2010年7月17日土曜日

文月十七日

まぁ、いつものことだが五時を越えるとだるくなる。
勤務時間の合計よりも、休みなしで3時間以上を勤務すると、能率が悪くなる。いかにその内容が、座って本を読んでいるだけであるとしてもだ。

座って窓口業務を続けながら、『明実録類纂』から必要な記事をピックアップしていたものを、さらに必要な部位のみ打ち込み、史料集を作る。
以前、明代広東の塩政について研究していたときに行った作業を、今度は中国全体に対して行うわけである。難しくはないのだが、面倒臭い。量が多いので当然である。

が、作業前に思っていたほど困難な作業でもないようだ。拾い集めるべき史料は、塩引数の改定と、行塩地問題についてのそれである。
ちなみに塩引数については、この時期には塩引数そのものではなく、正塩に付帯して販売することが認められる余塩の数が中心となる。
これと塩引1道あたりで販売可能な塩斤数。
以上から販売される官塩の量が判明するというわけである。

行塩地については、市場圏の人口を割り出す時に用いる。
幸いにして、明代において行塩地の争奪戦を行った地域はあまり多くはない。広東についてはすでに検討済みなので、残るは河南あたりが中心となる(はずである)。
これについては、実録のチェック作業が終わったのちに、当該地域の地方志をチェックすることで、史料を増やす。その地域で任を務めたことのある地方官が全集を残すほど大物だった場合などは、そうした全集もチェックの対象となる。今のところそれほど大物は見えていないので、今後もそうであることを願いたいものである。

ちなみに広東をやった時には王守仁、一般的には王陽明で有名な人物が関係者だった。この人は陽明学の創始者として知られているが、この時期には地方官でもあった。ただし木端役人ではなく、巡撫である。それも後の総督などのような広域調整官のようなものではなく、頻発する叛乱を鎮圧するための特任将軍のような役割だった。
一般に、哲学にかぶれた将軍や政治家ってのにはロクなのがいないというのが僕の偏見だが、特に陽明学にかぶれるとひどいことになる。知行合一というわけだが、そういう理想(妄想)は頭の中だけにしてくれというのを実際にやってくれる。すごいのだが、迷惑でもある。大塩平八郎とか。
もちろん、能力と理想がかみ合えば、素晴らしいことになる(歴史上、ほとんどないことだが)。王守仁はその数少ない例である。というか、人物について知識に乏しい僕からすると、彼ぐらいのものではなかろうかとも思えたりもする。
明代中期の軍人としては、彼が随一ではないかな。政治家としてなら他にも色々いるけど。

閑話休題。上述のごとく集めた史料を基に、こうして塩の需要と供給を明らかにする。
統計資料に不備があるので問題は出るはずだが、こうして明代の各時期における需給関係を明らかにすることで、清代広東で見られたような私塩を黙認する現象が、明代にも見られるかどうか。
ただし、清代においてのそれは、清代中期になって財政的需要が強まらず、徴収コストを投じてまで塩税を確保する必要性を感じなくなったため、というのが僕の考えだ。北虜南倭で財政的需要が強かった明代中期というか、正徳・嘉靖年間について、同じロジックが通じるとは思えない。

明代と清代とがそれぞれたどった政治的環境の変遷は、当然異なる。
清代については、
  • 入関から鄭氏政権降伏までの、政治的に不安定だった前期(順治~康煕前)、
  • 政治的には安定し、経済的繁栄を遂げた中期(康煕後~乾隆)
  • 財政的にほころびが見え始め、ヨーロッパ勢からの圧力や国内叛乱が生じだす後期(嘉慶~光緒前)
  • 政治的も財政的にも破綻し、再建を目指してあがきながら滅亡する末期(光緒後~宣統)

と時代区分できる。あくまで僕の考えている区分だが、一般的にもそれほど反論はないだろう。

で、明代については、

  • 建国から永楽帝による簒奪までの、政治的に不安定だった前期(洪武~永楽前)
  • 永楽帝が政権を安定させてから、しばらく安定していた中期(永楽後~弘治)
  • 北虜南倭の混乱期(正徳~嘉靖)
  • 隆慶和議から張居正が権勢をふるっていた万暦初期(隆慶~万暦前)
  • 万暦帝がやる気をなくし、滅亡へと向かう末期(万暦後~崇禎)

となる。

実際には、安定していたとされる中期も土木の変があるし、正徳から万暦にかけては細かく分けすぎという気もしないでもないが、まぁ当座の役には立つだろう。

塩政の観点からあらためて眺めてみると、明代と清代は、それなりに似てなくもない。が、清代中期には政治的安定のみならず経済的発展も遂げたのだが、明代中期についてはそれほどでもないように思える。

が、この点については定量的な分析は行っていない(明代経済史においても、あまり行われてはいない)ため、よくわからないところもある。が、通常、明代において経済的に発展を遂げたのは、後半にさしかかる万暦年間あたりのことであるとされている。

いろいろ理由はあると思うが、明代後期と清代中期には海外からの銀が大量に流れ込み、良性インフレを起こして好景気だったとされている。逆に清代後期は銀が流出し、不景気だったとされている(デフレだったのかどうかはわからない)。明代中期については、良くも悪くもないというイメージが強い。

では、そうした一般的な経済概況が塩政とどう関係したのか。このあたりを明らかにすることが、次の論文の主題になる……のではないかなぁ。

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