2010年9月15日水曜日

長月十五日

入力すべき各省志の塩政志からプリントアウトしてみたのだが、紙束の厚さに心が折れそうです。
とりあえず今月中とか無理だわ。
まぁ、何時かは終わると信じて……!(ご愛読ありがとうございました)



先日から、少し考えていることがある。
一応、歴史なんてものを研究していると、時代の変化というヤツにある程度の感覚を持つようになる。もしくは持つように心がけるようになる。

「今は変革期」とか「時代の変わり目にある」なんて、よく聞くセリフだが、実際の所、変わらない時代なんてありゃしないし、せいぜい80年ほどしか生きない人間にとっての変化に過ぎない、と僕なんかには思えてならないようなことも多い。

例えば、アメリカの金融危機なんかが良い例だ。
「100年に一度」なんて連呼していたものだが、ブラックサーズデーもブラックマンデーも無視ですか。第一次や第二次大戦の戦中・戦後の不況は無視ですか。
ブラックマンデーはともかく、それ以外については、もはや直接的な経験としては知らない人の方が多い。所詮は同時代人にとって衝撃なのであって、半世紀ほど、もしくは数世紀ほど後の視点から見てみれば、それほどの変化ではなかったことも多い。

ブローデルやウォーラーステインなどの提示した歴史の見方として、「長い歴史」という概念がある。文字通りの意味で、長期的な変化についての概念だ。
ブローデルは、個々の事件や変化について述べた「短期的変化」、数世代単位で刻まれる社会・経済的な変化について述べた「中期的変化」、地理的条件など簡単には変わらない「長期的変化(持続)」という三つの時代区分を用いて、地中海の歴史について述べた。
つまり、個々の変化を見ていただけでは、長期的な変化を見落とすことになりかねないというわけである。

で、この概念を援用して、時代区分を行うことが可能となる。
短期的には、これまで同様の事件についての歴史。ある特定の変化について述べる。
中期的区分については措くとして(必要かどうかはテーマに依るだろう)、長期的区分としては、「近代」とか「中世」とかが挙げられる。

中国史を研究する場合、古典的なマルクス史観に基づく時代区分や中国一国を強調する時代区分などが存在するが、どちらにしても難がある。これについて議論を行い出すときりがなく、実際、きりがなかったため、最近の研究者はこの問題についてほとんど触れることがない。僕も願い下げだ。
が、世界史レヴェルで歴史をみる場合、やはり時代の大きなくくりは必要だと思う。ウォーラーステインなんかは、「近代」という時代を、15世紀にヨーロッパで誕生したある世界システムが発達して、世界を包含していく過程として捉えている。
これについても異論はあるわけだが、僕としては、大筋として間違ってはいないと考える。
で、この「近代」という時代がいつまで続くのかという問題だが、彼はもうじき終わるのではないかと考えているようだ。

長らくこの点について考えるところがなかったのだが、最近になって同じように思うようになってきた。
「近代」という時代は様々な要素から構成されているのだが、あるひとつの側面から見るなら、特定地域への資本の集中と、それを原資として進められた工業化による富の拡大・集中の時代と見ることが許されるだろう。換言すれば、物質的価値の飽くなき増大が図られた時代ということである。
要するに、植民地から収奪してきた富を元手に工業化を進め、その製品を売りつけることで更に資本を増やしていくという過程である。
この考え方は、1960~80年頃まで適切だったと思う。つまりは植民地というものが、名実と共に地球上から消え去っていった時代までということである。
広義の植民地、つまり不等な関係で資源を収奪される側というのは、現在もある程度は残っているわけだが、かつてほど明瞭な形では存在しない。

さて、話を少し戻そう。工業化を進め、あるいは発達した金融業による資本そのものの集中・管理により、その地域が豊かになっていくというのが、近代における「豊かな」地域の特徴である。
この構造の根本は、工業化(モノカルチャーなど農業の近代化も含めて良いだろう)によって多量の商品を生産し、それを消費させるというものである。この過程で多量の資本が運用されるため、それを握る者は大きな力と富を得る。
では、モノとしての商品がひと通り充足され、これ以上のモノを必要としなくなった社会があるとすれば、どうだろうか。もちろん、消費財は必要だし、新製品もある程度は消費されるが、生存のための需要は大きくはない。それを大きく必要としないほど、社会的インフラが整備されている社会である。

要するに、今の日本だ。
他の先進国も多かれ少なかれそういう傾向にあるが、特に日本においては、生きるのにさほどの資本を必要としない。「健康的で文化的な最低限の」生活という概念は決して現実化しない空文ではあるが、他の社会と比較してみれば、かなり高いレヴェルで達成されていると言える。
まぁ、いつまでこの状況が続くのかは知らないが、数年や十数年で崩れるようなものでもなさそうである。
これとて日本以外の地域から富を収奪した結果ではあるのだが、かつてのような一方的な傾向は強くはない。日本という地域に集積された様々な形態の資本が生み出す価値により、富を手に入れていると考えて良いだろう。

かつてと異なり、日本など先進国でなくてもかなり豊かな生活を送れる可能性が高まりつつあると思う(ここでは貧富の問題を無視する。詳述しないが、歴史的に見れば相対的にはこの問題は弱くなっていると考えられるためだ)。となると、世界全てが、資本の飽くなき集中を目指した時代を終えられるのだろうか?

こうした構造が持続するには、ふたつの問題がある。

ひとつは環境問題。いうまでもなく、現在の経済は物質的価値を生み出すのに環境(天然資源を含む)を消費している。ゼロエミッションが近い将来に達成できそうにないこと、大航海時代のヨーロッパの如く世界を拡大するため宇宙に進出するには、いまだコストが嵩みすぎることから、これまでのように資本を増やしていくことは難しい。

もうひとつはシステムそのものの問題。近代化というもののもうひとつの見方は、技術革新による生産性の向上というものであると思う。
例えば、9人の農夫がひとりの都市生活者を支えていたとする。9人の農夫は、彼らが生産した価値から、自己の再生産(これには家族の扶養や彼の生活を守る行政・軍事機構への納税も含まれる)に必要な分を取り置き、残りを流通させる。流通過程(この過程で一定の価値が消費される)を経て都市へと物資は流れ、都市生活者の生存を賄う(この対価として彼もまた価値を生産し、提供する)わけである。
技術が発達し、農業生産性が上がると、8人の農夫がふたりの都市生活者を支えられることになる。
都市生活者は工業生産品や技術などを開発・生産し、それを提供する。都市生産者のアウトプットが増えれば増えるほど、全体としての価値は増えていくというわけである。
もうひとつ例を出そう。10人の工員が居たとする。機械を導入したことにより、8人で良くなった。2人は研究者なり金融事業者にでもなったとしよう。つまり工員よりも大きなアウトプットを出せる職である。機械の性能と導入規模が増えることにより、必要とされる工員の数は減り、より大きな価値を生み出す職に従事できる人間が増え、全体としての富は更に増えていく。

このモデルには欠陥がある。技術革新によりある業種に必要とされる人員が減ると、余剰人員はより生産価値の高い業務に就き得るということは、あくまで仮定である。適切な雇用の受け皿が存在しないと、失業することになる。つまりアウトプットはゼロになる。
となると、必ずしも生産性の向上を目指すという方向へのみ、指向されるとは限らない。生産性が低くとも、雇用の維持のため、あえて現状を維持するという選択肢も充分にあり得る。日本の農業なんかが良い例だろう。

また、上述したように、生存に必要な価値を高いレヴェルで充足してしまい、これ以上の価値への需要が高まらない場合も、生産性向上へのモチベーションが高まらない。生産性を向上させても需要がなければ意味がないからだ。

以上、長々と述べてきた考えが妥当だとするのなら、物質的価値の増大を目指してきた近代という時代が、終わりを迎えつつあるのかも知れない。
では、ポスト近代とはどういう時代か? こうなると歴史屋の守備範囲を超えるが、あえて臆測するなら、物質的価値以外の価値が高まる時代ということになるだろうか。
こう書くと、途端にうさんくさく感じられてしまう。宗教じみてくるからだろう。確かに宗教というのも非物質的価値のひとつだが、それに止まるものでもあるまい。広義の文化はほぼ全て該当するだろう。
そう言い切ってしまうと、今度はひと昔前のSFで描かれた理想郷みたいなことになってしまいそうだが、まぁそちらもあるまい。
環境・資源の問題はどのみち解決せねばならず、そうなると宇宙に出るしかなくなる。そのためには莫大な資本と更に先進的な技術が必要となる。こちらは近代的価値そのものであるため、これまで通りの枠組みが充分通用するわけである。

よって、その両者のバランスが取られることになるわけである──と書いていて思ったが、それって、結局従来とそれほど変わらないのではなかろうか? 剰余価値を文化と技術開発に投資し、それによって社会の安定と発達を促す……変わらんなぁ。
ま、宇宙に出られる/出なければならなくなるのは、もう少し先になるだろうからして、それまでは文化が相対的に重視される時代になるのだというあたりなら許されるだろう。
なんか、大航海時代を控えたルネサンス時代の到来を予測しているみたいな感じになってきたなぁ。時間をかけて、もう少し考えを整理していこう。

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