2010年7月29日木曜日

文月廿九日

さて、少し前の話。

ルーピーこと鳩山由紀夫前総理については、もう少し粘るかと思っていた。
政治家として、致命的に能力に欠け、しかも理想を持っているという「頭の悪い働き者」そのものの激(迷)走ぶりを見せてくれたわけである。
僕はポッポのことを、政治家として評価するに足りない能力の持ち主ではあるが、ひとつ政治屋として大事な適性を持っていると思っていた。
諦めの悪さというヤツで、これは逆境時の粘り腰の源となる。安倍や福田があっさりと(前者と後者とを同一視できないと思ってはいるが)辞めた理由として、二世議員の諦めの良さというのが指摘されることがあった。が、別に二世議員だから皆往生際が良いという訳でもなし、適性というか性格的なものなので、鳩山がそれを身につけていたところで変なことはない。

そう思っていたのだが、あっさり辞められた。
唯一政治家(屋)向けだと思っていた性格の見立てだが、僕の誤りだったようだ。単純に、痛覚に乏しかっただけということらしい。

で、菅直人が舞い戻ってきた。
鳩山ほどではないが、正直、余り評価していない人物である。
ちなみに政治家に詳しいわけでもない僕の評価は、ごく普通にこれまでの業績から判断するというだけのものである。
で、その評価基準からすると、彼はキャリアの割に大した仕事をしていない。
厚労相時代の薬害エイズ問題を暴いた時が、唯一大きな業績だと思う。アレは確かに立派な業績ではあるが、何かを生み出した故の成果ではなく、ぶっ壊したことによって得られた成果であろう。
別にそれが悪いというわけではないのだが、今求められている能力ではないし、第一、トップに立つ者がそれだけではダメだろうと思う。
壊し屋というと小泉純一郎を思い出すが、アレとも違う気がする。あちらはもっとゴールや原則が分かりやすかった。自己のヴィジョンを発するのが上手いということになるだろうか。
菅が下手なのかどうかは分からないが、現状、上手く伝えられていないことは確かだろう。
というか、このあたり上手い人なら、お遍路を自己アピールの場に使うか、最低でも終わらせると思うぞ。

というわけで、あまり高くは評価していなかった。ダメだとも思っていないので、お手並み拝見というところ。
結果、参院選は大敗したが、まぁこちらは予想通りであろう。予想以上でもあったかも知れないが。

どのみち、参院選は決定的な戦場ではない。もちろんねじれ国会の中で国政を停滞させることにもなるだろうが、このあたりは時間をかけて自民党との間で合意を形成していくべきであろう。たしか合衆国も、国家の原則的な問題については争点としないという合意を作ったのは、第二次大戦後頃のはずだったような。
僕としては、対外的な問題や緊急問題なんかはそうした合意の対象とすべきだが、それ以外は多少の時間がかかることはやむを得ないと思っている。

開票作業時、ニコニコの生放送を観ていたのだが、堀江がみんなの党を強く推していた。
彼も主張していたが、みんなの党は小さい政治を(比較的)明確に指向する政党で、彼やひろゆきのような起業家タイプの人間には非常に親和性が高い。
ちなみに、貧乏生活をしている割には、僕のみんなの党に対する親和性も高い。経済を指向して、原則を重視するとなると、こうなるわけだ。

僕にしても上手い考えは浮かばないが、小さい政治による経済の活性化は、日本にとっても有効であろうと思う。アメリカ流の新自由主義にまで行く必要はない。金融不況で明らかなとおり、市場自由主義を推し進めすぎても、破綻の際のダメージが大きくなるだけだし、根本的に不健全だ。
不健全であること自体は悪いとは思わない。ヴェンチャーを次々と走らせるには、どこかゲーム感覚であることも必要だろうし、リスクを畏れないこういう心の有り様を「冒険心」というのであれば、必須のものとすら言える。
まぁ、程度問題というわけである。

これからの時代において、日本を経済的に発展させることは、おそらくかなり難しい。
19世紀から20世紀中盤にかけてまでの時代、製造業が富の源泉だった。
第二次大戦後、富の源泉は金融の方にシフトした。まぁ、ロンドンとニューヨークの話になると長くなるので措く。あまり詳しくもないし。
いずれにせよ、日本が金融を利用してさらなる経済的成功を収めることは、ほとんど不可能であると思う。ちなみにここで言う成功のレヴェルは、ロンドンとニューヨーク(あと上海も)を蹴り落とすという程度。金融の世界は、勝者のイスが非常に少ないためだ。

これまで日本の経済を支えてきた製造業は、今後も柱ではあり続けるだろうが、最先端の製造技術を維持するにはかなりの労力が必要であり、最先端以外の製造業は、日本よりも生産コストの低い地域へと移転していくわけだから、トータルとしての富の量は、良くて現状維持、普通に考えれば減ることになるだろう。
つまり、少数のエリートから成るR&Dセクションと、多数の非エリートから成る一般製造セクションとに分かれていたものが、後者が海外に移転してしまうということ。
もちろん、非エリート(大半が中小企業であろう)の持つ技術力云々は軽視できないが、軽視できない技術を持った企業ばかりではないし、そうした技術を持っていたとしても、それが必ずしも価値の高いものであるとは限らない。
単価の安い無地のタオルを生産するのに高い能力を持っていても、それによるアドヴァンテージは、中国やヴェトナムで製造されるタオルが持つ価格競争力を覆すものではあるまい、ということだ。

政治に話を戻すとして、政治の側から、こうした経済の発達を促すことは難しいと思う。
新技術や新しい形態のビジネスを生み出す能力は、官僚制度や政治主導の中からは難しい。というか、ほとんど無理だろう。リスクだらけの世界なのだから。
すると、市場で育んでもらうしかない。が、そのためには市場への関与を減らす小さい政治になってもらう必要がある。

自分の考えをまとめまとめ書いているので、どうしても散漫になるし、これで正しいのかどうかも分からないが、とりあえず僕の考えは以上の通りである。
以下はもう少し大きな流れから展望したもの。

仮に小さい政治路線を進めたとして、その場合の問題点は、市場全能主義へ陥らないように監視する必要性があることと、そもそも小さい政治によるメリットを、覇権国家でもない日本がどれだけ受け取れるだろうかという疑問である。
前者は当然として、後者は説明が難しい。
世界システム環境下において、中心と周辺という構造があるというのが近代という時代の特徴であると思う。ちなみにこの関係はかなりの多様性を持つので、単純な従属論だけでは説明不足となるのだが、このあたりについては僕も勉強中である。
さて、敢えて単純な従属論モデルを用いて説明すると、中心が周辺のリソースを一方的に吸収するというのがモデルの骨子になるが、この中で成功するには、中心グループに入り、周辺を持つ必要があるということになる。中心を帝国、周辺を植民地と考えれば分かりやすい。
このモデルが通用したのは、どれだけ頑張っても60年代まで。現代においては通用しない。

それでも、情報が集まり、革新が行われる「中央部」と、その成果が適用される「それ以外の地域」という構造は、今でも使えると思う。「中央部」を「新技術を産みだし、さらにそれにより新商品を生み出す地域」とし、「それ以外の地域」を「商品の市場」と考えればいい。
中央部に何がどこまで含まれるのか、いまいち不明瞭である。かつてなら、「アメリカ」とか「中国」とか国名を挙げて説明できたのだが、今、そしてこれからは国家の要素が弱くなっていく。「地域」とか「企業」なんかが挙がるようになると、議論の出発点である「日本の経済を発展させる」という部分が崩れ出す。

あるいはそれで正解なのかも知れない。小さい政治路線を徹底的に進めた形を想像すれば分かる。
例えばその解のひとつは、「勝ち組企業に所属する」。日本に住むのかロンドンに住むのかは問われない。イノヴェーションはその企業が行い、富が集中するのもその企業である。その企業の構成員以外は、消費者としての立場しか与えられない。
また別の解として、所属する組織(国家や企業など)も限定されないというものになる。主体となるのは個人だが、その個人はネットワークの中を頻繁に転身する。

どちらもアメリカで行われ、そして金融危機の時に信頼性を大きく損なった解である。
してみると、そうして企業や個人を国家の枠組みである程度管理することが必要になるわけだ。
しかし、これを行う必要があるのはアメリカのような、勝ち組企業・個人を集めている国であり、日本はまずその場に立つための努力をしなければならないわけで……。

循環してきた。まだ考えが煮詰まっていない証拠である。
だいたい、僕程度があっさりと論理的蓋然性の高い解を導き出せるとしたのなら、もっと前に外の誰かがやっているはずなのだ。
というわけで、グダグダのまま終わる。

0 件のコメント:

コメントを投稿