2010年7月27日火曜日

文月廿七日

『実録類纂』の入力が終わった。
所要時間は二週間ほどだっただろうか? ずっとこの作業ばかりしていたような気がするが、案外短いと言えば短かった。

今度はこのデータをExcel(というか、その手の表計算ソフト)に移して、簡単な要約を作る。サマリーというほど立派なものではなく、どちらかというとインデックス的な、単語数個から成る簡単なもの。

これが完成すると、次にどこの地域のどのような史料を集めればいいか、だいたい分かるようになる。
実際には、史料の入力作業の段階でだいたい見えている。

つまり、集める必要があるのは、行塩地の争奪戦が行われた地域の地方志である。
明代の場合、概ね、両広(正確には広東・海北)の江西南部及び湖広南部と、河東の河南南部についてのものである。特に南陽府と汝寧府が焦点となるらしい。
以前書いた論文で前者については片が付いているので、後者について集めればいいということになる。
まぁ、関係する官僚の文集なんかも調べるべきだが、まだ先で良い。多分、『皇明経世文編』あたりからの作業になるだろう。

次いで、やはり史料ファイルから、今度は塩引数および正塩に附帯する餘塩の数、塩引1道あたりで行塩可能な塩斤数などを調べる。
基本的に塩引数×1道あたり塩斤数で、総行塩塩斤数、つまり官塩供給量が求められるわけだが、清代と異なり、明代においては正引(官塩塩引)と餘引の関係は1:1ではない。両淮なんかはどちらかというと1:1に近いが、広東なんかは1:6なんてこともある。よって、この割合を把握しておかないと、塩引数を正確に求めることが出来ないのだ。
面倒くさそうだが、以前にもやった作業だし、実録に加えて各行塩地の塩法志を確認すれば良いはずだ。以前だったら人文研まで行って調べなければならなかったものだが、基本古籍庫導入のおかげで、かなりの部分を居ながらにして調べられる。さすがは3000万円。

ちなみにこのデータベース、現在使えるのは、僕と師匠と図書館のIT担当の端末と閲覧端末一台だけである。後2台はほとんど使われていないので、実質占有状態である。大学のメディア部門がさぼっているためだが、何というか酷い話だ。一応夏休み中には解消されるらしいが、かなり不確定でもあるらしい。

話が逸れたが、以上の作業を進めることで、各行塩地の官塩供給量を把握することが出来る。
次に行うのは、各行塩地の実人口を調べること。これが分かれば、人一人あたりの塩消費量はだいたい一定と仮定できるので(実は若干問題のある仮定なのだが、措くことにしている)、塩の需要量が分かる。
需要量から官塩供給量を引いた数字が、私塩、つまり密売によって賄われる供給分ということになる。
これを、幾つかの時期ごとに割り出すことで、明代における塩政の出来不出来が分かるというわけである。

面倒ではあるが、これまでにも行ってきた作業なので、頭はあまり使わない。まぁ、明代の人口数はかなり不明瞭な部分があるので、このあたりについてはまた考えなければならないかも知れないが。

以上の作業を進めれば、論文一本分になる。
次に清代についても同様の作業を行う。これでもう一本。
清代広東においては、中期頃を境に官塩供給量が固定化されるのだが、そうした現象が明清代において、一般に見られるかどうかが分かれば、その次に進める。

仮に明代も清代も、中期頃、というか塩政の安定期に、官塩供給量が固定化されるとしたら、それはなぜか。
これは塩政の枠を離れて、財政の問題になる。
清代中期広東の場合、政治的安定のため、財政的需要が減少し、また財政制度上、塩務官僚には定額以上の収入を上げるインセンティブが乏しかったことが原因であるという仮説を提唱した。
これが一般論として言えるのなら、王朝の衰退について、一定の説明を行うことが出来る。つまり、内外の要因(もちろん複合するのだが、主となるのは大抵外的要因である)から政治的安定を欠き、それを立て直すのに財政需要が拡大する王朝後期において、王朝収入の半数近くを占める塩務財政は硬直しているため、政治的・財政的混乱を増大させることなく収入を増大させることが不可能であり、そのため明も清も滅亡したというわけである。

えらく先の長い話だが、そもそも財政の問題をしたかったので、ここからが本丸になる。本丸にたどり着くまで、現在の論文を入れて3本、もし明代初期から中期についての検討を行う必要があるなら4本。早くて3年と言うところか。長いなぁ。何とか半分程度の時間に縮めたいところなのだが。

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