2010年7月29日木曜日

文月廿九日

さて、少し前の話。

ルーピーこと鳩山由紀夫前総理については、もう少し粘るかと思っていた。
政治家として、致命的に能力に欠け、しかも理想を持っているという「頭の悪い働き者」そのものの激(迷)走ぶりを見せてくれたわけである。
僕はポッポのことを、政治家として評価するに足りない能力の持ち主ではあるが、ひとつ政治屋として大事な適性を持っていると思っていた。
諦めの悪さというヤツで、これは逆境時の粘り腰の源となる。安倍や福田があっさりと(前者と後者とを同一視できないと思ってはいるが)辞めた理由として、二世議員の諦めの良さというのが指摘されることがあった。が、別に二世議員だから皆往生際が良いという訳でもなし、適性というか性格的なものなので、鳩山がそれを身につけていたところで変なことはない。

そう思っていたのだが、あっさり辞められた。
唯一政治家(屋)向けだと思っていた性格の見立てだが、僕の誤りだったようだ。単純に、痛覚に乏しかっただけということらしい。

で、菅直人が舞い戻ってきた。
鳩山ほどではないが、正直、余り評価していない人物である。
ちなみに政治家に詳しいわけでもない僕の評価は、ごく普通にこれまでの業績から判断するというだけのものである。
で、その評価基準からすると、彼はキャリアの割に大した仕事をしていない。
厚労相時代の薬害エイズ問題を暴いた時が、唯一大きな業績だと思う。アレは確かに立派な業績ではあるが、何かを生み出した故の成果ではなく、ぶっ壊したことによって得られた成果であろう。
別にそれが悪いというわけではないのだが、今求められている能力ではないし、第一、トップに立つ者がそれだけではダメだろうと思う。
壊し屋というと小泉純一郎を思い出すが、アレとも違う気がする。あちらはもっとゴールや原則が分かりやすかった。自己のヴィジョンを発するのが上手いということになるだろうか。
菅が下手なのかどうかは分からないが、現状、上手く伝えられていないことは確かだろう。
というか、このあたり上手い人なら、お遍路を自己アピールの場に使うか、最低でも終わらせると思うぞ。

というわけで、あまり高くは評価していなかった。ダメだとも思っていないので、お手並み拝見というところ。
結果、参院選は大敗したが、まぁこちらは予想通りであろう。予想以上でもあったかも知れないが。

どのみち、参院選は決定的な戦場ではない。もちろんねじれ国会の中で国政を停滞させることにもなるだろうが、このあたりは時間をかけて自民党との間で合意を形成していくべきであろう。たしか合衆国も、国家の原則的な問題については争点としないという合意を作ったのは、第二次大戦後頃のはずだったような。
僕としては、対外的な問題や緊急問題なんかはそうした合意の対象とすべきだが、それ以外は多少の時間がかかることはやむを得ないと思っている。

開票作業時、ニコニコの生放送を観ていたのだが、堀江がみんなの党を強く推していた。
彼も主張していたが、みんなの党は小さい政治を(比較的)明確に指向する政党で、彼やひろゆきのような起業家タイプの人間には非常に親和性が高い。
ちなみに、貧乏生活をしている割には、僕のみんなの党に対する親和性も高い。経済を指向して、原則を重視するとなると、こうなるわけだ。

僕にしても上手い考えは浮かばないが、小さい政治による経済の活性化は、日本にとっても有効であろうと思う。アメリカ流の新自由主義にまで行く必要はない。金融不況で明らかなとおり、市場自由主義を推し進めすぎても、破綻の際のダメージが大きくなるだけだし、根本的に不健全だ。
不健全であること自体は悪いとは思わない。ヴェンチャーを次々と走らせるには、どこかゲーム感覚であることも必要だろうし、リスクを畏れないこういう心の有り様を「冒険心」というのであれば、必須のものとすら言える。
まぁ、程度問題というわけである。

これからの時代において、日本を経済的に発展させることは、おそらくかなり難しい。
19世紀から20世紀中盤にかけてまでの時代、製造業が富の源泉だった。
第二次大戦後、富の源泉は金融の方にシフトした。まぁ、ロンドンとニューヨークの話になると長くなるので措く。あまり詳しくもないし。
いずれにせよ、日本が金融を利用してさらなる経済的成功を収めることは、ほとんど不可能であると思う。ちなみにここで言う成功のレヴェルは、ロンドンとニューヨーク(あと上海も)を蹴り落とすという程度。金融の世界は、勝者のイスが非常に少ないためだ。

これまで日本の経済を支えてきた製造業は、今後も柱ではあり続けるだろうが、最先端の製造技術を維持するにはかなりの労力が必要であり、最先端以外の製造業は、日本よりも生産コストの低い地域へと移転していくわけだから、トータルとしての富の量は、良くて現状維持、普通に考えれば減ることになるだろう。
つまり、少数のエリートから成るR&Dセクションと、多数の非エリートから成る一般製造セクションとに分かれていたものが、後者が海外に移転してしまうということ。
もちろん、非エリート(大半が中小企業であろう)の持つ技術力云々は軽視できないが、軽視できない技術を持った企業ばかりではないし、そうした技術を持っていたとしても、それが必ずしも価値の高いものであるとは限らない。
単価の安い無地のタオルを生産するのに高い能力を持っていても、それによるアドヴァンテージは、中国やヴェトナムで製造されるタオルが持つ価格競争力を覆すものではあるまい、ということだ。

政治に話を戻すとして、政治の側から、こうした経済の発達を促すことは難しいと思う。
新技術や新しい形態のビジネスを生み出す能力は、官僚制度や政治主導の中からは難しい。というか、ほとんど無理だろう。リスクだらけの世界なのだから。
すると、市場で育んでもらうしかない。が、そのためには市場への関与を減らす小さい政治になってもらう必要がある。

自分の考えをまとめまとめ書いているので、どうしても散漫になるし、これで正しいのかどうかも分からないが、とりあえず僕の考えは以上の通りである。
以下はもう少し大きな流れから展望したもの。

仮に小さい政治路線を進めたとして、その場合の問題点は、市場全能主義へ陥らないように監視する必要性があることと、そもそも小さい政治によるメリットを、覇権国家でもない日本がどれだけ受け取れるだろうかという疑問である。
前者は当然として、後者は説明が難しい。
世界システム環境下において、中心と周辺という構造があるというのが近代という時代の特徴であると思う。ちなみにこの関係はかなりの多様性を持つので、単純な従属論だけでは説明不足となるのだが、このあたりについては僕も勉強中である。
さて、敢えて単純な従属論モデルを用いて説明すると、中心が周辺のリソースを一方的に吸収するというのがモデルの骨子になるが、この中で成功するには、中心グループに入り、周辺を持つ必要があるということになる。中心を帝国、周辺を植民地と考えれば分かりやすい。
このモデルが通用したのは、どれだけ頑張っても60年代まで。現代においては通用しない。

それでも、情報が集まり、革新が行われる「中央部」と、その成果が適用される「それ以外の地域」という構造は、今でも使えると思う。「中央部」を「新技術を産みだし、さらにそれにより新商品を生み出す地域」とし、「それ以外の地域」を「商品の市場」と考えればいい。
中央部に何がどこまで含まれるのか、いまいち不明瞭である。かつてなら、「アメリカ」とか「中国」とか国名を挙げて説明できたのだが、今、そしてこれからは国家の要素が弱くなっていく。「地域」とか「企業」なんかが挙がるようになると、議論の出発点である「日本の経済を発展させる」という部分が崩れ出す。

あるいはそれで正解なのかも知れない。小さい政治路線を徹底的に進めた形を想像すれば分かる。
例えばその解のひとつは、「勝ち組企業に所属する」。日本に住むのかロンドンに住むのかは問われない。イノヴェーションはその企業が行い、富が集中するのもその企業である。その企業の構成員以外は、消費者としての立場しか与えられない。
また別の解として、所属する組織(国家や企業など)も限定されないというものになる。主体となるのは個人だが、その個人はネットワークの中を頻繁に転身する。

どちらもアメリカで行われ、そして金融危機の時に信頼性を大きく損なった解である。
してみると、そうして企業や個人を国家の枠組みである程度管理することが必要になるわけだ。
しかし、これを行う必要があるのはアメリカのような、勝ち組企業・個人を集めている国であり、日本はまずその場に立つための努力をしなければならないわけで……。

循環してきた。まだ考えが煮詰まっていない証拠である。
だいたい、僕程度があっさりと論理的蓋然性の高い解を導き出せるとしたのなら、もっと前に外の誰かがやっているはずなのだ。
というわけで、グダグダのまま終わる。

2010年7月27日火曜日

文月廿七日

『実録類纂』の入力が終わった。
所要時間は二週間ほどだっただろうか? ずっとこの作業ばかりしていたような気がするが、案外短いと言えば短かった。

今度はこのデータをExcel(というか、その手の表計算ソフト)に移して、簡単な要約を作る。サマリーというほど立派なものではなく、どちらかというとインデックス的な、単語数個から成る簡単なもの。

これが完成すると、次にどこの地域のどのような史料を集めればいいか、だいたい分かるようになる。
実際には、史料の入力作業の段階でだいたい見えている。

つまり、集める必要があるのは、行塩地の争奪戦が行われた地域の地方志である。
明代の場合、概ね、両広(正確には広東・海北)の江西南部及び湖広南部と、河東の河南南部についてのものである。特に南陽府と汝寧府が焦点となるらしい。
以前書いた論文で前者については片が付いているので、後者について集めればいいということになる。
まぁ、関係する官僚の文集なんかも調べるべきだが、まだ先で良い。多分、『皇明経世文編』あたりからの作業になるだろう。

次いで、やはり史料ファイルから、今度は塩引数および正塩に附帯する餘塩の数、塩引1道あたりで行塩可能な塩斤数などを調べる。
基本的に塩引数×1道あたり塩斤数で、総行塩塩斤数、つまり官塩供給量が求められるわけだが、清代と異なり、明代においては正引(官塩塩引)と餘引の関係は1:1ではない。両淮なんかはどちらかというと1:1に近いが、広東なんかは1:6なんてこともある。よって、この割合を把握しておかないと、塩引数を正確に求めることが出来ないのだ。
面倒くさそうだが、以前にもやった作業だし、実録に加えて各行塩地の塩法志を確認すれば良いはずだ。以前だったら人文研まで行って調べなければならなかったものだが、基本古籍庫導入のおかげで、かなりの部分を居ながらにして調べられる。さすがは3000万円。

ちなみにこのデータベース、現在使えるのは、僕と師匠と図書館のIT担当の端末と閲覧端末一台だけである。後2台はほとんど使われていないので、実質占有状態である。大学のメディア部門がさぼっているためだが、何というか酷い話だ。一応夏休み中には解消されるらしいが、かなり不確定でもあるらしい。

話が逸れたが、以上の作業を進めることで、各行塩地の官塩供給量を把握することが出来る。
次に行うのは、各行塩地の実人口を調べること。これが分かれば、人一人あたりの塩消費量はだいたい一定と仮定できるので(実は若干問題のある仮定なのだが、措くことにしている)、塩の需要量が分かる。
需要量から官塩供給量を引いた数字が、私塩、つまり密売によって賄われる供給分ということになる。
これを、幾つかの時期ごとに割り出すことで、明代における塩政の出来不出来が分かるというわけである。

面倒ではあるが、これまでにも行ってきた作業なので、頭はあまり使わない。まぁ、明代の人口数はかなり不明瞭な部分があるので、このあたりについてはまた考えなければならないかも知れないが。

以上の作業を進めれば、論文一本分になる。
次に清代についても同様の作業を行う。これでもう一本。
清代広東においては、中期頃を境に官塩供給量が固定化されるのだが、そうした現象が明清代において、一般に見られるかどうかが分かれば、その次に進める。

仮に明代も清代も、中期頃、というか塩政の安定期に、官塩供給量が固定化されるとしたら、それはなぜか。
これは塩政の枠を離れて、財政の問題になる。
清代中期広東の場合、政治的安定のため、財政的需要が減少し、また財政制度上、塩務官僚には定額以上の収入を上げるインセンティブが乏しかったことが原因であるという仮説を提唱した。
これが一般論として言えるのなら、王朝の衰退について、一定の説明を行うことが出来る。つまり、内外の要因(もちろん複合するのだが、主となるのは大抵外的要因である)から政治的安定を欠き、それを立て直すのに財政需要が拡大する王朝後期において、王朝収入の半数近くを占める塩務財政は硬直しているため、政治的・財政的混乱を増大させることなく収入を増大させることが不可能であり、そのため明も清も滅亡したというわけである。

えらく先の長い話だが、そもそも財政の問題をしたかったので、ここからが本丸になる。本丸にたどり着くまで、現在の論文を入れて3本、もし明代初期から中期についての検討を行う必要があるなら4本。早くて3年と言うところか。長いなぁ。何とか半分程度の時間に縮めたいところなのだが。

2010年7月25日日曜日

文月廿五日

昨日、夕方頃に夕立が降った。
ドカドカと雷が落ち、「おーすげー」とか、「夕方にひと雨来たから涼しくなるかな」などと言っていた。
ちなみに涼しくなるどころか、蒸発した水分でプチサウナ状態だった。クーラーの効いた図書館を出ると、まるで風呂場の扉を開けたかのように、むわっとした空気に飲み込まれてげんなりしたものである。

さて、帰宅して最初にすることは、PCの電源を入れることである。
次にすることは、クーラーの電源を入れることで、それから晩飯というか酒の肴を作る。
さすがに10時間座り続けていると、予想以上に疲れる。ゲームし続けて10時間というのならともかく、実際に作業しているかどうかは別として、閲覧カウンターで座っている場合、やれる内職は限定されるし、やはり気疲れするわけだ。

というわけで、普段なら自炊するわけだが、こういう日には総菜を買って、それで済ませる。
ま、コストパフォーマンスが悪いので、簡単なのは自分で作る。この日の場合、レバーともやしを炒め合わせたものと、鰹のタタキは自炊に含まれる。タタキを切るのが調理に相当するのかどうかは措くとして。あとはコロッケのような、安くてそれなりに食べた感の出るヤツ。

こういうのを肴にして、ビール呷ったり酎ハイ呷ったりしながら、ニコニコのランキングなんかを流したりするのが、こういう日の流れになるのだが、この日は違った。
PCは起動するのだが、ネットに繋がらない。
しばらく調べてみたところ、どうもルータ周りがおかしくなっている模様。こうなると手が出ないし、ネットに繋がらないのでは調べることも出来ないので、諦めて寝た。

翌日、つまり今日の昼頃に目を覚まし、NTTのサポセンに電話。
繋がらないかと思ったが、問題なく繋がった。事情を説明すると、メンテナンスを向かわせるとのこと。どうも、昨日の雷が原因らしいのだが、京都のあちこちで似たようなトラブルが起きているらしい。
雷で色々と吹っ飛ぶというのは、個人として経験するのは初めてだ。大学のサーバーが飛ぶというのは良くあるのだが。


仕方なく、史料の打ち込みやらEU3のオスマンプレーの続きやらをする。
オスマンは西欧化は割と早い時点で出来たのだが、西欧化の悪影響の除去に時間がかかって仕方がない。コイツばかりは優秀な国王が長生きするか、連続して出るかという運に左右されるので仕方ないのだが。
おかげで、ヨーロッパに打って出るタイミングを失ってしまい、まだ16世紀半ばというのにオーストリアが中欧を席巻している。
ヨーロッパ諸国と戦う場合、たいていの国が複数の同盟国を持っており、カスティーリアやフランスのような超大国が保証をかけていたり信仰の守護者だったりするので、なかなか手を出せない。
今回もそれで手を出しづらかったわけである。もっとも根本的な理由は、西欧化のため革新主義に傾きまくり、安定度が下がった場合(というか西欧化をすると最低レヴェルにまで下がる)、回復に致命的なほどの時間がかかりかねないということがあったためだ。国土を広げるのも安定度コストに響くので、そのことも戦争を回避した理由である。
まぁ、そうはいってもじっくり国力を高めていったところ、収入はトップとなり、まがりなりにも西欧化は進めているので、技術水準もキリスト教諸国にひけは取らない。
たまたまイタリア半島の2/3ほどを支配していたナポリが、どういう理由か外交的に孤立していたので(教皇に破門されたのだろうか?)、これ幸いと海から上陸した。イタリアはどこも美味しい土地ばかりなのだが、今回はCoTのある北部の方を戴く。
これを橋頭堡にして、時間をかけてイタリアを征服すれば、フランスと殴り合いが出来るやもしれん。貧乏な土地が多い中欧や東欧は後回しにして、豊かな西欧を狙いたいところ。


『実録類纂』の打ち込みも、そろそろ終わりが見えてきた。今週で片付くだろう。
次は地方志かなぁ。

2010年7月22日木曜日

文月廿二日

『類纂』に貼った付箋の数が減らないような気がする今日この頃。
いつかは終わると分かっているが、作業量の多さに心が折れそうである。
考えてみれば、かつて同じ作業をやったときには広東方面だけだったのだが、今回は全部だからなぁ。

気分転換にCat Shit Oneとかを観たりする。

【ニコニコ動画】Cat Shit One -THE ANIMATED SERIES-




話作りの基本的な手法はシェークスピアが完成させている、と、かつて原作者の小林源文が別の所で書いたのを読んだことがある。
つまるところ、応用していくかが、話を作るに当たっての腕の見せ所というわけだ。
似たようなことを言っている人は多いし、僕も、シェークスピア云々はともかくとして異論はない。

この作品も、ストーリーとしては陳腐なくらいありふれたものだ。ジョン・フォードが作ったといわれても驚かないぐらい。
それでも魅せる内容である。細かい部分を、丁寧に作り込んでいく。

書いていて思ったが、僕がやっているような人文科学の研究にも似たようなことが言えるかも知れない。
よく、細を穿ちすぎていると批判されるが、大なたを振るうのは、中国史を例に挙げれば内藤湖南や宮崎市定の時代に終わっており、今の人間はそれを踏まえて、今の技術を駆使して魅せる論文を書くのが正しい──のではないか、と思う。「魅せる」という表現が不適切なら「内容のある」とかでも良いが。

2010年7月21日水曜日

文月廿一日

連休も、黙々と史料の打ち込みを続けていた。
まぁ、EU3のオスマンプレイをやったり、らんだむダンジョンやったりしながらだが。

ざっと『明実録類纂』の塩政関係記事を眺めて、必要そうな記事のあるページには付箋を貼っておき、一通りチェックが終わってから入力するという段取りで、今はその入力の段階である。要するに、「史料を読む」段階を、僕の場合は「流し読み+付箋貼り」→「入力」→「日本語訳」という三段階に分けていることになる。

大学時代、当時の師匠が授業中に、「歴史学に才能は要らない」とか曰っておられた。この時には、単なる謙遜だろうと思っていたが、最近になって考えが変わってきた。
実際、作業の九割ほどは頭を使わない。ある程度漢文(もしくは外国語)に慣れれば、斜め読みが可能になる。特に日本人の場合、漢文の斜め読みはすぐに修得できる。
ちなみにここ数年ほどHOI2などで英文を読んできているが、いまだ斜め読みは難しい。こちらは単純に経験値不足なだけとも言えるが、斜め読みに必要な水準に達するまでの経験値は、どう考えても漢文に必要なそれよりも多いはずだ。

歴史学の研究を行うのに必要なのは、何よりも史料を読み込むという単純作業を行い続けられるだけの根気だろう。頭を使うのはその前後の僅かな部分でしかない。
まぁもちろん、根気とて才能(しかも僕には全く不足している)であろうし、史料の読み込みが行えても、何処かの部分で頭を使う必要はある。エジソンの言う、「天才は1%のひらめきと99%の汗」というヤツである。天才はある仕事の達成とでも読み替えておけばよい。
にしても、単調な作業をこつこつ続けることがどうしても必要になる。どこかの波紋使い同様、努力とか頑張るとかは僕が最も苦手とするジャンルではあるが、仕方のないところだ。
ちなみに、そうは言ってもやはり頭の良い人間というのはいるもので、1%のところを3%だか10%だかにしてしまったりすることもあるわけだが、ここでは措く。少なくとも僕のことではない。2%ぐらいにはしたいと思ってはいるのだが。

さて、そんな感じで史料を入力していると、だんだんと見えてくるものもある。
先日、僕なりの中国近世史塩政時代区分を行った。
簡単にまとめると、清代前期は不調、清代中期は順調、清代末期は破綻し、明代前期は不調、明代中期は途中まで順調、正徳年間頃から不調、短い回復期を挟んで、明代末期は破綻というものである。

明代と清代とでは、当然ながら事情が異なるので同一視は出来ない。しかし、不安定→安定→不安定→破綻という流れは、それほど変わらない。となると、ふたつの王朝の塩政について、ある程度一般化できるのではないだろうか。

両朝の大きな違いは、明代後期以降続いた多量の銀流入のため、経済の拡大は、明代は後期、清代は中期と異なる点にあろうからして、その点には留意しなければならない。

だが、王朝末期に財源に事欠き、同時に支出が増大して塩税需要が高まると、清代には塩税の増額、明代には、どうも餘塩引の乱発を行ったようだ。
明代についてはまだ調査不足なので、明末塩政について書かれた論文を当たらねばなるまい。あまり考えたくないが、それについて書いた論文がなければ、僕自身がやらねばならないかも知れないが。
いずれにせよ、明末のそれは需要を無視して塩引を乱発したものである。おかげで本来の塩引の消化が滞り、財政全体が更に困窮するという悪循環を迎えるわけだが、それはともかくとして、清末には塩税の税率増加、明末には塩引の発給数拡大という形で、それぞれの財政需要の拡大に応えようとしたわけである。

上で書いた明代塩政の時代区分についてだが、正徳年間あたりを境に前後期に分け、前期はさておき後期について、さらに正徳~嘉靖の混乱期、隆慶~万暦初期の安定期、万暦中期以降の混乱期と分ければ、清代のそれにかなり近づく。
まだ根拠に乏しいが、中国史全体において、正徳年間頃、つまり世界経済の枠内に中国が参入し、その一環として銀の流入が拡大した時期から、中国はヨーロッパ史で言うearly modern(近世と訳すべきだろうがいささか語弊も感じる)を迎えたのではないかという気がしている。
まずその概念自体が正しいのかという問題もあるが、それは措くとして、その内部にあっては近似した経済の流れがあり、その中ではやはり近似した塩政の流れが見られるのではなかろうか。
つまり、前期となる不安定な時期に、比較的需要に合致した塩の供給が行われ、塩制がひとまず完成して安定した中期を迎える。需要と供給が釣り合った時点で、塩制も安定、言い換えれば固定化・硬直化する。外的な要因により、王朝が不安定化して財政需要が再び高まっても、塩制の健全な改革は行われず、無理な形で塩税の増加が行われ、破綻する。ここで言う「無理な形」とは、需要を掘り起こして経済的に合理的な形で塩税を確保しないという意味。具体的には私塩を官塩に転換せず、官塩の税率増加(清末)、官塩の乱発(明末)ということである。

なお、塩制が硬直するのは、岩井茂樹のいう「原額主義」の考えを援用している。原額主義とは──あー、また岩井先生の本を読み直して整理し直すつもりだが、中国近世~近代財政において普遍的に見られる財政原則で、財政制度が硬直化しやすく、状況に即した柔軟な運用が困難になりがちな
傾向を見せるものであると理解しておく。

さてさて、こうして整理してきたわけだが、以上を踏まえて、今後やるべき方向を考える。
まず、これまで通りに各塩運司ごとの塩制の変遷を追い、官塩と私塩の需給について調べる。これは、これまで広東について行ってきた作業の拡大版に過ぎない。
次に、明代初期から中期、正徳以前の塩政について、問題はなかったか改めて検討する。史料が少ないが、多分問題は少なかったのではないかと思っている。これは、明代塩政史を通観する上で必要な作業であるし、特に上述した時代区分の問題を検討する上での基本作業となる。
みっつめに、万暦中期以降の塩政破綻について調べる。先行研究があればいいなぁと思う。

散漫な文章だが、まぁこうやって整理していかないと、いつまで経っても散漫なままなので。

2010年7月17日土曜日

文月十七日

まぁ、いつものことだが五時を越えるとだるくなる。
勤務時間の合計よりも、休みなしで3時間以上を勤務すると、能率が悪くなる。いかにその内容が、座って本を読んでいるだけであるとしてもだ。

座って窓口業務を続けながら、『明実録類纂』から必要な記事をピックアップしていたものを、さらに必要な部位のみ打ち込み、史料集を作る。
以前、明代広東の塩政について研究していたときに行った作業を、今度は中国全体に対して行うわけである。難しくはないのだが、面倒臭い。量が多いので当然である。

が、作業前に思っていたほど困難な作業でもないようだ。拾い集めるべき史料は、塩引数の改定と、行塩地問題についてのそれである。
ちなみに塩引数については、この時期には塩引数そのものではなく、正塩に付帯して販売することが認められる余塩の数が中心となる。
これと塩引1道あたりで販売可能な塩斤数。
以上から販売される官塩の量が判明するというわけである。

行塩地については、市場圏の人口を割り出す時に用いる。
幸いにして、明代において行塩地の争奪戦を行った地域はあまり多くはない。広東についてはすでに検討済みなので、残るは河南あたりが中心となる(はずである)。
これについては、実録のチェック作業が終わったのちに、当該地域の地方志をチェックすることで、史料を増やす。その地域で任を務めたことのある地方官が全集を残すほど大物だった場合などは、そうした全集もチェックの対象となる。今のところそれほど大物は見えていないので、今後もそうであることを願いたいものである。

ちなみに広東をやった時には王守仁、一般的には王陽明で有名な人物が関係者だった。この人は陽明学の創始者として知られているが、この時期には地方官でもあった。ただし木端役人ではなく、巡撫である。それも後の総督などのような広域調整官のようなものではなく、頻発する叛乱を鎮圧するための特任将軍のような役割だった。
一般に、哲学にかぶれた将軍や政治家ってのにはロクなのがいないというのが僕の偏見だが、特に陽明学にかぶれるとひどいことになる。知行合一というわけだが、そういう理想(妄想)は頭の中だけにしてくれというのを実際にやってくれる。すごいのだが、迷惑でもある。大塩平八郎とか。
もちろん、能力と理想がかみ合えば、素晴らしいことになる(歴史上、ほとんどないことだが)。王守仁はその数少ない例である。というか、人物について知識に乏しい僕からすると、彼ぐらいのものではなかろうかとも思えたりもする。
明代中期の軍人としては、彼が随一ではないかな。政治家としてなら他にも色々いるけど。

閑話休題。上述のごとく集めた史料を基に、こうして塩の需要と供給を明らかにする。
統計資料に不備があるので問題は出るはずだが、こうして明代の各時期における需給関係を明らかにすることで、清代広東で見られたような私塩を黙認する現象が、明代にも見られるかどうか。
ただし、清代においてのそれは、清代中期になって財政的需要が強まらず、徴収コストを投じてまで塩税を確保する必要性を感じなくなったため、というのが僕の考えだ。北虜南倭で財政的需要が強かった明代中期というか、正徳・嘉靖年間について、同じロジックが通じるとは思えない。

明代と清代とがそれぞれたどった政治的環境の変遷は、当然異なる。
清代については、
  • 入関から鄭氏政権降伏までの、政治的に不安定だった前期(順治~康煕前)、
  • 政治的には安定し、経済的繁栄を遂げた中期(康煕後~乾隆)
  • 財政的にほころびが見え始め、ヨーロッパ勢からの圧力や国内叛乱が生じだす後期(嘉慶~光緒前)
  • 政治的も財政的にも破綻し、再建を目指してあがきながら滅亡する末期(光緒後~宣統)

と時代区分できる。あくまで僕の考えている区分だが、一般的にもそれほど反論はないだろう。

で、明代については、

  • 建国から永楽帝による簒奪までの、政治的に不安定だった前期(洪武~永楽前)
  • 永楽帝が政権を安定させてから、しばらく安定していた中期(永楽後~弘治)
  • 北虜南倭の混乱期(正徳~嘉靖)
  • 隆慶和議から張居正が権勢をふるっていた万暦初期(隆慶~万暦前)
  • 万暦帝がやる気をなくし、滅亡へと向かう末期(万暦後~崇禎)

となる。

実際には、安定していたとされる中期も土木の変があるし、正徳から万暦にかけては細かく分けすぎという気もしないでもないが、まぁ当座の役には立つだろう。

塩政の観点からあらためて眺めてみると、明代と清代は、それなりに似てなくもない。が、清代中期には政治的安定のみならず経済的発展も遂げたのだが、明代中期についてはそれほどでもないように思える。

が、この点については定量的な分析は行っていない(明代経済史においても、あまり行われてはいない)ため、よくわからないところもある。が、通常、明代において経済的に発展を遂げたのは、後半にさしかかる万暦年間あたりのことであるとされている。

いろいろ理由はあると思うが、明代後期と清代中期には海外からの銀が大量に流れ込み、良性インフレを起こして好景気だったとされている。逆に清代後期は銀が流出し、不景気だったとされている(デフレだったのかどうかはわからない)。明代中期については、良くも悪くもないというイメージが強い。

では、そうした一般的な経済概況が塩政とどう関係したのか。このあたりを明らかにすることが、次の論文の主題になる……のではないかなぁ。

2010年7月16日金曜日

文月十六日

仕事中に何となくブラウザを眺めていたら、何となく作成してしまった。

職場からアップロードするのは、どうかと思う。



出先ではgoogle documentを使用することが多いので、リンクさせた方が便利かもしれない。

これまでhtmlで日誌というか月報というかをつけていたわけだが、こっちに一本化すべきだろうか。

ブログ自体にあまり関心がなかったので――というか、情報の発信という点にほとんど関心がなかったので、何となくhtmlで書いてきたが、別にどちらでも構わないと言えばその通り。

まぁ、html版は、いろいろと手を入れるべき部分が多かったので、これを機に乗り換えてしまうのも一案であろう。





現在読んでいるのは、



周達夫『中国の食文化』、創元社、1989.8

山本有道編『帝国の研究』、名古屋大学出版会、2003.11

杉本圭三郎訳注『平家物語』(二)、講談社学術文庫、1979.10