2011年2月15日火曜日

如月十五日 ダブルフィードしがちな紙

数か月にわたり自炊を行ってきた結果、ある程度知恵がついてきた。
ダブルフィードを起こしやすい紙は、薄い紙、そしてざらついた紙など。天辺がぐしゃっとなっているのもダメ。
ちなみにこの条件をすべて満たすのは、中国の90年代以前の本。やはり安い紙を使っているだけのことはある。近年出版の本は、比較的良質の紙を使っていることが多いのだが。
こういう紙の本であっても、上手くいくときは上手くいくのだが、ダメなときにはどうにもならない。
仕方ないので、一枚ずつフィーダに送ることになる。これは面倒くさいし、また時間ももったいない。とはいえ、ほかに手段がないとあっては仕方もない。
中国の本でスキャニング対象としているのは、中華書局の『明史』と『宋史』である。これはいわゆる正史シリーズのやつだが、僕が持っているのはこの二種だけである。実際のところ、正史を見る必要がある場合、中央研究院を使う場合が多いので、持っていてもあまり役に立っていない。そのくせ、それぞれ28冊と40冊という大容量なので、場所だけは喰う。研究書や資料を裁断するのはあまり気が進まないのだが、こいつらは例外となったわけである。

他にも、コミックなんかも一部の奴は裁断してしまってもいいかもしれない。文庫本タイプの奴とか。
まぁ、まだまだ部屋は片付いていないので、今しばらくスキャニング生活が続く予定である。こればかりやっていると、他の仕事に手が回らないので、しばらくサボるというのもいいかもしれないが。

2011年2月4日金曜日

如月四日 方針転換

少し、研究が行き詰まっていたことから、方針を変えることにする。
とはいっても、それほど変化があるわけでもないが。

まず、これまで行ってきた作業は、各省の府県に対する行塩数を列記し、清代中期のそれと清代後期のそれとを並べ、塩引発給数の増減を比較することで、人口の増大に対する官塩供給量の対応がなされているか否かを明らかにするという方針に基づき、行われてきた。
だが、これを進めていると、うまく行く地域とうまく行かない地域とがあることが分かってきた。
というのも、大まかな部分では調べがつくのだが、細かい部分で表から漏れている地名があったり、よくわからない理由で数字が変わっていたりするわけである。
おそらくは、精査すればそれぞれの問題点についても解消できるのだろうが、中国全土に対してそこまで手間暇をかけていられない。
かといって、都合のいい部分だけを抜き出して、こちらの結論に結び付けることは、それがおそらくは正しい結論を示しているのであろうとしても、許されることではない。研究は過程が大事なのだ。

というわけで、別のアプローチを持ってきた。
今度は、各行塩地の塩引数の増減を調べることにした。以前、清代初期の両広塩政について行った際に用いた手法である。
これも、細かい部分は史料の不整合や漏れがあったり、あるいはこちらの誤解が生じたりして、なかなかすっぽりとはまらない。
行塩数が変化するたびに全体の塩引数についても列記してくれればありがたいのだが、そこまで親切ではないのである。
が、少なくとも清代初期に塩政を開始した時の塩引数(原額)と、それぞれの史料が編纂された当時の塩引数は、当然ながら記されている。史料によっては、ある特定の時期についても記載している。
そういう数値をマイルストーンとすれば、細かい部分で不整合があっても、大体のめどはつく。
それに、こちらが行うことは、数字合わせのパズルではなく、どの時期にどの程度の頻度で、そして分かるのであればどういう理由で行塩数が変化したのかということである。
今のところ、長蘆と両淮についてその作業を行ったが、どちらもかつて行った両広と同じ傾向を示している。つまり、雍正から乾隆初年ごろまではある程度の頻度で塩引は増減していたが、清代中期ごろからは、ほとんど塩引数は変化していないのである。
あと、両浙・福建・四川と、山東・雲南・河東あたりを行えば片がつく。後三者については、いま史料がないのだが、まぁあまり重要でもないので、後回しにしても良いだろう。

この作業をよすがとして、省単位の調査とを比較すれば、おそらく楽にできる。省についてはすべてを調べる必要もあるまい。

そうすれば、次の作業となる。なぜ清代中期に塩引数を人口の増加に対応させなかったのか。
推論としては、財務及び塩務官僚にその動機がなかったため、ということになるが、直接的な史料は存在するのだろうか。不在を証明するのは非常に難しいのだが、ある程度はチェックしておかねばなるまい。たぶん無いだろうけど。動機のないことをわざわざ文章化する人間はいないものなぁ。