2010年12月27日月曜日

師走二十七日

忙しい忙しいと言いながら、GamersgateでVictoria2が半額セールをやっていたので、買ってきた。
当然英語版であり、何から何まで手探りになるわけだが、まぁそれは良い。
パラドの最近作の例に漏れず、EU3エンジンを用いており、僕のPCではそろそろキツイ。まぁ、あまり長時間ゲームをするのでなければ、話にならないというほどではない。

現在、1.2パッチなので、まだバランスが良くない。
ブラジルでやってみたのだが、20世紀に入ったあたりで叛乱祭になってしまう。

このゲームの売りは「近代化」に尽きるのだが、これは農民が工場へ吸い上げられる過程をも含んでいる。で、工員や技術者といった都市民は、自由化を求めるわけである。
つまり、保守的な農民が自由化していくことにより、権威主義的な政体とは合致しない思想を持つ国民が増えていくわけである。
また、自由主義思想の変化として社会主義思想が生まれる。貧乏なままの自由主義者は社会主義に染まるらしい。具体的には工員のことだろう。
社会主義者は穏健な間は自由主義者と大差ないのだが、急進的になっていくと不満を強める。ついでにここから共産主義が生まれる。こやつらは政権転覆を起こすことしか考えない。

というわけで、近代化プレイを進めていくと、ゲームの最後の方は社会主義者やコミー共ばかりになる。政体は権威主義のままなので、そりゃ暴動も起きるだろう。
理屈はよく分かるのだが、解決の道が見えないのが困る。いやまぁ、実際ロシアをはじめとする結構な数の国が解決できないまま滅んでいった訳なのだが。
社会主義者をあまり多く生まない方法ってあるのかな。

今日は一日休みだったので、中国でやってみた。
ゲーム当初の中国は近代化を迎えていない状態なのだが、このゲームでは必要技術を開発してさえしまえば近代化できる。1836年開始で50年代には近代化を達成した。史実で言えば同治年間ぐらいか。洋務運動要らんがな。あるいは、1836年から洋務運動を行ったと考えればいいか。ちなみに嘉慶年間である。
この時代は清の国内矛盾が加速していった時代なのだが、アヘン戦争を含めて、この手の問題はゲームには反映されていない。EU3エンジンシリーズに共通するモチーフなのだが、イヴェントを多用せずに、世界史を再現ではなく再構築するというスタイルを取っているので、どうもそのあたり甘くなる。
おかげで1860年代には列強になった。おかしくね?
マンパワーがものすごいし、独裁国家なので、有り余る税収を用いて必要な工場を建てまくるだけで、スコアの一種である工業点が爆発的に貯まるためである。
簡単な技術で造れ、かつ世界経済が必要とする商品を、傾斜配分政策(資本の集中投入)で作りまくり売りまくり……。何時の時代の話だ?

ただし、あまりに輸出依存の経済を作ってしまったので、1880年に差し掛かることになると、世界市場でだぶつくと一気に経済破綻を起こしかねないという無茶苦茶な状態になった。西太后あたりが、内需なんて知りませんわとか言っているのだろう。
で、国内がガタガタになって失業者が溢れかえると、20年早く義和団の乱が起きた。具体的には中国ほぼ全土で叛乱発生。
やってられるか。
余談ながら、技術開発能力を上げるための文化関係技術と国力造成のための産業開発技術しか開発していなかったので、戦争すればヴェトナム相手でも負ける。というか、アフリカのソコトに勝てなかった。
まぁ、国境を接する国とは仲良くしていれば、多数の陸軍部隊を要している限り、簡単には攻め込まれないので、さほど問題ない。もし戦争になったら、アヘン戦争や日清戦争を再現することは間違いないところである。

中国もだいたい分かったので、次は本命のプロイセンあたりで試してみようかな。


『清塩法志』の作業はとりあえず完了した。手持ちの資料で出来る範囲という意味である。
一部の行塩区の塩引数データや、ほとんどの行塩区における塩引一道あたりの塩斤数に関する情報については、まだコピーを取っていない。また人文研に行かないとなぁ。

現時点で、清代中期の地方志から得られた同時期の塩引数と、『清塩法志』から得られた清末の塩引数が、中国主要部について得られている。
次に行う作業は両者の比較である。以前の論文で調べた広東・広西や先日チェックした江西などでは、両者はほぼ一致する。
他の地域でも同じ結果が得られるのであれば、そして塩引一道あたりの塩斤数に大きな変動が見られないのであれば、清代中期から後期にかけての人口増大は、私塩によって賄われたのだと判断できる。
この時期の塩税収入についても調べなければならないが、両広の事例からすれば、かなり増えていることは間違いない。
つまりは、税収増の要求に対して、塩の供給増ではなく、税率の上昇で対応したわけであり、それが社会矛盾を増大させたのである。官塩が売れなくなるので、それを賄うためにも塩商人による私塩が激化したというわけである。

仮にそれが妥当であるとして、ここまでは広東についての研究の結論と同じである。
いやまぁ、多分ここまでで一本分の論文になりそうだが、本題はこの先になる。
明代はどうなのだろうか?
明代中期から後期にかけても同じ現象が見られたとするなら、これは中国近世史において、一般的な現象であると考えられる(宋代のことは、今は忘れることにする。理由は、僕は宋代について何の研究も行っていないこと、史料上の制限、そして明代後期から大量の銀が流入し、経済構造そのものが変化したと考えるためなのだが、まだ根拠を揃えて説明できない)。

近世中華帝国において、課税対象を財政需要に対して柔軟に拡大させることが出来なかったという僕の仮説は、もちろん塩政についての研究のみからでは立証不充分である。これをやるには財政そのものについての研究が必要となる。
これについては、岩井茂樹いう原額主義、つまり「経済の拡大に対応しない硬直的な正額収入と、社会の発展と国家機構の活動の拡大とにともなって増大する財政的必要とのあいだの不整合、およびこうした不整合を弥縫するための正額外財政の派生を必然的にともなう財政体系の特質を表現する名辞」(『中国近世財政史の研究』p.357)から、何らかの示唆を得られないかと考えている。僕の理解では、原額主義とは、国初(例外もあるが)において定められた正規の税収額(正額)が、硬直しがちであって財政の需給に対して柔軟に変化しにくく、そのため非正規の税収が拡大しがちであったという財政的傾向のことである。

原額主義の概念が対象としているものに、塩引というものが包摂されているのかどうかは、岩井先生に聞かないと分からないが、中国の財政はカネのみならず食糧も含まれていること、そして塩引はそれらと一定の関係を有している──塩引の「価格」は公定されていて、あまり変動しない──ことから、対象に含まれていると考えて良いだろう。
清末の両広塩政の事例から、塩引一道あたりの税収を増やすために税率を上げた時の内訳を見ると、課税細目そのものが増えていて、細目内の税率が変わったわけではないことが分かる。
つまり、清代中期には、塩引一道に対して「A」という課税細目が定められており、それに対して1両とかの税(塩課)定められているわけである。これが清末になると、「A」だけでなく「B」や「C」が附加されて塩税が高められていくことになる。この時、「A」の額そのものはあまり変わらない。
要するに、「A」が正額であり、「B」や「C」が非正規の附加税というわけである。非正規の附加税といっても、実際には塩価の中に繰り込まれているので、取引の際には塩税が増えたようにしか見えない。
ちなみにこの細目は清の最末期に統合されようとするが、実際に統合されたのは民国に入ってからのこととなる。明代の一条鞭法と似たような展開を見せたわけだ。
一条鞭法とはつまり、「A(正額)」・「B」・「C」というあった税目が「A’」に繰り込まれる現象を指す。しかし、清代になると「D」・「E」といった感じでさらに附加税が加わることになる。
民国初期に統合された塩税は、一条鞭法のようなさらなる附加税を課されたのだろうか? このあたり興味深い話だが、まだ調べていない。調べるかどうかも不明というか、もう民国以降には手を出したくなかったのだが、こうやって書いていくうちに興味をそそられるようになった。また折を見て調べてみることにしよう。

話を戻そう。塩政において原額主義が適用され得るのかという問題については、然りと思われる。根拠不足なので「考えられる」と断定できないのが残念だが、まぁ清末については、原額主義の概念から作られたモデルで説明できそうである。
問題は、「何故」という部分である。清代中期の両広塩政についての研究の中で、僕は塩務官僚にとって、硬直的な塩の課税額を柔軟に変動(というか増大)させるには、政治・経済的安定期であり財政的需要がなかったことから肯定的になる動機がなく、むしろ人事査定上のハードルが上がってしまうという否定的な要素が強かったためであると考えた。
官塩供給量を増やすには、私塩に対する競争力を確保するためコストを下げねばならず、かつ土地の有力者や塩商・末端の塩務官僚・胥吏などから構成される私塩流通システムを敵に回すという政治的リスクを冒さねばならない。
政治・経済的に安定していた清代中期ならともかく、その双方が混乱していた清代後期に、それを行えるだけの余裕はなかっただろう。
よって、塩制改革は行われなかったわけである……が、清代後期の塩制についてのみの話ならともかく、塩税制度全体について述べるには不充分だ。硬直的な塩税徴収システムが改革されなかった理由の説明にはなっても、なぜ硬直的なシステムが採用されていたのかという説明にはなっていない。

清代の塩制は、基本的に明代のそれをそのまま踏襲している。精緻化しただけともいえる。つまりは、硬直的な(逆に言えば、その枠の範囲であれば運用しやすい)システムもそのまま引き継いだわけである。
柔軟に塩税収入を増減できるシステムとなると、これは需給量についてそれなりに正確性の高い予想が出来ていないと、成立しない可能性がある。
年によって出来不出来のある穀物ほどではないが、塩の需給量はそれなりに変動する。
具体的には、人口に対して一定割合の需要があるわけだから、塩の需要は人口数に比例する。逆に言えば、塩の需要は人口数が分からなければ予測できない。
明や清の人口把握は、清代中期、康煕50年(1711)に盛世滋生人丁として人丁税を免除するまでは、非常に不正確なものだったとされている。人口台帳ではなく課税台帳だったため、皆まともに申告しなかったためだ。
となると、清代中期以前において、塩の需要量を把握することはほとんど不可能だったはず。そう考えると、硬直的な制度を採用するのもむべなるかな。
つまり、「量入制出」か「量出制入」かという昔ながらの財政論議になるわけである。ここでは「制入量出」だが、まぁ同じことだ。中国では唐代に両税法が採用され、「量入制出」から「量出制入」へと変わって以来、硬直的な(あるいは確実性の高い)財政原則が用いられてきた。
これは要するに、豊作不作に関わりなく、一定の租税を徴収して政府のフローを確保し、需要(例えば不作)に応じてそのフローから支出する仕組みである。中国のような中央集権国家では、こうした中央のフローが大きい方が、行政に都合が良い。というか、中央のフローが大きくなったから、中央集権が進んだと考えるべきか。

唐代・宋代の財政については何の勉強もしていないので、改めて調べてみる必要があるが、ここまで書き連ねてきたことから判断すれば、「昔から硬直的な(制入量出)財政原則があったので、塩制についても同じようにした」ということになる。
「制入量出」の財政原則があり、また清代中期になるまで人口動態を把握できるほどの行政能力がなかった(正確には清代中期に行政能力が高まったわけではなく、財政需要が低下したため人口把握を放棄した結果、かえって人口数の正確な把握が可能になっただけなのだが)ことから、塩税徴収システムは、他の徴税システムと同様、硬直的なものだった。清代後期に至るまでこれを改革する動因は働かず、また清代後期になると改革への動因は生じたが、改革を行うのに必要なコストを払えず、結果システムを改革せずに税収の増加を求め、システムを破綻させた──この推測が正しいとして、「清代」の部分を「明代」とか「元代」とか「宋代」としても通じるのであれば、これは両税法導入以降、一般的な財政構造だったと考えることが可能となる。

はてさて、つらつらと書いてきたことは正しいのだろうか。というか、定量的な実証が可能なのだろうか。
とりあえず清代と、出来れば明代については検討してみたい。明代後期からの銀の大量流入により、色々と変わったとは思うが、その次のことはそこまでの分析が終わってからだろう。

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