ラベル 研究 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 研究 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年1月28日土曜日

睦月廿八日 一段落

嵐のような二ヶ月が終わった。あと三日ほど残っているが。
月月火水木金金な生活は身体にも精神にも悪い。大した金にもならんというあたりが更にすばらしい。
働いた分だけ収入はあるが、2月3月は仕事が減るので、トータルしたらむしろマイナス。すばらしい。


それはそれとして、ようやく初校が戻ってきた。心が磨耗しているのでしばらく放っておいたが、さすがにそろそろ手を入れなければなるまい。まぁ、一週間あれば問題あるまい。

今回の論文は苦労ばかりして、なんか達成感のないものになった。
そりゃまぁ、広東について得られた知見を中国全土に広げて、蓋然性が得られるかという、つまりは追試なので、新しい知見が得られたわけではない。センスオブワンダーのない研究というのは、必要ではあるが心振るわない。
次の研究も同じようなことになるので、今から気分が重い。というか、作業を進めなければならないのだが、なかなか手につかない。忙しいという事情を差し引いても戦意が高まらないのが困りものだ。
逆に言えば、コツコツやれば、頭使わなくても完成するわけであり、こういう気分が盛り上がらない時だからこそ、回転数を上げなくてもできる作業を進めておくべきなのではあろう。


姪っ子に『大きな森の小さな家』で始まる「インガルス一家の物語」シリーズを買った……のは、夏の古本市の時のことである。さっさと渡せばいいものを、僕が読んでから渡すことにした。まぁ、正直まだ読むには早い──上の子が小学校3年なので、そろそろ行けるんじゃないかと思ったのだが、妹に「お前を基準にするな」的なことを言われた──わけだからして、多少遅くなっても問題はない。
このシリーズ、19世紀開拓時代のアメリカを描いたものなのだが、第1巻『大きな森の小さな家』と第5巻『農場の少年』は、僕がやはり小学生の頃に学校に据え付けられており、繰り返し読みふけったものである。
読んでいて色々と楽しいのだが、何より素晴らしいのは食事についての描写である。実に美味そうに描くのだ。小学生の僕も、小学生の姪っ子を持つようになった僕も、同じ感想を抱いているのだから本物であろう。
開拓地のことである。凝った食材など薬にしたいほどもない。登場人物たちにとって、普通に手に入る食材を使って料理をして、それを食べるだけのことだが、実に美味そうである。残念なことに21世紀の日本で再現しようとするとえらく高く付きそうなものも多いが。
2~4巻は初見になるが、やはり面白い。今読むと大人の目で見てのことになるのだが、子供の時に読んでおけば、また違った感想を抱いただろう。主人公ローラの母がインディアンを嫌がるシーンは、その代表的な部分だろう。わざわざ巻末に解説を入れてあった。無批判に子供が読めば、偏見をいだきかねないというところだろう。実際、小さな女の子であるローラにとって、恐ろしいと思わせるシーンも多いし。
第5巻の『農場の少年』は、主人公がローラから少年のアルマンゾに替わっている。彼は後にローラと結婚するらしいので、まぁおかしくはない。が、小学生の僕にとっては思い至らないことで、この二冊は全く関係のない本だとばかり思っていた。今になって読みなおしてみて、初めて同じ一つのシリーズに含まれることを知ったのだが、驚きはしても違和感は感じなかった。具体的には食べ物の描写の素晴らしさに、共通するものを感じていたためだ。

姪っ子には、秋の古本市で「ドリトル先生」シリーズを買ってやったのだが、まぁこれも読むのはもう少し先になるだろう。こちらは手元に置かずに、車でいく用事があったときにそのまま渡した。
あと僕が小学生の頃に読みふけったというと、アーサー・ランサムの「ツバメ号とアマゾン号」シリーズと、ウェルズの『神秘の島』あたりか。後者はちょっと女の子向けではない冒険物(ちょっと違うのだが)だし、前者を発見したら、買うのもいいだろう。もっとも妹からは、「男の子向けの本を持って来られても……」と言われている。確かに冒険シーンはそこそこあるのだが、基本少年少女のお話なので、素っ頓狂な事にはならない。女の子が読んでも面白い……のだろうか? 面白いと思うんだがなぁ。

2011年12月30日金曜日

師走三十日 師でなくとも走る

ながらくサボっていた。

11月末が論文の締め切り、12月は土日も休み抜きという修羅場だったため、書く気になれなかった。


今回の論文は実に手こずらせられた。
両広塩運司の管轄で行われた塩政について行った分析を、中国全土に広げて同じ手法を適用する。
面倒ではあろうが、基本的に頭をつかうことはあるまいと考えていたのだが、ここまで面倒になるとは思わなかった。
広大な中国において、社会や経済の状況が全く異なることから、各塩運司において行われた塩制は大きく異なる。わざわざ両広塩運司の塩政を明代から民国初期まで検討したのは、とりあえず流れをつかむためでもあったのだが、普通使われるような各時代の特徴的な地域を取り上げ、というスタイルでは、地域における差異が見えなくなるのではないかと考えたためだ。
とはいえ、塩引を用いた専売制という基本形は同じなので、塩引数と塩引1道あたりで販売可能な塩の量の積から各時期・各地域の官塩流通量を求め、人口数から求められる塩需要量とを比較して、私塩の状況を把握することはできるはずである。

まぁ、実際できたわけだが、かなり面倒だったし、また精度にもいささか難が出た。
まず、塩引数の変遷について、正確に史料に記載されているとは限らななかった。何年にどういう変更が行われたのか、概ねのところはわかるのだが、表計算ソフトに変化量を入力していくと、どうしても一致しなかったりする。つまり、記載漏れがあるわけである。また、恒久的な塩引数の変化なのか、一時的な措置なのか、曖昧な部分もあったりして、勘定に入れるべきかどうか悩むところなんかもあった。
とはいえ、おおよその動きはつかめた。問題は塩斤数の方で、こいつについては、塩引数についての項目に載せられている塩運司とそうでないところとがある。載っているヤツについてはいいのだが、載っていないのについてはどうするか。いや、載っていないわけではなく、別のところに断片的に載せられているというべきか。
そんなわけで、人文研を往復してコピーしまくり。金がかかって仕方ないし、いつでも行けるというほど優雅な身分でもないので、伸びに伸びることになった。

こうした情報を苦労してまとめ、表に起こし、分析してグラフにして、と作業を行った結果、なんとか形になった。数字ばかり扱っていたので、文字についてはあまり記憶が残っていない。人文科学の論文とは思えないものになったような気がする。

で、分量だけは多くなり、時間は足りなくなったため、塩税額についての検討は次の論文で扱うことにした。
いま、その準備を始めているところだが、難易度は更に高くなっている。うまくいくのかどうかも分からない。
ま、手持ちの材料を整理して、その上で料理法を考えればいいのだから、今焦る必要はない。1月は忙しいが、それ以降は暇ができるので、春までにはある程度見通せるようにしておきたい。

2011年7月16日土曜日

文月十六日 档案問題

なかなか研究が進まず、少し焦りだしてきている。

なぜ進まないのかは、ひとつには単純で、コツコツとした作業を行っていないためである。
全く何もしていないわけではないのだが、もう少し努力してもいいところである。
また、ある程度作業を進めてきて気がついたが、史料不足の部分があり、また人文研に行かなければならない。このくそ熱い中をあそこまでチャリ漕いで行かなければならないのかと思うとげんなりするが、少なくともお盆休みまでには行っておく必要がある。

もうひとつは、まだ先の話だが、一部の史料については、第一档案館にしかないようで、そこまで行くか、なんとかして史料を手に入れなければならないかもしれない。

研究の骨子は、清代中期以降、官塩の供給量を需要に対応させることを放棄したという事実、そして清代後期に財政的必要性が増した時には、塩の供給量を増やすのではなく、塩税税率を高めることでそれに対応しようとしたという事実を指摘し、その原因として、前者については当時の清朝にはその動機がなかったこと、後者については財政構造上の必然であったと主張するというものである。

基本的な枠組みとしてはそれで充分であると考えているのだが、動機がなかったという否定証明、また財政構造を説くにせよ、いささか説得力に欠ける憾みがあるという気もしている。
そこで、塩政の意思決定の過程を改めて検討しておく必要性を感じているのだが、そのためには一次史料である塩務関係の档案類を見なければならないという気がしつつあるのである。
日本で見られたらいいのだが、あいにくと完全な形での発表は行われておらず、また塩政関係に限るとはいえ、かなりの量に上ることから、直接現地に赴くにせよ、あるいは史料のコピーの郵送が可能であるにせよ、相応のカネがかかりそうな感じである。
目指す史料が「当たり」であるとの目処が、ある程度であれ立つのであれば、そして充分な時間がとれるのであれば、何らかの助成金を求めるなどの方策を取ろうとも思えるのだろうが、そこまでの確証も得られない。
この問題については、さしあたり宮中档を使うしかないだろう。どの程度当たりがあるかどうかは不明だし、一番のかなめである乾隆年間のそれが、大学にはないという無様な状態なので、それこそ京大の文学部あたりに足しげく通わなくてはならないかもしれない。

いずれにせよ、今回の論文の締め切りまでにこの問題を解決することは、時間的に不可能である。
本来ならば、一度ここで研究を中止し、こちらを片づけてから改めて現在のテーマに戻るべきであろう。
が、それも時間的に不可能なので、とりあえず不充分なかたちであるにせよ、今回の論文を片づけ、その上でこの問題に取り掛かるべきということになるだろう。

なかなかに気分が重い。

2011年7月9日土曜日

文月九日 『グローバル化と銀』

久しぶりに読書感想文。

デニス・フリン『グローバル化と銀』山川出版社, 2010.5

世界史理論というと難しげな感じであり、実際難しいことも多いのだが、その最先端の一派というか主張についての本である。
難しげな話とは書いたが、この本は3つの講演を文字に起こしたものが基本であり、その意味では非常に読みやすい。難しげな部分についても、編者による解説が最初についているので、まぁ大体の予備知識は仕入れられるはず。

「グローバル化は1571年に始まった―新大陸銀とマニラ・ガレオン」
ここでは、グローバル化という、皆が好んで使う割に正体不明な概念について、論者なりの定義を行い、解説している。簡単にいえば、グローバル化とは世界中の主要な経済圏が強く連結した状態を指し、それが始まったのは、1571年にスペインがマニラに拠点を設け、銀という商品(通貨に非ず)をアメリカや日本から中国へもたらすようになった時である、ということになる。
日本の学界では、それほど違和感のない考え方だと思うのだが、環大西洋経済圏などヨーロッパ優位の考え方が主流だったヨーロッパでは、議論のあるところなのだろう。
これまで対中貿易の通貨として扱われてきた銀を、単純な通貨ではなく商品として考えるべきだと強調したことは、言われてみればもっともな考え方である。金銀比価が高く、また銀の需要も大きかった中国は、金を輸出して銀を輸入する動機があったわけであり、金銀比価が世界市場と同程度にまで落ち着いた17世紀半ばになると、この動きはひと段落するわけである(18世紀に始まる次の銀輸入シーズンについては、また別の話となる)。

「徳川幕府とスペイン・ハプスブルク帝国―グローバルな舞台での二つの銀帝国」
ここでは、中国に対する銀の輸出国だった日本と、アメリカ銀を握っていたスペインについて述べている。
双方とも対中貿易で莫大な利益を挙げたわけだが、スペインがヨーロッパにおいて盛んに行うようになった軍事活動の財源としたのに対し、日本は統一後、対外拡張政策を放棄し、軍事費ではなく国内の経済・社会基盤の整備に投資するようになった。
中国の銀需要が低下し銀が売れなくなると、スペインは破産したのに対し、日本はその後の経済発展の準備を進めることになる。
面白いのは、従来スペインはアメリカ銀の流入により資本主義的な意味での近代化を進めていったとされてきたのに対し、ここでは、スペインはその銀を経済的発展どころか、イギリスやオランダが進めようとしていた近代化を阻害するために用いたとしていることであろう。

「貨幣と発展なき成長―明朝中国の場合」
ここでは、莫大な量の銀を飲み込んでいった中国について述べられている。
紙幣制度の維持に失敗した明朝は、民間側の需要が先導する形で銀遣いが一般化しつつあったのだが、銀が事実上の通貨となることで、その需要が一気に拡大した。
政府による銀の消費は、主に政府機能が置かれ、軍事行動が展開されていた北方においてであったため、銀が流入してくる東南部においては、常に銀の需要が高かった。
このような需要の拡大に対し、銀の大量供給が可能だったことから、さらに需要が拡大するといった形で中国の銀遣いは拡大することになり、明代後期以降の経済成長がもたらされたということになる。
さて、この経済成長は、経済発展ではないというのが論者の主張である。つまり、経済規模は拡大したのだが、銀というそれ自体価値のある商品に対し、価値ある対価を支払い続けたことにより、相応の富が流出したのだという。ヨーロッパにおける重金主義と重商主義の対立などを引き合いに出しながら、中国の経済規模の拡大が、見た目ほどには質的な発展をもたらさなかったと説くのである。

この量的成長と質的発展の違いについては、近年よく引き合いに出されるアンガス・マディソンの研究などで強調されているが、近世において世界最大の経済大国だった中国が、近代になって大きく凋落した原因を表すキーワードとして注目されている。
この論点の説得性は、数量面からの詳細なリサーチが可能かどうかにかかっているのだが、清代以降はともかく明代については難しいことも多い。統計史料そのものはいろいろと残っているのだが、信頼性に欠けるのだ。
それでも、慎重な吟味を行うのであれば、様々な史料を利用することは可能だろうし、今後も研究が進められていくのではなかろうか。
その上で、本書で提示されたモデルが妥当なのかどうかといった議論が、今後も一層深められていくことであろう。

残念なのは、日本においてこの手の議論はあまり活発ではないように思われる点だ。重箱の隅をつつくような研究手法について、その限界性を説く人は昔から多数いるのだが、相変わらず大きくは変わっていないような気もする。阪大などを中心に、少しずつ変わっていっているというところだろうか。
この分野で発表される研究も欧文のものが多く、日本語で読めるものはあまりない。そういえば、ポメランツの"The Great Divergence"も、相変わらず未翻訳のままみたいだ。英語版を読むしかないのかな。買ってはいるんだけど。

2011年6月11日土曜日

塩引数変遷についての研究見通し

相も変わらず「遅々として進む」感じで作業を続けている。各行塩地の塩引数の変遷を辿るという「1-1」ステージは、もうじき終わりそうである。ラストが、両淮という大物なわけだが。

塩斤数をチェックする「1-2」については、半分程度ははっきりしているのだが、残り半分は今一つよくわからない。税収と直結する塩引数については、比較的分かりやすく(それでもかなり複雑な表現を使っていたりするが)、把握もしやすいのだが、塩斤数については、そこまで分かりやすくまとめられていないこともあるのが面倒臭い。
最悪、もう一度人文研へ出張らないといけないかもしれない。

人口数を把握する「1-3」ステージは、作業が住んでいる。というか、先行研究のをそのまま引用するので、問題とならない。

問題は、税収云々が絡んでくる第2ステージなのだが、今から悩んでいても仕方がない。とりあえず第1ステージの今月中の完成を目指す。

にしても、かなりのページ数になりそうで、今から怖い。前後篇に分けるとか、やりたくないんだが。
細かい塩制の変遷を文字で追うのを回避するには、表を多用するしかない。
これがちょっとした項目だけなら、あまり嵩張らないのだが、そうもいくまい。行塩地内の塩引数改訂を1行にまとめたとしても、各行塩地ごとに半ページ~1ページ程度は消費しそうである。
今回チェックする行塩地は7箇所で、平均して3/4ページ使うとするなら、約6ページ程度を使うことになる。雑誌での1ページを簡単に原稿用紙単位に換算すると、だいたい4枚に相当するので、原稿用紙24枚程度ということになる。ちなみに論文1本あたりの制限枚数は、原稿用紙換算で40枚である。無理を言えば、60枚程度ぐらいは我慢してもらえるが。
……どう考えても詰んでいるわけだが、今の時点では考えないことにする。畜生めが。

2011年5月28日土曜日

皐月二十八日 研究進まず

研究が進まない……わけではないが、予定していたペースには遅れている。
原因は明らかで、仕事をしていないからだ。

どうも精神的活力が落ちているらしく、やる気が出ない……わけでもないが、出にくくて長続きしない。
仕事が終わって帰ってくると、酒飲んで寝る→3時間ぐらいして目が覚める→なんかゲームとかしているうちに夜が更ける→寝る→起床・仕事というサイクルになる日が結構ある。
このサイクル自体は、昨年ぐらいから起きるようになったのだが、これはこれで、一度寝てリフレッシュしてからもう一仕事、という感じもあって、それほど悪くなかったのだからして、まずいのは総合的な士気が低下しているという部分だろう。「なんかゲームとかしているうちに夜が更ける」の部分を変えればいいわけである。簡単に変わるなら苦労しないが、まぁ、この部分が努力の対象ということで。

で、進まないながらも、多少は進捗している。
あらためて、論文のゴールと章立てを確認してみよう。

論文の目的は、清代における財政構造の特徴を明らかにすることで、目標としては、官塩の供給と塩税の関係について検討を行うことである。
具体的には、清代中期ごろに官塩の供給量が人口の増減に対応しなくなり、また清代後期になって塩税の需要が高まると、塩の供給量の増加ではなく税率を高めることでそれに対応させようとするのだが、それはなぜかを明らかにする。
実際問題として、それは上手くいったのか? 上手くいかなかったとして、なぜ官塩供給量を増やすという、僕にはより合理的に思える手段を取らなかったのか? 清朝の財政構造は非常に硬直的に見えるのだが、塩政というカテゴリーにおいてもそれは見られるのか、見られるとして、それはなぜか? さらに、その硬直的に思える財政構造が、実際に存在していたとして、それは清滅亡後にどう変わったのか。あるいは変わらなかったのか。変わったとして、それはなぜか?
仮定と設問がやたら多そうだが、そのあたりは各節においてつぶしていくわけである。広東だけなら楽だったのだが、今回は中国全土というわけであり、中国の塩政は地域差が大きいことから、主要なものだけでも8つある行塩地それぞれについてチェックする必要があるので、かなりの作業量が予想される。というか、ものすごい作業量である。折れる心を継ぎなおしつつ、作業を進めるしかあるまい。

1.1. 各行塩地の塩引数の増減をチェック。
1.2. 各行塩地の塩引1道あたりの塩斤数を確認し、各行塩地の官塩供給量を把握。
1.3. 各行塩地の人口の増減を調査。

これにより、官塩供給量の調整が清代中期に停止したという知見が得られるはず。以下はその原因の検討。

2.1. 清代前期から後期にかけての塩税の推移を確認。税率が高まるはず。
2.2. 陶ジュや張謇ら、清代後期の改革を確認。

清代後期に入り塩税需要が増すと、塩税税率を高めて対応したこと、そしてそれを担保するべく官塩の競争力を強めようとしたが、非常に困難であり、特に張謇の改革は成果を出せなかったことを述べる。両者の違いは、改革時期もあるが、加えて各人の持つ強制力と改革対象の力の大きさである。

3.1. 民国初期の官塩供給量と人口、塩税税収の推移を調査。
3.2. 張謇やデーンが進めようとした改革を述べる。両者の違いは、背景に持つ強制力の違いであり、改革の方向性は大きくは異ならないはずである。

以上から、清代、そして清代の塩政を引き継いだ民国最初期の塩政は、非常に硬直的なものであり、それを崩すには外国列強による強制力が必要だったのではないか、ということが、今のところの結論となる。

壮大な話であるが、現在は1.1.の、それもいくつかの行塩地についての検討を進めているところである。
詳細な検討を終えているのは両広のみなのだが、やはり各行塩地の検証が行われていくと、各地独特の事情が見えてくる。
たとえば両浙では、太平天国の乱のため、清代後期になると塩引数などが一度リセットされる。清代を通して有力な開拓地だった四川は、比較的遅くまで小刻みな塩引数の増減が行われる。特に他の地域が海水から塩を生産するのに対し、この地では塩井からの生産になるので、新しい井戸が開かれたり、逆に結構井戸が枯れたりする。
他のいくつかの行塩地では、正塩の供給は乾隆年間ごろには固定化されるが、代わりに余塩の供給が増える。これは地域ごとの発給数などが厳密に定められた正塩とは異なり、比較的柔軟性が高くて、塩務官僚にとっては考課の対象となりにくいものである。
かつて塩務官僚が官塩供給量の増加を望まなかった理由として、財政的にその必要性が乏しかったことと、考課のハードルが高くなることを嫌ったことを挙げたのだが、その意味ではこういう余塩は扱いやすいはずである。

ま、こんな感じで行塩地ごとにじっくりとまとめていく必要があるわけである。次いで塩斤数のチェックなんかも必要だし、塩税とかは今の時点では考えたくもない。
多分、士気が高まらない理由の一つとして、どれだけの作業量があるのか掴めないということがあるのだろう。少しずつでも仕事が進めば、だんだん気分が乗ってくる……ことを望み、作業を進めることにする。


11月がデッドエンドらしいので、夏ごろまでには目処を立てておかなければならないのだが、なかなか大変そうな気がする。

2011年4月24日日曜日

卯月廿四日 とりあえずの筋道

研究についてだが、小説とかでよくある「良い知らせと悪い知らせがひとつずつある」という状況。

良い知らせは、とりあえず終わりまでの筋道がついた。あるいは、ついたような気がするということ。
悪い知らせは、結論がありきたりすぎて面白くないということ。

とりあえず整理してみよう。


この研究の目的は、塩政の観点から、財政構造上の柔軟性(硬直性)を明らかにすることにある。

第1節として、各行塩地における塩引数の増減と塩の需給量を明らかにする。
これは、広東について行った研究手法を、他の地域にも適用し、清代中国全域について、同じ見通しが立てられるかどうかというもの。まだ細かい部分までは詰めていないが、同じことが言えるであろうことは、先ず間違いない。
ここから導き出される結論は、清代中期には、清朝は塩の供給の調整を放棄し、人口増加分は私塩に任せていたということである。その原因は、政治的・経済的安定期にあったことから、塩税の需要が弱かったことにあると考えられる。

第2節は、清代後期になって財政需要が高まる中、いかにして塩税の増収を図ったかということを明らかにする。
増収を図るには、官塩の販売量の増加と、塩税の税率を高めることの二通りがある。実際に採られたのは後者の対応で、このために放っておいても競争力の低い官塩が、さらに値上がりして競争力を落とし、私塩が蔓延することになるわけである。
こうした状況にあって、採れる対応は二つある。ひとつは私塩の取り締まり。もうひとつは官塩の流通コストの削減を通した官塩の競争力強化。
後者については、道光年間に陶ジュが行った淮北塩制改革が有名である。これは、最大の行塩地を持つ両淮塩運司行塩地の内、比較的小規模の淮北行塩地について、流通コストを下げたものである。
かなりの抵抗があったのだが、まず成功したといっていい成果を挙げた。これは、陶ジュが地方官としては最大の権力を持つ両江総督であり、かつ塩政における実務権限も全て総督に集中させ、さらに道光帝からの強い信任を得ていたことが大きい。もうひとつの理由として、淮南行塩地に対して相対的に規模が小さい淮北での改革だったことが挙げられる。つまり、既得権益者の力が相対的に弱いということである。
これに対置すべきなのが、清末光緒年間に張謇が行おうとした改革である。こちらは見事に失敗した。理由としては、張謇の塩務や地方行政における権限がきわめて弱かったことと、淮南行塩地での改革だったため、巨大な塩商や官僚その他の利害を正面から崩しかねないものだったためである。ちなみに彼は民国に入ってからも同じく両淮塩政改革に取り組み、既得権益者と熾烈な闘争を繰り広げることになる。
さて、つまり何を言いたいかというと、流通コストの削減は、既得権益者による抵抗が非常に強いため、よほど条件が整わないと成功しないということである。
では、どうするか。結局、私塩の取り締まりに終始することになる。が、塩需要の半分を私塩が占める状況にあっては、どれだけ頑張ろうと効率の低さはどうしようもない。
じゃぁ、どうして塩税の税率に拘ったのか。官塩供給量を増やせば良いんじゃ。

第3節は、それに応える部分である。
張謇など、清末の塩制改革論者たちの主張に、自由販運制の導入というものがある。
これは、早い話が好きに塩を売って良いよ、という制度である。
これまでの塩政の基本は、許可証である塩引の発給を受け、場所や期日、販売する塩の量など事細かに規定され、さらにその取引権も保護されるというものだった。
こうした規制を、程度の差こそあれ緩和するというものである。
当たり前の話だが、こんな改革案を持ち出そうものなら、既得権益者が猛烈に抵抗することになる。
上の話の続きみたいになるが、張謇はこれを行おうとして、結局行い得なかった。大した権力を持ち得なかった清代には言うに及ばず、袁世凱から強い信任を受けていた民国期においても、充分な成果を挙げるには至らなかった。どちらかというと、塩税を借款の担保に入れていたことから、列強から派遣されていた外国人監督官の方が、強い影響力を持っていたのではなかろうかと思われる。このあたりについてはもう少し調べた方が良いのだろうが、基本的には、張謇が進めようとして挫折した改革案を、外国人監督官が実施したという感じになるようである。

さて、結論である。清代の財政構造は、きわめて硬直したものだった。清代中期に行塩数の増減を停止すると、あとはそのままで需要の増加分は私塩に任せていた。これは、この時期に財政的需要が少なかったためだが、財政的需要が高まった後期になっても、塩税の増税という、塩政を混乱させるような対応しか取れず、それへの有効な対応は無かった。
これは、官塩の販売が強く保護されていたため、その改革にあたっては既得権益者からの抵抗が強く、よほど大きな政治的影響力を持てない限り、それを覆せなかったためである。
改革への抵抗は、改革の対象となる権益の大きさに比例するため、淮北塩政の改革であっても、有能な官僚が、地方行政と塩政の権限を集中し、さらに皇帝からの信任を得ていて、ようやく一定の成果を出すというものだった。これとても既存の塩制を大きく逸脱するものではなく、自由販運制の導入などは行い得なかっただろう。
まして陶ジュ程の好条件に恵まれなかった張謇が、最大の権益地である淮南の塩政改革を成功させるのは、不可能事であるとしか言いようがない。既得権益者の抵抗を打ち破るということは、列強の力を背景にした外国人塩務官僚にして、初めて為しえたのである。


以上でストーリーは完成するのだが、どうにも面白くない。
一昔前の資本主義萌芽論とか発展段階論とかで出てくるような古くさい感じがする。
「中国において改革を行おうとすると、官僚・商人・地方有力者から成る既得権益者集団の抵抗が強いため、自力での発展は出来ない」
「よって、外部からの、『西方からの衝撃』が、中国の発展には不可欠だったのである」
古典的なウェスタン・インパクト論の焼き直しみたいである。


だが、一方でウェスタン・インパクト論の見直しも必要ではないかとも思っている。
これは、発展段階論、つまり西欧(さらに言えばイギリス)という「最先端」の姿があり、他の国・世界も、時間が経つにつれて「正しく発展し」西欧化するというものである。唯物史観やそれを改良した大塚史学の歴史観がこれだ。時期的に言えば、日本の場合だと戦後まもなくから1960年代頃まで流行った理論である。
これは、現実の方が「正しい発達」を遂げてくれないことが明らかとなったため、下火になった。
具体的には、アジアやアフリカ諸国に対して、どれだけ援助をぶっ込んでも「正しい発展」をしてくれないことが分かったころの話である。いわゆる近代化論というヤツで、日本やドイツならうまく行ったんだよ! どうしてこの土人どもは……!!!!!と、かんしゃく起こった結果、どうも理論の方が間違っているらしいということになった。この結果生まれたのが従属論なのだが、それは措く。

発展段階論そのものは、やはり間違っていると思う。というか、世の中そんなにシンプルじゃないし。歴史などという人間の営みの生成物に、ただひとつの正しい答なんてもんがあるなら、人文科学は存在の必要性すらなくなってしまうだろう。「正しい歴史認識」なんてのは、北京とソウルにあればそれで充分である。
が、近代中国が西洋からのごり押しの結果、自力では行い得なかった改革を進めたということは、充分あり得る話である。
これとて無条件・無制限に西洋側が力を振るったわけではない。例えば民国期の塩政においても、ヨーロッパ側の代理人だったデーンは、張謇らが進めた塩政改革案を実行しただけと言うことも出来る。また、彼はその後の塩政の運用においても、中国側の利益には相応の配慮を払って執行している。ウェスタン・インパクト論がインチキ臭いのは、これで何でもかんでも説明を付けようとしたことにある。実際には、双方共に影響を受け合うし、「インパクト」が起きる以前からの歴史的文脈というものが必ず関わってくるので、安易な一般化など許されるわけもない。
その上で、ウェスタン・インパクトが影響を及ぼしたというのであれば、これはアリだろうと思う。ウェスタン・インパクトと言うも良し、「世界システム」に組み込まれたというも良し、いずれせによ清末になって中国は、これまでとは異なる力の影響を強く受けるようになったということである。

多分、このあたりの考え方を上手く取り込めば、もう少し面白く読めるものになると思う。とりあえずは細部を詰めていって、ある程度進んだら、もう一度この問題に取り組むことにしよう。

2011年4月2日土曜日

卯月二日 史料のコピー

先月末、久しぶりに人文研に行ってきた。
学生証が年度末で一時的に切れるので、再発行までのタイムロスが惜しくての駆け込みである。

で、『清塩法志』から大量にコピーしてきた。180枚強で6300円ほど。専門書が一冊買える値段である。くそう。
年に数度行くのだが、行くたびに5k円ぐらい貢いでいる気がする。

もともとは、ここまで大量のコピーを行うつもりはなかった。前回コピーしていなかった部分をコピーするだけ……と思っていたのだが、いざ実物を見てみると、前回訪れたときより研究を進めていた分、必要となる史料が格段に増えていたことに気がついた。
つまり、前回は塩引数を記載する部分のみをコピーしていたのだが、研究方針が変わり、塩引の増減にかかわる部分と、塩の価格に関する部分をチェックする必要が生じたのである。
あるいは、塩税に関する部分もすべてチェックしたほうがいいのかもしれないが、その辺りについては今回は外しておいた。コピー数も、コピーにかかる時間もシャレにならなくなるので。

実のところ、こうした史料の大半は基本古籍庫にある各塩運司の塩法志を見ても、ほぼ同様の情報を手に入れることが可能である。というのも、こうした塩法志の大半は、光緒年間ごろに発行されているので、民国初期刊行の『清塩法志』とは情報がかぶって当然なわけである。
ならばわざわざ高い金を払う必要があるのかということになるが、実物を見てみると、清の最末期ごろに色々と悪あがきをしているのだが、それについての情報がばかにならないことに気付いた。
今回の研究では清代中期が主な対象となるのだが、知らん顔もできない。
かくして、必要な情報量はそれほど多くはないにもかかわらず、そこだけをピックアップすることもできないため、泣く泣く全部コピーすることになったわけである。

で、現在は大量にゲットしたコピーを、ファイルにとじるために折っているところである。ついでに最近コピーした論文も同じように折っているのだが、折り終わる前に心が折れた。
というわけで、こちらに逃げたわけである。

2011年3月7日月曜日

弥生七日 研究の見通し

研究は、遅々として進んでいない……というか、遅々として進んでいる。
つまり予定よりかなり遅れながらも、少しずつ形が見えてくるようになってきた。

現在、両淮・長蘆・両浙について、行塩数の変動を調べてきた。四川・福建・河東については、作業が進んでいる。
以上の調査において、共通して乾隆年間ごろまでには、塩引数は変化しなくなってきている。つまり両広と同じ現象が見られたわけで、清代中期ごろになると、清は官塩の積極的供給を放棄し、人口増に伴う需要については私塩に任せるようになったとする僕の仮説は裏付けが取れたわけである。

次に来るのは動機、つまりなぜ放任したのかという点だが、以前にも書いたとおり、財務及び塩務官僚にその動機がなかったためだと考えている。
この仮説を証明することはできるだろうか。一応はチェックしてみるつもりではあるが、官僚たちの不作為を証明するような史料があるとは考えにくいので、状況からの推論に頼らざるを得ないだろう。

清代中期から激化したかどうかは分からないが、清代のほぼ全期にわたって、私塩問題が悩みの種となっている。特に、清代後期には私塩が激化する。広東の例に倣うなら、人口の半分を私塩で賄うようになるのだから、そりゃ激化もするだろう。
仮に清代中期ごろから私塩が激化したのだとすれば、塩務官僚にすれば、官塩の増加など現実的な解決だとは思えなかったのかもしれない。
私塩を官塩で吸収するという発想は、例えば明代に王守仁が発案したように、必ずしも珍しくはないのだが、清代はどうなのだろう。清代後期に陶ジュが行った両淮塩政改革に、それに近い案が出ていたかもしれない。確認が必要だ。
それはさておき、一般に私塩対策が叫ばれる場合、求められるのは官塩の欠額分をいかに埋めるかという点であって、つまり財政問題である。需要の拡大した必需品の供給という観点は存在しない。一口に私塩といっても、官塩による供給分に食い込み、塩税収入を削っている部分と、官塩による供給分以外の部分とがあり、塩務官僚たちが問題にしているのは、前者というわけである。
とはいえ、私塩そのものは上記のごとく二分できるようなものではない。よって、前者の解決のみを模索しても、私塩問題が片付くわけがないのだが、そのあたりについては、王守仁のそれを例外とすれば、どうも認識が乏しかったように思われる。

官僚にとって、私塩問題とは、官塩の販売分の一部が私塩に取って代わられ、塩税収入が減損してしまうというものだった。私塩そのものも問題だったわけだが、それ以上に税収減が問題だったのである。
人口増に伴い、官塩供給量を増やすといっても、現今の官塩ですら満足に供給できていない状態で、さらに供給量を増やすことが現実的に可能なのか。
不可能ではないはずである。王守仁は塩政を変えてそれを実施した。ただし、これは明代の話であり、かつ彼が当時行っていた軍事活動の予算を捻出するために行った非常の策という側面がある。
治安が安定していた清代中期に、強大な権力を持ち合わせているわけでもない官僚たちが、自分たちの塩税徴収ノルマというハードルを上げてまで挑むべき難問ではないと考えてもおかしくはあるまい。
結果、弥縫的に私塩対策を続け、清代後期に至るわけである。財政需要が増し、より大きな塩税収入が求められるわけであり、また拡大しつつある私塩問題も解決しなければならないわけだが、陶ジュの改革なども含め、抜本的なものとはならなかった。陶ジュについてはもう一度確認しておく必要があるとは思うが、塩政の基本的な部分は変わっていないはずである。

変わらなかったというよりは、変えられなかったというべきか。塩政に限った話ではないと思うが、この時期には制度が硬直し、それを変えるにはきわめて大きな努力が必要だった。陶ジュにせよ、嘉慶帝の全面的な信任を得ていながらも、かなりの苦労をしている。まして清末になると、張謇が行おうとした改革は、ほとんど実施が不可能だった。
莫大な利権をもたらす塩業には、相応の利益団体がついている。ひとたび塩制を変えるとなると、大きな富と権力を有する彼らの猛烈な抵抗に遭うし、また末端部分で塩政を担っている人々を失業させ、治安悪化につながることになる。現実問題として、塩政の抜本的な改革などということは不可能事だったのかもしれない。

要するに、塩制を変える動機があり、変える力もあった清代前期には、塩制は変えられている。
塩制を変える動機のなかった中期には、おそらく変える力はあったのだろうが、塩政は変えられなかった。
塩制を変える動機はあったのだが、塩制を変える力のなかった後期には、塩政は変えられなかった、というわけである。


財政的な硬直という意味では、いわゆる原額主義の問題もある。
「量出制入」という財政原則は、唐代に両税法を導入して以来のものである。
唐代においては、「量入制出」の原則に立つ均田制・租庸調制が実施されていた。これは厳格な人口調査に裏付けられて実施されていた。「入るを量る」ためには、人口数が分からないと話にならないためだ。
が、戦乱で国土が荒廃していた唐初はともかく、国内が安定し人口が増加してきた中期以降になると、口分田が足りなくなって貸与を行えなくなってしまい、均田制が崩壊してしまう。
そこで両税法を導入し、「量出制入」へと財政原則を切り替えたわけである。
以来、基本的な原則は清代にまで続く。教科書的には明代後期に一条鞭法の導入によって両税法は廃止されたことになっているが、その原則そのものは清代に至るまで現役である。

さて、「量入制出」の均田制・租庸調制が人口調査によって裏付けされていることは先に述べた。で、「量出制入」の両税制の場合、人口調査はさほど重要ではない。全く人口と無関係に歳入を決めるわけにはいかないが、例えば国初などある時期において把握した人口に基づき歳入を決めれば、あとは原則として人口は増えていくため、歳入を変化させなくても問題ない(実際にはそうでもないのだが、ここでは措く)。
よって、「量出制入」を原則としている税制の場合、どうしてもその徴税額は硬直化しがちになる。
現実には、人口が増大したことにより行政上の必要も増加し、それに伴い必要な支出も増える。(ついでにパーキンソンの法則により、役人の数は必要の有無にかかわらず常に増大する傾向にあることも、支出の増加を加速させているかもしれない)
いずれにせよ、その部分は何とかしなければならないわけだが、それは正額外の税収によって賄われる。附加税のたぐいだ。
こうした財政構造については、岩井茂樹の研究に依っているわけだが、塩税においても同じことが言える。つまり基本的に硬直性の高い正額と、必要に応じて設けられる正額外の附加税による租税体系を、塩政もやはり有しているわけである。

清代後期以降の両広塩政について行った研究からも、このことは裏付けられる。正額以外に百近い附加税が存在しており、清末にはほぼ正額と同程度の規模にまで拡大していたのだ。乾隆年間あたりまでは、ほぼ正額のみだったので、実質的に倍増したといってもいい。
財政需要の高まりに応じて、官塩に課する税額を大幅に増やしていったのである。


結論としては、

(1)塩政において私塩が存在していたことは、その制度の性質上避けられるものではなく、塩務官僚もこの点そのものは問題としていなかった。彼らが問題としてたのは、私塩による塩税収入の欠損である。
(2)塩税収入そのものの増額が必要な場合は、官塩供給量の増大ではなく、塩税税率を挙げることによって賄った。

となる。これは両広塩政について観察された結論と同じであり、つまり清代中国の全土においても共通した財政的傾向であるということを意味している。



まぁ、なんというか面白みのない結論である。以前、両広塩政について書いた論文と同じ内容なんだから当然なのだが。
一言で言ってしまえば、両広塩政について得られた結論は、清代中国全体についても同じとがいえるというものである。まぁ、この結論自体は無意味ではない。中国における塩政は地域差が極めて大きいのだが、その根底部分にある原則は共通しているということになるからだ。
また、私塩というものが、反体制的行為であるにもかかわらず、その根絶が不可能であるという観察と、財政需要の高まりが官塩の税率を高め、ひいては官塩の流通を困難とせしめるという観察から、財政需要が高まるにつれ、社会の混乱が避けられなくなり、ついには王朝を転覆せしめてしまうという仮説を導き出すことが可能である。
要するに、中華帝国というやつは、放っておくだけで滅亡するということである。
もちろんこの結論は誇張しすぎている。塩税収入は財政のすべてではないし、財政的事情だけで中華帝国が滅亡するわけでもない。第一、清について言えた結論が、明や宋についても通用するかは、個別に検証する必要がある。
だが、塩税収入が歳入の大きな割合を占めていたことは事実だ。米麦による正税収入についての検証も併せて行えば、より正確な理解が可能となる。また、国家が滅亡するのは、直接的には外寇や内乱によるが、その背景には国力の低下、すなわち財政的混乱が出てくることは言うまでもない。誇張はあっても虚偽ではないというあたりである。

とりあえず塩政に話を戻せば、清代だけでなく、明代と宋代についてもチェックする必要がある。元についてはどうだろう。やはりチェックする必要があろう。
その次に、財政の検討が必要になりそうである。正直、やりたくないし膨大な先行研究もあるので、それをチェックするだけで充分だとは思うが。

あとは、通貨の問題になるだろうか。
一条鞭法にそれほど重みがあるわけではないが、明代中期以降の財政的特徴は海外からの流入銀が強く影響を及ぼしている。それは具体的にはどのように影響を及ぼしているのか。
詳述できるほどの知識はないが、少なくとも明や清の末期に行われた大規模な増税は、銀建てかどうかはともかく貨幣経済でないと不可能である。明代中期までの米建て経済では無理だ。銀の大量移入が経済規模を拡大したのは事実だろうが、それによる悪い影響もまた同様に生じている……わけだが、まぁとりあえずは別の話だな。そこまでたどり着くのに何年かかるやら。

2011年2月4日金曜日

如月四日 方針転換

少し、研究が行き詰まっていたことから、方針を変えることにする。
とはいっても、それほど変化があるわけでもないが。

まず、これまで行ってきた作業は、各省の府県に対する行塩数を列記し、清代中期のそれと清代後期のそれとを並べ、塩引発給数の増減を比較することで、人口の増大に対する官塩供給量の対応がなされているか否かを明らかにするという方針に基づき、行われてきた。
だが、これを進めていると、うまく行く地域とうまく行かない地域とがあることが分かってきた。
というのも、大まかな部分では調べがつくのだが、細かい部分で表から漏れている地名があったり、よくわからない理由で数字が変わっていたりするわけである。
おそらくは、精査すればそれぞれの問題点についても解消できるのだろうが、中国全土に対してそこまで手間暇をかけていられない。
かといって、都合のいい部分だけを抜き出して、こちらの結論に結び付けることは、それがおそらくは正しい結論を示しているのであろうとしても、許されることではない。研究は過程が大事なのだ。

というわけで、別のアプローチを持ってきた。
今度は、各行塩地の塩引数の増減を調べることにした。以前、清代初期の両広塩政について行った際に用いた手法である。
これも、細かい部分は史料の不整合や漏れがあったり、あるいはこちらの誤解が生じたりして、なかなかすっぽりとはまらない。
行塩数が変化するたびに全体の塩引数についても列記してくれればありがたいのだが、そこまで親切ではないのである。
が、少なくとも清代初期に塩政を開始した時の塩引数(原額)と、それぞれの史料が編纂された当時の塩引数は、当然ながら記されている。史料によっては、ある特定の時期についても記載している。
そういう数値をマイルストーンとすれば、細かい部分で不整合があっても、大体のめどはつく。
それに、こちらが行うことは、数字合わせのパズルではなく、どの時期にどの程度の頻度で、そして分かるのであればどういう理由で行塩数が変化したのかということである。
今のところ、長蘆と両淮についてその作業を行ったが、どちらもかつて行った両広と同じ傾向を示している。つまり、雍正から乾隆初年ごろまではある程度の頻度で塩引は増減していたが、清代中期ごろからは、ほとんど塩引数は変化していないのである。
あと、両浙・福建・四川と、山東・雲南・河東あたりを行えば片がつく。後三者については、いま史料がないのだが、まぁあまり重要でもないので、後回しにしても良いだろう。

この作業をよすがとして、省単位の調査とを比較すれば、おそらく楽にできる。省についてはすべてを調べる必要もあるまい。

そうすれば、次の作業となる。なぜ清代中期に塩引数を人口の増加に対応させなかったのか。
推論としては、財務及び塩務官僚にその動機がなかったため、ということになるが、直接的な史料は存在するのだろうか。不在を証明するのは非常に難しいのだが、ある程度はチェックしておかねばなるまい。たぶん無いだろうけど。動機のないことをわざわざ文章化する人間はいないものなぁ。

2011年1月27日木曜日

睦月廿七日

さて、研究の方だが、あまり芳しくない。
行き詰まっていると言うよりは、単に時間をかけてやっていないというだけのことである。

思うに、一日2時間程度の割合でデジタライズ作業を続けており、これがよろしくない。

確かにそれなりの成果は出ており、現在で単行本400冊、雑誌100冊を片付けている。
スキャナを導入したのが11月上旬。いまで約3ヶ月弱経っているわけである。
つまり、一日平均5.5冊の割合で処理していることになる。一回に処理する冊数は、基本的に10冊なので、おおむね隔日作業を行っている計算になる。

で、デジタライズ作業は、それなりに神経を消耗させる。古い本だと、ダブルフィードがやたら多いのだ。
古い本は、経年劣化か本の上に本を積み上げすぎたからか、本のてっぺん部分がギザギザになってしまっており、そのためきっちりと紙送りが為されないのが原因である。
もうひとつの原因は、紙送りを重力に頼っているため、デフォルトの状態だと急角度過ぎて二枚目が送られやすくなっていることにある。
対策としては、ひとつめについては、本を裁断する際に天の部分を2mm程度切っておくことがある程度有効である。結構忘れてたり、また一見したところ綺麗な天になっているため、大丈夫だろうと思っていた本が実はダメだったりするということもあるので、油断が出来ない。
ふたつめについては、台を作ろうかと思っている。30度程度の角度を持つ台を噛ませておけば、紙送り側はほぼ水平になる。これがどの程度効果があるのかは不明だが、足下に本を挟んで軽く角度を付けるだけでも、それなりに効果があるらしいので、やはり意味はあるはずである。

とまぁ、こんな感じで現時点では結構気を使う。気を使うと漢文などと向き合う気にはなれなくなる。MPを消費するのだよ。

が、やる気を削られていた理由のひとつが年末年始の多忙にあったことは確かなのだから、2月と3月は比較的気合いを入れられるかも知れない。というか、この時期に進められないと、今年中に一本発表するという目標を達成できなくなってしまう。

というか、実の所、今年は無理かも知れないと思っている。
やはりこれまで慣れてきた広東というステージから中国全土にまで風呂敷を広げると、方法論は同じであっても、かなりの情報をこなさなければならなくなる。
まぁ、所詮は作業なのだが、作業をこなすには根性(MP)が必要なので、その根性に不足する現在は、あまり宜しくない。

かといって、本の裁断を止めるのも気が引ける。
作業を続けていて思ったのだが、部屋が少しずつ片付いていくにつれ、頭がまともに働くような気がしてきたのだ。かなりの部分までは気のせいなのだが、確かに論文や史料を発掘するのに一苦労という状態では、精神衛生に悪い。もう少し部屋のスペースと精神衛生状態の改善を図る必要は、確かにある。

差しあたりは上手く両立させてくださいとしか言えないのが残念なところ。まぁ、工夫の建て方は見えてきているので、もう少し頑張ることにしよう。

2010年12月27日月曜日

師走二十七日

忙しい忙しいと言いながら、GamersgateでVictoria2が半額セールをやっていたので、買ってきた。
当然英語版であり、何から何まで手探りになるわけだが、まぁそれは良い。
パラドの最近作の例に漏れず、EU3エンジンを用いており、僕のPCではそろそろキツイ。まぁ、あまり長時間ゲームをするのでなければ、話にならないというほどではない。

現在、1.2パッチなので、まだバランスが良くない。
ブラジルでやってみたのだが、20世紀に入ったあたりで叛乱祭になってしまう。

このゲームの売りは「近代化」に尽きるのだが、これは農民が工場へ吸い上げられる過程をも含んでいる。で、工員や技術者といった都市民は、自由化を求めるわけである。
つまり、保守的な農民が自由化していくことにより、権威主義的な政体とは合致しない思想を持つ国民が増えていくわけである。
また、自由主義思想の変化として社会主義思想が生まれる。貧乏なままの自由主義者は社会主義に染まるらしい。具体的には工員のことだろう。
社会主義者は穏健な間は自由主義者と大差ないのだが、急進的になっていくと不満を強める。ついでにここから共産主義が生まれる。こやつらは政権転覆を起こすことしか考えない。

というわけで、近代化プレイを進めていくと、ゲームの最後の方は社会主義者やコミー共ばかりになる。政体は権威主義のままなので、そりゃ暴動も起きるだろう。
理屈はよく分かるのだが、解決の道が見えないのが困る。いやまぁ、実際ロシアをはじめとする結構な数の国が解決できないまま滅んでいった訳なのだが。
社会主義者をあまり多く生まない方法ってあるのかな。

今日は一日休みだったので、中国でやってみた。
ゲーム当初の中国は近代化を迎えていない状態なのだが、このゲームでは必要技術を開発してさえしまえば近代化できる。1836年開始で50年代には近代化を達成した。史実で言えば同治年間ぐらいか。洋務運動要らんがな。あるいは、1836年から洋務運動を行ったと考えればいいか。ちなみに嘉慶年間である。
この時代は清の国内矛盾が加速していった時代なのだが、アヘン戦争を含めて、この手の問題はゲームには反映されていない。EU3エンジンシリーズに共通するモチーフなのだが、イヴェントを多用せずに、世界史を再現ではなく再構築するというスタイルを取っているので、どうもそのあたり甘くなる。
おかげで1860年代には列強になった。おかしくね?
マンパワーがものすごいし、独裁国家なので、有り余る税収を用いて必要な工場を建てまくるだけで、スコアの一種である工業点が爆発的に貯まるためである。
簡単な技術で造れ、かつ世界経済が必要とする商品を、傾斜配分政策(資本の集中投入)で作りまくり売りまくり……。何時の時代の話だ?

ただし、あまりに輸出依存の経済を作ってしまったので、1880年に差し掛かることになると、世界市場でだぶつくと一気に経済破綻を起こしかねないという無茶苦茶な状態になった。西太后あたりが、内需なんて知りませんわとか言っているのだろう。
で、国内がガタガタになって失業者が溢れかえると、20年早く義和団の乱が起きた。具体的には中国ほぼ全土で叛乱発生。
やってられるか。
余談ながら、技術開発能力を上げるための文化関係技術と国力造成のための産業開発技術しか開発していなかったので、戦争すればヴェトナム相手でも負ける。というか、アフリカのソコトに勝てなかった。
まぁ、国境を接する国とは仲良くしていれば、多数の陸軍部隊を要している限り、簡単には攻め込まれないので、さほど問題ない。もし戦争になったら、アヘン戦争や日清戦争を再現することは間違いないところである。

中国もだいたい分かったので、次は本命のプロイセンあたりで試してみようかな。


『清塩法志』の作業はとりあえず完了した。手持ちの資料で出来る範囲という意味である。
一部の行塩区の塩引数データや、ほとんどの行塩区における塩引一道あたりの塩斤数に関する情報については、まだコピーを取っていない。また人文研に行かないとなぁ。

現時点で、清代中期の地方志から得られた同時期の塩引数と、『清塩法志』から得られた清末の塩引数が、中国主要部について得られている。
次に行う作業は両者の比較である。以前の論文で調べた広東・広西や先日チェックした江西などでは、両者はほぼ一致する。
他の地域でも同じ結果が得られるのであれば、そして塩引一道あたりの塩斤数に大きな変動が見られないのであれば、清代中期から後期にかけての人口増大は、私塩によって賄われたのだと判断できる。
この時期の塩税収入についても調べなければならないが、両広の事例からすれば、かなり増えていることは間違いない。
つまりは、税収増の要求に対して、塩の供給増ではなく、税率の上昇で対応したわけであり、それが社会矛盾を増大させたのである。官塩が売れなくなるので、それを賄うためにも塩商人による私塩が激化したというわけである。

仮にそれが妥当であるとして、ここまでは広東についての研究の結論と同じである。
いやまぁ、多分ここまでで一本分の論文になりそうだが、本題はこの先になる。
明代はどうなのだろうか?
明代中期から後期にかけても同じ現象が見られたとするなら、これは中国近世史において、一般的な現象であると考えられる(宋代のことは、今は忘れることにする。理由は、僕は宋代について何の研究も行っていないこと、史料上の制限、そして明代後期から大量の銀が流入し、経済構造そのものが変化したと考えるためなのだが、まだ根拠を揃えて説明できない)。

近世中華帝国において、課税対象を財政需要に対して柔軟に拡大させることが出来なかったという僕の仮説は、もちろん塩政についての研究のみからでは立証不充分である。これをやるには財政そのものについての研究が必要となる。
これについては、岩井茂樹いう原額主義、つまり「経済の拡大に対応しない硬直的な正額収入と、社会の発展と国家機構の活動の拡大とにともなって増大する財政的必要とのあいだの不整合、およびこうした不整合を弥縫するための正額外財政の派生を必然的にともなう財政体系の特質を表現する名辞」(『中国近世財政史の研究』p.357)から、何らかの示唆を得られないかと考えている。僕の理解では、原額主義とは、国初(例外もあるが)において定められた正規の税収額(正額)が、硬直しがちであって財政の需給に対して柔軟に変化しにくく、そのため非正規の税収が拡大しがちであったという財政的傾向のことである。

原額主義の概念が対象としているものに、塩引というものが包摂されているのかどうかは、岩井先生に聞かないと分からないが、中国の財政はカネのみならず食糧も含まれていること、そして塩引はそれらと一定の関係を有している──塩引の「価格」は公定されていて、あまり変動しない──ことから、対象に含まれていると考えて良いだろう。
清末の両広塩政の事例から、塩引一道あたりの税収を増やすために税率を上げた時の内訳を見ると、課税細目そのものが増えていて、細目内の税率が変わったわけではないことが分かる。
つまり、清代中期には、塩引一道に対して「A」という課税細目が定められており、それに対して1両とかの税(塩課)定められているわけである。これが清末になると、「A」だけでなく「B」や「C」が附加されて塩税が高められていくことになる。この時、「A」の額そのものはあまり変わらない。
要するに、「A」が正額であり、「B」や「C」が非正規の附加税というわけである。非正規の附加税といっても、実際には塩価の中に繰り込まれているので、取引の際には塩税が増えたようにしか見えない。
ちなみにこの細目は清の最末期に統合されようとするが、実際に統合されたのは民国に入ってからのこととなる。明代の一条鞭法と似たような展開を見せたわけだ。
一条鞭法とはつまり、「A(正額)」・「B」・「C」というあった税目が「A’」に繰り込まれる現象を指す。しかし、清代になると「D」・「E」といった感じでさらに附加税が加わることになる。
民国初期に統合された塩税は、一条鞭法のようなさらなる附加税を課されたのだろうか? このあたり興味深い話だが、まだ調べていない。調べるかどうかも不明というか、もう民国以降には手を出したくなかったのだが、こうやって書いていくうちに興味をそそられるようになった。また折を見て調べてみることにしよう。

話を戻そう。塩政において原額主義が適用され得るのかという問題については、然りと思われる。根拠不足なので「考えられる」と断定できないのが残念だが、まぁ清末については、原額主義の概念から作られたモデルで説明できそうである。
問題は、「何故」という部分である。清代中期の両広塩政についての研究の中で、僕は塩務官僚にとって、硬直的な塩の課税額を柔軟に変動(というか増大)させるには、政治・経済的安定期であり財政的需要がなかったことから肯定的になる動機がなく、むしろ人事査定上のハードルが上がってしまうという否定的な要素が強かったためであると考えた。
官塩供給量を増やすには、私塩に対する競争力を確保するためコストを下げねばならず、かつ土地の有力者や塩商・末端の塩務官僚・胥吏などから構成される私塩流通システムを敵に回すという政治的リスクを冒さねばならない。
政治・経済的に安定していた清代中期ならともかく、その双方が混乱していた清代後期に、それを行えるだけの余裕はなかっただろう。
よって、塩制改革は行われなかったわけである……が、清代後期の塩制についてのみの話ならともかく、塩税制度全体について述べるには不充分だ。硬直的な塩税徴収システムが改革されなかった理由の説明にはなっても、なぜ硬直的なシステムが採用されていたのかという説明にはなっていない。

清代の塩制は、基本的に明代のそれをそのまま踏襲している。精緻化しただけともいえる。つまりは、硬直的な(逆に言えば、その枠の範囲であれば運用しやすい)システムもそのまま引き継いだわけである。
柔軟に塩税収入を増減できるシステムとなると、これは需給量についてそれなりに正確性の高い予想が出来ていないと、成立しない可能性がある。
年によって出来不出来のある穀物ほどではないが、塩の需給量はそれなりに変動する。
具体的には、人口に対して一定割合の需要があるわけだから、塩の需要は人口数に比例する。逆に言えば、塩の需要は人口数が分からなければ予測できない。
明や清の人口把握は、清代中期、康煕50年(1711)に盛世滋生人丁として人丁税を免除するまでは、非常に不正確なものだったとされている。人口台帳ではなく課税台帳だったため、皆まともに申告しなかったためだ。
となると、清代中期以前において、塩の需要量を把握することはほとんど不可能だったはず。そう考えると、硬直的な制度を採用するのもむべなるかな。
つまり、「量入制出」か「量出制入」かという昔ながらの財政論議になるわけである。ここでは「制入量出」だが、まぁ同じことだ。中国では唐代に両税法が採用され、「量入制出」から「量出制入」へと変わって以来、硬直的な(あるいは確実性の高い)財政原則が用いられてきた。
これは要するに、豊作不作に関わりなく、一定の租税を徴収して政府のフローを確保し、需要(例えば不作)に応じてそのフローから支出する仕組みである。中国のような中央集権国家では、こうした中央のフローが大きい方が、行政に都合が良い。というか、中央のフローが大きくなったから、中央集権が進んだと考えるべきか。

唐代・宋代の財政については何の勉強もしていないので、改めて調べてみる必要があるが、ここまで書き連ねてきたことから判断すれば、「昔から硬直的な(制入量出)財政原則があったので、塩制についても同じようにした」ということになる。
「制入量出」の財政原則があり、また清代中期になるまで人口動態を把握できるほどの行政能力がなかった(正確には清代中期に行政能力が高まったわけではなく、財政需要が低下したため人口把握を放棄した結果、かえって人口数の正確な把握が可能になっただけなのだが)ことから、塩税徴収システムは、他の徴税システムと同様、硬直的なものだった。清代後期に至るまでこれを改革する動因は働かず、また清代後期になると改革への動因は生じたが、改革を行うのに必要なコストを払えず、結果システムを改革せずに税収の増加を求め、システムを破綻させた──この推測が正しいとして、「清代」の部分を「明代」とか「元代」とか「宋代」としても通じるのであれば、これは両税法導入以降、一般的な財政構造だったと考えることが可能となる。

はてさて、つらつらと書いてきたことは正しいのだろうか。というか、定量的な実証が可能なのだろうか。
とりあえず清代と、出来れば明代については検討してみたい。明代後期からの銀の大量流入により、色々と変わったとは思うが、その次のことはそこまでの分析が終わってからだろう。

2010年12月23日木曜日

師走二十三日

ヤマと見ていた先週が終わり、何とか一息付けた。
今のところ、致命的な……というと言い過ぎだが、大過なく過ごせている。
あと一週間弱で、とりあえず年内は終わる。まぁ、何とかなるだろう。


色々と疲れてきているので、ゲームとかはあまりしていなかった。

A)帰宅→スキャン作業→酒飲んでニコニコ見て寝る
B)帰宅→酒飲んで仮眠→スキャン作業→酒飲んでニコニコ見て寝る

ダメだね。これは。
我ながらダメダメなので、頭を使わなくても出来る仕事を進める。
具体的には、先日来続けている『清塩法志』のデータ整理。
各地の行塩引数をExcelもといOpenOfficeのCalcに投げ込む。
中国のほとんど全ての県名を入力し、それぞれに対応するデータを打ち込む。
甘粛・新疆や東北三省などの、塩政からはやや切り離された地域は除外し、山東・雲南のデータはまだコピーを取っていないのでこれまた除外し、広東・広西は作業を終えているのでこれも外すとしても、900近い県や州が存在する。
こうした地名をいちいち入力し、それぞれに数件の塩引データを入力する。今こうやって書いている文章を見直すとうんざりしてくる話だが、まぁやりましたよ。ほぼ。残るは福建だけ。
素面でこんな事をやりたくはないのだが、酒を呑むと単純作業であっても──むしろ単純作業だからこそ──作業にならなくなるので、作業用BGMを聴きながら。

ここからBGMをセレクトしていたのだが、Cowboy Bepopと攻殻と平沢進は作業用BGMに向いていないことがよく分かった。

作業用BGMとして一番良く使っているのは、しらは作品集。もう何回聴いたことか、サッパリ覚えていない。作者サイトからmp3を落としてiPodに入れて聴いたりもしているので、三桁にはなっているはず。良く飽きないモノだ。
東方のアレンジ曲なのだが、僕のように東方をやり込んでいるわけでもない人間でも楽しめる。
ちなみにいまも聴いている。


スキャン作業は、結構順調になってきた。時間そのものはだいたい2時間程度を割り当てることにしており、短くすることを重視していない。
逆に、スキャン作業しながらでも出来る仕事を進めるようにしている。料理や掃除なんかは結構出来るものである。

池波正太郎の「鬼平」と「剣客商売」を始末できたので、もっぱらそれを読んでいる。何度読んでも面白いね。
「梅安」シリーズはまだだが、これは冊数が少ないので。池波正太郎のシリーズものでは、「真田太平記」はまだ集めていないのだが、もう少し片が付いたら集めようかと思う。

他に佐藤大輔と谷甲州の本も、だいたい片付きつつある。RSBCの文庫版がまだ残っているが。

あと、「グインサーガ」シリーズがまだ手つかずだ。栗本薫の小説は、これと「魔界水滸伝」ぐらいしか読んでいない。「魔界水滸伝」は昔処分してしまったので、手元にない。
「魔界水滸伝」はそれほど面白いとは思わなかったが、横山信義の「八八艦隊物語」は、処分したことを後悔している。
他にも色々と棄てたからなぁ。今にしてみればもったいない話だ。

文庫と新書を主に処分してきたのだが、最近は雑誌類も対象としている。雑誌といっても一般雑誌は持っていない。専ら学術雑誌。
A5サイズのオーソドックスなものが大半だが、一部B5サイズの少し大きいものも混ざっている。一般書ではなく学術雑誌を処分するのは、こいつらはあまり頻繁に読まないため。
本当を言えばA5サイズを読めるKindleDXかiPadかGalapagosの大きいヤツが手に入るまで待ちたいのだが、カネがないのでまだ先の話になる。
学術雑誌の場合、気楽に読むことはあまりないので、必要に応じてPCで読めばいいという判断である。

こうして少しずつ空きスペースを増やしているのだが、まだあまり片付いたという実感はない。まぁ、まだ200冊程度しか減らしていないので、そんなものだろう。
一ヶ月200冊とすれば、来月の今ぐらいになれば、多少は実感が湧くだろうか。

2010年12月12日日曜日

師走十二日

このところずっと忙しいのだが、それに輪をかける状況になっている。
正確には「忙しい」というよりは「休みがない」というべきだろう。具体的には月月火水木金金。

まぁ、幸いにして体調は大きくは崩れていないので、一番の山となる今週を乗り切れば、年末に向けて少しは楽になるはず。
体調は崩れていないとはいえ、酒量が増えている。
ジンなどの蒸留酒をグラスに二杯。シングルとかダブルとかではなく、グラス八分目ぐらい。まぁロックだが。ちなみに水割りはまず呑まない。父が角瓶を好んでいるので、実家に帰った時にそれを呑むときには水割りにする。日本のウィスキーは水割り向けに出来ているためだ。

たまには休肝日を設けるべきだろうが、なかなかうまく取れない。もう少し意識するべきだろう。


さて、しばらくお休みとなっていた研究だが、作業を再開した。
作業工程としては、

① 地方志から清代中期の行塩数を求める。
② 『清塩法志』から清代末期の行塩数を求める。
③ 曹樹基『中国人口史:清代巻』より清代中期から末期にかけての人口の増加を求める。
④ ①から②の官塩供給料増加分と③で求められる人口増加分を比較する。

④の結果、前者より後者の方が大きければ、塩需要の増加に対応する努力を放棄し、私塩で賄うに任せていたという仮説が、少なくとも数字の上では裏付けられるわけである。
これを可能な限り各省について行う。とはいえ広東や広西などは作業済みだし、江西は先日行った。また満州や新疆などは、あまり詳しくチェックする必要はあるまい。一応は確認しておくつもりだが。
比較作業自体は簡単、というかデータを入力すればほぼ同時に判明することなのだが、その入力作業が面倒臭い。面倒なのでやらなかっただけで、要するにただの怠慢である。
怠慢というだけなのであれば、気合いを高めればなんとかなる。なかなか高まらないのが問題なのだが、まぁそこは頑張ることにする。しばらくさぼっているということからくる後ろめたさが最大の推進力である。なんという後ろ向きな。

なるべく頑張って年内には終わらせたいところ。頑張るという言葉は僕の嫌いリストでも三傑に入るほどなのだが、他に手がないとあっては仕方がない。

2010年12月4日土曜日

師走四日

先週、大学で学会が開かれた。
この時期、どこでもこの種のイヴェントが続くのだが、今回のは民衆運動についてがテーマ。科研費が来年春で切れるので、締めの会というわけである。
科研に参加していた研究者に、明清を専攻とする人間が多かったこともあり、割とそっち方向が濃い内容となった。
まぁ、主導していた先生が明代専攻だったことが大きいのではないかと思うが。もうひとりの主導役がウチの先生なのだが、こちらは魏晋南北朝の人。よってそちら方面のひとも結構多かった。
いろいろと下働きをさせられたのだが、まぁそれはそれで。ついでに発表そのものについてのレヴューもしない。来年春ぐらいにまとまった形で出版されることになっている。
以下は、発表を聞きながら思ったこと。

様々なテーマがあったのだが、そのうちの一つが、いわゆる唐宋変革の結果、何か変わったことがあったのだろうかというものだった。
変化として挙げられたものの一つに、史料の数がある。
明代以降は、史料数が非常に多い。それは今回でも、新規発見された史料についての発表があったことからも窺える。よって、潤沢な史料を整理し、そこから新たな知見を組み立てるという形になる。注意すべきは、都合のよい史料だけで論を構築しないように心掛けることであろう。
唐代以前は、史料数が極めて少ない。よって、特定の史料を様々な角度から解釈するというかたちになる。牽強付会に陥ることは、避けねばなるまいが。

宋代を専攻とする研究者が、宋代のうち北宋は唐代以前に、南宋は明清に近い性格を持っており、過渡期的な特徴を有すると発言していたことが印象深い。唐宋変革で何もかもが変わったわけではなく、宋代から明清にかけて、ゆっくりとした変化が続いていったというわけである。
時代区分についての発言があったわけではないが、僕としても、急な変化などというものはそうそうあることではないと思っていたので、重なるところが多い。

通史的な発表はふたつほどしかなかったのだが、いずれも中国民衆運動史を専攻する研究者の発表ではなかったことが印象に残った。民衆運動史全体を通観して、変ったものと変わらなかったものとして、どんなものがあるのか、という議論は少なかったように思う。この科研そのものがワークショップ的なものであり、そうした結論を導き出す場ではないというのはあるだろうが。

発表のひとつに、中国の大きな枠組みは古代の時点で完成しており、循環するのみで変わるところはなかったとする古い議論を紹介しているものがあった。
これは古典的な中国停滞論のひとつではないか(オリジナルをチェックしていないので確言はできないが)と思うが、戦後日本(おそらく中国も含めて)における中国史研究では、中国停滞論からの脱却という観点を強調しすぎるように思われる。

発表でもあったのだが、ある王朝の末期に、失政や天変に伴って民衆反乱(昔は農民反乱もしくは起義なんていった)が勃発し、その結果、王朝は交替する。この過程で土地が荒廃して人口は減少する。
新王朝においては、前代の官僚や王族などは残っておらず、行政はスリム化されている。
荒廃した土地への開発が進み、人口が増加する。また新規開発地への移住、開発も進む。
この過程で官僚などが増大し、民衆への負担が増大する。
社会矛盾も強まり、最終的には民衆反乱へと至る。

この模式化されたサイクルは、中国史上で起きた数多くの民衆反乱を説明できるほど一般的なものなのだろうか。
確か岸本美緒も顧炎武の歴史認識として書いていたと思うが(論文名は忘れた)、彼らは中国の歴史を循環的なものとして認識していたとある。循環を停滞ととらえるべきか否か、また循環するもの以外の変化、たとえば冒頭で挙げた唐宋変革で生じた変化は明清時代にまで至って深まっていったことなど、長期的な変化として、どのような整理が可能か。
僕の認識としては、量的変化と質的変化として整理される。わかりやすいサンプルを示すと、総GDPとひとりあたりGDPである。アンガス・マディソン(今年の4月24日に亡くなっていたそうだ)が採った手法である。
他にもあるだろう。これまで積み上げられてきた定性的分析に、人口や反乱数などといった数値資料を用いた定量的分析を組み合わせることはできないか。

ま、言うは易く行うは難い類の話ではあるが、個別事例の研究の深化と、数値情報の入手・整理が容易になった現代なら、不可能ではないと思う。

2010年11月8日月曜日

霜月八日

先週金曜日は、いわゆる学祭のため、仕事はお休みである。
有休をもらえない身では、平日の休みというのは貴重である。まぁ、金が入らないことには変わりないが。

というわけで、人文研へ赴いた。
目的は『清塩法志』のコピー。先日から進めている四庫全書所収の地方志に記載された塩政史料と比較するためである。
以前にも書いたが、四庫全書の史料は、おおむね康煕末年から雍正年間頃、17世紀末から18世紀初め頃の情報を記載している。で、『清塩法志』は19世紀後半以降、清末の情報を記載している。
この両者の行塩数を比較し、大きな変化が見られないなら、清朝は清代中期以降の人口増加に伴う塩需要の増大に積極的な手を打たず、その分を私塩に委ねていたということになる。

そのことにどういう意味があるのかというと、清の財政構造は、需要に対して柔軟に供給を増やせるようにはなっていなかったということが言えるわけである。少なくとも財政の三割から五割程度を占める塩政においては。
安定期なら問題ないが、財政需要が増えてきたとき、それに対応できずに王朝が滅亡したのではないかというのが、立証しようとしている仮説である。
そしてそういう硬直した財政構造は、明と清という近世中国の王朝が共通して持つ性質ではないのかというのが、その先の話である。
まぁ、結論ありきで研究を進めているわけではないし、近世中国の財政が塩政だけで構成されているわけでもないので、先は長い。


まー、週末から今日にかけて、そのコピーで何か仕事をしたわけではないので、ダメな感じだねぇ。
ちなみに酒に溺れながら何をしていたのかというと、M&BとICと……加えて、裁断した図書をScansnapで読み込み、色々と。
Kindleは白黒しか読まないので、カラーやグレースケールだと表示できない。白紙部分の閾値を上げてグレーを落とし、文字部分のガウス値を上げて補正すれば上手く行きそうな気もするが、古い本だと白紙が黄変しているのでY値を落とすよう補正せねばなるまいのだろうが、Photoshopを持っていないのでそんなこと出来ないし(GIMPでできるかもしれないが)、基本的に文字が読めたらそれで良いので、白黒で良かろうと思う。

この結論にたどり着くまで、ずいぶん試行錯誤した。一般に600dpiが自炊業界の標準解像度だが、S1500の白黒だと1200dpiというものまで試せる。
で、試してみたのだが、あまり差はなかった。容量がでかくなった分、頁めくりが遅くなったので、かえって使い勝手が悪い。電子インクを使うKindleはレスポンスが遅いという宿命があるため、頁めくりの遅さはかなり都合が悪い。
結局、スーパーファインモードを使い、表紙部分(および巻頭に挿絵類があるならそこも)のみカラー(300dpi)で撮り、本文は白黒(600dpi)ということにした。量の少ないカラー頁ぐらいは600dpiでやっても良かったかもしれない。

で、そうして出来たPDFファイルにChainLPを当てて余白部分を切り落とす。これをやると頁のサイズがまちまちになるのだが、余白の分だけ頁が小さくなったことで、相対的にズームされて読みやすくなる。
もう少し細かく設定すれば均等な寸法でトリミングできるのだろうが、面倒なのでそこまで調べていない。

職場でリポジトリ作業を担当していることもあり、こういう作業と仕事とが頭の中で連動するようになってくる。主務担当の同僚も同じ事を言っていた。
まぁ、無駄にはならない経験だろう。もうしばらく色々と試してみたいところである。

2010年10月30日土曜日

神無月丗日

忙しい日々が続く。
なんか消耗しっぱなし。

夏頃から、

仕事が終わって帰宅

疲れているので、晩飯の時間まで待ってちゃんとした飯を作る気になれず

ベーコン+ジャガイモ+ザワークラウトの炒め物などでビールやワインを呷る

酔っぱらって睡眠

三時間後にアルコールが切れて起床

再活動後、三~五時頃に就寝

というライフサイクルが定着しかかっている。もちろん、夕方や夜まで用事がある日は別である。
これはこれで悪くないのだが、体力的にはともかく、気力的にはあまり回復しない気がする。
基本的に僕の睡眠時間は8時間がベストで、放っておくと、だいたい8時間ほど眠れば目が覚める。
この場合、3+5時間とかいう感じになるわけで、トータルでは問題ないはずだが、やはりどこかで無理があるらしい。
あるいは単純に、精神的活力が減退気味になっているのかも知れない。歳がどうとかもあるだろうけど、今年の夏は暑かったし、体力だけでなく気力も消耗していたのだろう。

このサイクルは、夕方という社会的には活動時間とされている時間帯に睡眠を貪るという弱点があるのだが、3時間の睡眠後にはそれなりに気力体力共に回復しているので、悪くないと言えば悪くない。まぁ、その代償が日中の気力不足と考えると、やはり常用すべきではないかも知れないが。


色々とあるのだが、とりあえず研究について。

残念なことに、予想通り今月中に四庫全書のデータを揃えることは出来なかった。
まぁ、あと『江南通志』だけなんだが。ただしこれはかなりデータ量が多いはずである。

で、それはまぁ予想の範疇だから良いとして、とりあえず先ほど、江西のデータについて検討を進めてみた。
検討材料となるデータのひとつは、『四庫全書』所載の雍正8年のデータ。だいたい18世紀初頭のものである。
もうひとつは、『清塩法志』所載の江西に関する行塩データ。『清塩法志』そのものは民国に入ってからの編纂物だが、これはおそらく光緒年間に編纂された『両淮塩法志』を流用しているはず(まだ未検証)なので、19世紀終わり頃のものである。

清の盛世からその衰退期に至るこの200年弱の間に、中国の人口は急増している。清中期の乾隆43年(1776)の江西の人口は、約1880万人だったのだが、ここから約80年後の咸豊元年(1851)には約2430万人になっている。
この間の人口増加率は約3.4‰で、明末から清初にかけての混乱期において江西ではほとんど人口が増加していなかったことと、江西は古くから開発が進み、人口増加を支える余剰の土地がなかったことを考えると、非常に順調な増加である。

さて、その順調に人口が増加した200年の間に、塩の供給量はどの程度増えたのか。
広東では増えなかった。江西では?
やはり増えていない。ふたつの史料から得られる塩引数は、ほぼ一致している。実際には雍正7年と乾隆4年に35000道ほど増額が行われている。これは全体の9%ほどであり、乾隆43年から咸豊元年までの3割近い人口増加を支えるにはとうてい足りない。
更に言うなれば、広東においても乾隆年間中期頃までは、江西と同じように行塩数の増加が行われていた。
となると、広東で得られた知見と同じように、江西においても清代中期頃には人口増加にともなう塩需要の増加を、官塩の供給によって満たす努力を放棄したものと考えられる。

広東と江西は、それぞれ両広塩運司と両淮塩運司という異なる塩務機関によって塩政を執行されており、所轄の異なる両地域で同じ現象が見られたと言うことは、他の地域でも同様の事例が見られる可能性は高い。
まぁ、現時点では可能性に過ぎないので、こうしたチェックを繰り返していくわけだが。

とまぁ、貴重な土曜日の午後のひととき(正味2時間ほど)で、こうしたデータの処理と、そのまとめ(いま書いている文章である)に費やしたわけだが、なかなか好感触である。いやまぁ、可能性が高いと踏んでこういう研究を始めたので、こうならないと涙目なのだが。
残る両淮塩運司行塩地についても同様のチェックを行い、さらに四川・長蘆・両浙・福建・雲南・河東といった塩運司で出ている塩法志から、基本古籍庫で入手可能なものはダウンロードして。本当は『清塩法志』が一番まとまっており使いやすいのだが、あれは人文研にある。出来る限り行かなくて済むように、手元で済む作業は済ませておきたい。
人文研が嫌いなのではなく、遺憾ながら有休なるものをもらえない身では、あそこに行くだけで相当な財政的負担になるためだ。
本当を言うと先週の月曜日や来週の金曜日などは、平日にもかかわらず学祭などの理由で休みである。ならばそうした日を使うべきなのだろうが、多分気力と体力が追いつかない。冒頭の問題に帰るわけである。やんぬるかな。

2010年9月18日土曜日

長月十八日

非常に困難なものであると予想された中国全土の塩政史関係データ入力だが、予想よりも好調である。

基本古籍庫のテキストデータは、200文字以内しかコピーできないという制約がある。
もちろんこれは悪用を防ぐためだが、使いにくいことには違いない。
が、それは我慢すればいい範疇の問題ではある。少なくとも手打ちで入力するよりは効率的だ。
で、文字位置調整のために改行部位には全角スペースを使っているのだが、これはExcelのデータ区切り機能を使い、スペースでデータを区切ってしまえばまとめてつぶせる。
これにより、例えば

成都縣行鹽陸引一千八百五十四張於簡州買鹽至本縣行銷  華陽縣行鹽陸引二千一百張於簡州買鹽至本縣行銷

という文字列は、

成都縣行鹽陸引一千八百五十四張於簡州買鹽至本縣行銷
華陽縣行鹽陸引二千一百張於簡州買鹽至本縣行銷


とふたつのセルに移しこむことができる。
さらに楽をしたいなら「鹽」と「於」などで切っても良いのだが、まぁそこまでせずとも各セルにほしいデータをコピペすればいいわけであり、その隣のセルに算用数字に置き換えた塩引数を入力するわけである。観数字を算用数字に置き換えることもできるだろうが、まぁそれもいい。
すると、

成都縣 陸引一千八百五十四張 1854
華陽縣 陸引二千一百張 2100


という感じになる。最終的にはこうして得られた数字を合計するわけである。

以上の作業は、ほとんどすべて四庫全書本のデータである。もう少しいろいろな時代の史料を欲しくもあるのだが、ある時代において網羅的に集められたデータというのは、建国当初を除けばなかなか得られないものである。四庫全書本のデータはおおむね雍正10年ごろのものなので、清中期ごろのデータとしては重宝するものになるだろう。

まぁ、やっぱり今月中で終わらせるのは無理だろうけど。

2010年9月15日水曜日

長月十五日

入力すべき各省志の塩政志からプリントアウトしてみたのだが、紙束の厚さに心が折れそうです。
とりあえず今月中とか無理だわ。
まぁ、何時かは終わると信じて……!(ご愛読ありがとうございました)



先日から、少し考えていることがある。
一応、歴史なんてものを研究していると、時代の変化というヤツにある程度の感覚を持つようになる。もしくは持つように心がけるようになる。

「今は変革期」とか「時代の変わり目にある」なんて、よく聞くセリフだが、実際の所、変わらない時代なんてありゃしないし、せいぜい80年ほどしか生きない人間にとっての変化に過ぎない、と僕なんかには思えてならないようなことも多い。

例えば、アメリカの金融危機なんかが良い例だ。
「100年に一度」なんて連呼していたものだが、ブラックサーズデーもブラックマンデーも無視ですか。第一次や第二次大戦の戦中・戦後の不況は無視ですか。
ブラックマンデーはともかく、それ以外については、もはや直接的な経験としては知らない人の方が多い。所詮は同時代人にとって衝撃なのであって、半世紀ほど、もしくは数世紀ほど後の視点から見てみれば、それほどの変化ではなかったことも多い。

ブローデルやウォーラーステインなどの提示した歴史の見方として、「長い歴史」という概念がある。文字通りの意味で、長期的な変化についての概念だ。
ブローデルは、個々の事件や変化について述べた「短期的変化」、数世代単位で刻まれる社会・経済的な変化について述べた「中期的変化」、地理的条件など簡単には変わらない「長期的変化(持続)」という三つの時代区分を用いて、地中海の歴史について述べた。
つまり、個々の変化を見ていただけでは、長期的な変化を見落とすことになりかねないというわけである。

で、この概念を援用して、時代区分を行うことが可能となる。
短期的には、これまで同様の事件についての歴史。ある特定の変化について述べる。
中期的区分については措くとして(必要かどうかはテーマに依るだろう)、長期的区分としては、「近代」とか「中世」とかが挙げられる。

中国史を研究する場合、古典的なマルクス史観に基づく時代区分や中国一国を強調する時代区分などが存在するが、どちらにしても難がある。これについて議論を行い出すときりがなく、実際、きりがなかったため、最近の研究者はこの問題についてほとんど触れることがない。僕も願い下げだ。
が、世界史レヴェルで歴史をみる場合、やはり時代の大きなくくりは必要だと思う。ウォーラーステインなんかは、「近代」という時代を、15世紀にヨーロッパで誕生したある世界システムが発達して、世界を包含していく過程として捉えている。
これについても異論はあるわけだが、僕としては、大筋として間違ってはいないと考える。
で、この「近代」という時代がいつまで続くのかという問題だが、彼はもうじき終わるのではないかと考えているようだ。

長らくこの点について考えるところがなかったのだが、最近になって同じように思うようになってきた。
「近代」という時代は様々な要素から構成されているのだが、あるひとつの側面から見るなら、特定地域への資本の集中と、それを原資として進められた工業化による富の拡大・集中の時代と見ることが許されるだろう。換言すれば、物質的価値の飽くなき増大が図られた時代ということである。
要するに、植民地から収奪してきた富を元手に工業化を進め、その製品を売りつけることで更に資本を増やしていくという過程である。
この考え方は、1960~80年頃まで適切だったと思う。つまりは植民地というものが、名実と共に地球上から消え去っていった時代までということである。
広義の植民地、つまり不等な関係で資源を収奪される側というのは、現在もある程度は残っているわけだが、かつてほど明瞭な形では存在しない。

さて、話を少し戻そう。工業化を進め、あるいは発達した金融業による資本そのものの集中・管理により、その地域が豊かになっていくというのが、近代における「豊かな」地域の特徴である。
この構造の根本は、工業化(モノカルチャーなど農業の近代化も含めて良いだろう)によって多量の商品を生産し、それを消費させるというものである。この過程で多量の資本が運用されるため、それを握る者は大きな力と富を得る。
では、モノとしての商品がひと通り充足され、これ以上のモノを必要としなくなった社会があるとすれば、どうだろうか。もちろん、消費財は必要だし、新製品もある程度は消費されるが、生存のための需要は大きくはない。それを大きく必要としないほど、社会的インフラが整備されている社会である。

要するに、今の日本だ。
他の先進国も多かれ少なかれそういう傾向にあるが、特に日本においては、生きるのにさほどの資本を必要としない。「健康的で文化的な最低限の」生活という概念は決して現実化しない空文ではあるが、他の社会と比較してみれば、かなり高いレヴェルで達成されていると言える。
まぁ、いつまでこの状況が続くのかは知らないが、数年や十数年で崩れるようなものでもなさそうである。
これとて日本以外の地域から富を収奪した結果ではあるのだが、かつてのような一方的な傾向は強くはない。日本という地域に集積された様々な形態の資本が生み出す価値により、富を手に入れていると考えて良いだろう。

かつてと異なり、日本など先進国でなくてもかなり豊かな生活を送れる可能性が高まりつつあると思う(ここでは貧富の問題を無視する。詳述しないが、歴史的に見れば相対的にはこの問題は弱くなっていると考えられるためだ)。となると、世界全てが、資本の飽くなき集中を目指した時代を終えられるのだろうか?

こうした構造が持続するには、ふたつの問題がある。

ひとつは環境問題。いうまでもなく、現在の経済は物質的価値を生み出すのに環境(天然資源を含む)を消費している。ゼロエミッションが近い将来に達成できそうにないこと、大航海時代のヨーロッパの如く世界を拡大するため宇宙に進出するには、いまだコストが嵩みすぎることから、これまでのように資本を増やしていくことは難しい。

もうひとつはシステムそのものの問題。近代化というもののもうひとつの見方は、技術革新による生産性の向上というものであると思う。
例えば、9人の農夫がひとりの都市生活者を支えていたとする。9人の農夫は、彼らが生産した価値から、自己の再生産(これには家族の扶養や彼の生活を守る行政・軍事機構への納税も含まれる)に必要な分を取り置き、残りを流通させる。流通過程(この過程で一定の価値が消費される)を経て都市へと物資は流れ、都市生活者の生存を賄う(この対価として彼もまた価値を生産し、提供する)わけである。
技術が発達し、農業生産性が上がると、8人の農夫がふたりの都市生活者を支えられることになる。
都市生活者は工業生産品や技術などを開発・生産し、それを提供する。都市生産者のアウトプットが増えれば増えるほど、全体としての価値は増えていくというわけである。
もうひとつ例を出そう。10人の工員が居たとする。機械を導入したことにより、8人で良くなった。2人は研究者なり金融事業者にでもなったとしよう。つまり工員よりも大きなアウトプットを出せる職である。機械の性能と導入規模が増えることにより、必要とされる工員の数は減り、より大きな価値を生み出す職に従事できる人間が増え、全体としての富は更に増えていく。

このモデルには欠陥がある。技術革新によりある業種に必要とされる人員が減ると、余剰人員はより生産価値の高い業務に就き得るということは、あくまで仮定である。適切な雇用の受け皿が存在しないと、失業することになる。つまりアウトプットはゼロになる。
となると、必ずしも生産性の向上を目指すという方向へのみ、指向されるとは限らない。生産性が低くとも、雇用の維持のため、あえて現状を維持するという選択肢も充分にあり得る。日本の農業なんかが良い例だろう。

また、上述したように、生存に必要な価値を高いレヴェルで充足してしまい、これ以上の価値への需要が高まらない場合も、生産性向上へのモチベーションが高まらない。生産性を向上させても需要がなければ意味がないからだ。

以上、長々と述べてきた考えが妥当だとするのなら、物質的価値の増大を目指してきた近代という時代が、終わりを迎えつつあるのかも知れない。
では、ポスト近代とはどういう時代か? こうなると歴史屋の守備範囲を超えるが、あえて臆測するなら、物質的価値以外の価値が高まる時代ということになるだろうか。
こう書くと、途端にうさんくさく感じられてしまう。宗教じみてくるからだろう。確かに宗教というのも非物質的価値のひとつだが、それに止まるものでもあるまい。広義の文化はほぼ全て該当するだろう。
そう言い切ってしまうと、今度はひと昔前のSFで描かれた理想郷みたいなことになってしまいそうだが、まぁそちらもあるまい。
環境・資源の問題はどのみち解決せねばならず、そうなると宇宙に出るしかなくなる。そのためには莫大な資本と更に先進的な技術が必要となる。こちらは近代的価値そのものであるため、これまで通りの枠組みが充分通用するわけである。

よって、その両者のバランスが取られることになるわけである──と書いていて思ったが、それって、結局従来とそれほど変わらないのではなかろうか? 剰余価値を文化と技術開発に投資し、それによって社会の安定と発達を促す……変わらんなぁ。
ま、宇宙に出られる/出なければならなくなるのは、もう少し先になるだろうからして、それまでは文化が相対的に重視される時代になるのだというあたりなら許されるだろう。
なんか、大航海時代を控えたルネサンス時代の到来を予測しているみたいな感じになってきたなぁ。時間をかけて、もう少し考えを整理していこう。

2010年9月11日土曜日

長月十一日

論文に限らないが、面倒な部分と面倒でない部分がある作業を片づけるときに、どこから手をつけるか。
食事の際に好きな料理から食べるか、もしくはケーキのイチゴから食べるか、人類永遠のネタである。

僕はというと、順序はあまり気にしない。というか、好き嫌いでソートしない。五十音なりなんなり、主観の入らない方法が好みである。食事の際はまた別だが。
そうはいっても、異なる種類の作業を、どちらから片づけるかなどという場合は、主観によって決める必要がある。コイントスで決めても良いんだが。

というわけで、明代と清代の、行塩地・塩引数・人口を調査しなければならなくなった現在、どこから手をつけるのか、決定する必要ができた。

で、一番楽そうだった人口について……論文に掲載されている推計値をExcelに入力するだけの簡単な作業です。未経験可。

改めて自分のデータフォルダを確認してみると、すでに入力してました。簡単な作業だけに。

仕方ないので、次に塩引数を入力することにする。いくつか出ている省志から塩政志をコピーし、そこから該当する数字を入力する。
かつてはクソ重い図書を借り出し、1枚10円のコピー費を払って、いちいちコピーを取っていたものである。また単純なデータの集積なので、無駄にページが多かったりする。
時代は進歩し、基本古籍庫から必要なデータをプリントアウトするだけで良くなった。コピペがベストなのだが、さすがにそこまで親切な設計ではないので、ワンクッション置くのは仕方がない。OCR処理は為されているので、コピペ自体は不可能ではないのだが、コピーできる分量に制限があるのだ。
というわけで、地名と数字をいちいち入力しているが、考えてみれば、一番面倒くさい地名ぐらいはコピペしたほうが早いかもしれない。まぁ、今使っている環境からは基本古籍庫にアクセスできないのだが。

現在、雍正刊本の河南通志の作業を進めているのだが、これを十三省分行わねばならないということになるのだろうか。広東と広西は作業の必要がないとしても、あと10省である。考えだけでも死ねそうだ。
頭の中を、エスカフローネのOPのサビが流れる。「のぉみそ、などいーらーなーい」
まぁ、いつか終わる作業である。史料も集めにゃならんし、今月いっぱいでこの仕事が終われば良しとしよう。