、国産では存在しない。少なくとも僕の知るメーカーからは、出ていない。

M&Bも、ありがちな魔法の武器とかモンスターとかそういうものは、デフォルトでは存在しない。まぁ、例によってそういうのを使えるMODもあるのだろうが。
少し見た限りでは、火縄銃を使ったり、逆に中世ヨーロッパそのものを舞台にしたMODなんてのもあるらしい。

数の暴力なんてのもリアルで、僕がヘタクソというのもあるが、多少強くなったぐらいでは、袋叩きにされると瞬殺される。2人で厳しい。3人ぐらいだともう駄目。
そういえば、高校の時の英語の教師が沖縄空手の使い手だったそうだが、本人の弁によると、やはり3人相手だと多少の腕の差なんぞ関係なく、素人相手でも負けてしまうらしい。
うまい人が強キャラを使えば無双もできるらしいが、まぁ今の僕ぐらいがリアリティのあるところといえばそうなのかも。

パラドゲーの例によって具体的な最終目標というものはないので、各人の気のままにすればいい。王を目指すもよし、騎士として生きるもよし、商人となるもよし。
たぶん、それなりのストーリーを加えたMODというのも作れるのだろう。日本産のゲームなら、まず間違いなくそこまで整備されているはずだが、そのあたりは淡白である。
そしてこのあたりが淡白なため、いろいろと遊べる。洋ゲーのいいところであろう。

そろそろお盆休みになるが、どうせしばらくは炎上するであろうVIC2よりも、こちらで遊んでいた方が賢明かもしれない。