2010年12月4日土曜日

師走四日

先週、大学で学会が開かれた。
この時期、どこでもこの種のイヴェントが続くのだが、今回のは民衆運動についてがテーマ。科研費が来年春で切れるので、締めの会というわけである。
科研に参加していた研究者に、明清を専攻とする人間が多かったこともあり、割とそっち方向が濃い内容となった。
まぁ、主導していた先生が明代専攻だったことが大きいのではないかと思うが。もうひとりの主導役がウチの先生なのだが、こちらは魏晋南北朝の人。よってそちら方面のひとも結構多かった。
いろいろと下働きをさせられたのだが、まぁそれはそれで。ついでに発表そのものについてのレヴューもしない。来年春ぐらいにまとまった形で出版されることになっている。
以下は、発表を聞きながら思ったこと。

様々なテーマがあったのだが、そのうちの一つが、いわゆる唐宋変革の結果、何か変わったことがあったのだろうかというものだった。
変化として挙げられたものの一つに、史料の数がある。
明代以降は、史料数が非常に多い。それは今回でも、新規発見された史料についての発表があったことからも窺える。よって、潤沢な史料を整理し、そこから新たな知見を組み立てるという形になる。注意すべきは、都合のよい史料だけで論を構築しないように心掛けることであろう。
唐代以前は、史料数が極めて少ない。よって、特定の史料を様々な角度から解釈するというかたちになる。牽強付会に陥ることは、避けねばなるまいが。

宋代を専攻とする研究者が、宋代のうち北宋は唐代以前に、南宋は明清に近い性格を持っており、過渡期的な特徴を有すると発言していたことが印象深い。唐宋変革で何もかもが変わったわけではなく、宋代から明清にかけて、ゆっくりとした変化が続いていったというわけである。
時代区分についての発言があったわけではないが、僕としても、急な変化などというものはそうそうあることではないと思っていたので、重なるところが多い。

通史的な発表はふたつほどしかなかったのだが、いずれも中国民衆運動史を専攻する研究者の発表ではなかったことが印象に残った。民衆運動史全体を通観して、変ったものと変わらなかったものとして、どんなものがあるのか、という議論は少なかったように思う。この科研そのものがワークショップ的なものであり、そうした結論を導き出す場ではないというのはあるだろうが。

発表のひとつに、中国の大きな枠組みは古代の時点で完成しており、循環するのみで変わるところはなかったとする古い議論を紹介しているものがあった。
これは古典的な中国停滞論のひとつではないか(オリジナルをチェックしていないので確言はできないが)と思うが、戦後日本(おそらく中国も含めて)における中国史研究では、中国停滞論からの脱却という観点を強調しすぎるように思われる。

発表でもあったのだが、ある王朝の末期に、失政や天変に伴って民衆反乱(昔は農民反乱もしくは起義なんていった)が勃発し、その結果、王朝は交替する。この過程で土地が荒廃して人口は減少する。
新王朝においては、前代の官僚や王族などは残っておらず、行政はスリム化されている。
荒廃した土地への開発が進み、人口が増加する。また新規開発地への移住、開発も進む。
この過程で官僚などが増大し、民衆への負担が増大する。
社会矛盾も強まり、最終的には民衆反乱へと至る。

この模式化されたサイクルは、中国史上で起きた数多くの民衆反乱を説明できるほど一般的なものなのだろうか。
確か岸本美緒も顧炎武の歴史認識として書いていたと思うが(論文名は忘れた)、彼らは中国の歴史を循環的なものとして認識していたとある。循環を停滞ととらえるべきか否か、また循環するもの以外の変化、たとえば冒頭で挙げた唐宋変革で生じた変化は明清時代にまで至って深まっていったことなど、長期的な変化として、どのような整理が可能か。
僕の認識としては、量的変化と質的変化として整理される。わかりやすいサンプルを示すと、総GDPとひとりあたりGDPである。アンガス・マディソン(今年の4月24日に亡くなっていたそうだ)が採った手法である。
他にもあるだろう。これまで積み上げられてきた定性的分析に、人口や反乱数などといった数値資料を用いた定量的分析を組み合わせることはできないか。

ま、言うは易く行うは難い類の話ではあるが、個別事例の研究の深化と、数値情報の入手・整理が容易になった現代なら、不可能ではないと思う。

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