2011年4月24日日曜日

卯月廿四日 とりあえずの筋道

研究についてだが、小説とかでよくある「良い知らせと悪い知らせがひとつずつある」という状況。

良い知らせは、とりあえず終わりまでの筋道がついた。あるいは、ついたような気がするということ。
悪い知らせは、結論がありきたりすぎて面白くないということ。

とりあえず整理してみよう。


この研究の目的は、塩政の観点から、財政構造上の柔軟性(硬直性)を明らかにすることにある。

第1節として、各行塩地における塩引数の増減と塩の需給量を明らかにする。
これは、広東について行った研究手法を、他の地域にも適用し、清代中国全域について、同じ見通しが立てられるかどうかというもの。まだ細かい部分までは詰めていないが、同じことが言えるであろうことは、先ず間違いない。
ここから導き出される結論は、清代中期には、清朝は塩の供給の調整を放棄し、人口増加分は私塩に任せていたということである。その原因は、政治的・経済的安定期にあったことから、塩税の需要が弱かったことにあると考えられる。

第2節は、清代後期になって財政需要が高まる中、いかにして塩税の増収を図ったかということを明らかにする。
増収を図るには、官塩の販売量の増加と、塩税の税率を高めることの二通りがある。実際に採られたのは後者の対応で、このために放っておいても競争力の低い官塩が、さらに値上がりして競争力を落とし、私塩が蔓延することになるわけである。
こうした状況にあって、採れる対応は二つある。ひとつは私塩の取り締まり。もうひとつは官塩の流通コストの削減を通した官塩の競争力強化。
後者については、道光年間に陶ジュが行った淮北塩制改革が有名である。これは、最大の行塩地を持つ両淮塩運司行塩地の内、比較的小規模の淮北行塩地について、流通コストを下げたものである。
かなりの抵抗があったのだが、まず成功したといっていい成果を挙げた。これは、陶ジュが地方官としては最大の権力を持つ両江総督であり、かつ塩政における実務権限も全て総督に集中させ、さらに道光帝からの強い信任を得ていたことが大きい。もうひとつの理由として、淮南行塩地に対して相対的に規模が小さい淮北での改革だったことが挙げられる。つまり、既得権益者の力が相対的に弱いということである。
これに対置すべきなのが、清末光緒年間に張謇が行おうとした改革である。こちらは見事に失敗した。理由としては、張謇の塩務や地方行政における権限がきわめて弱かったことと、淮南行塩地での改革だったため、巨大な塩商や官僚その他の利害を正面から崩しかねないものだったためである。ちなみに彼は民国に入ってからも同じく両淮塩政改革に取り組み、既得権益者と熾烈な闘争を繰り広げることになる。
さて、つまり何を言いたいかというと、流通コストの削減は、既得権益者による抵抗が非常に強いため、よほど条件が整わないと成功しないということである。
では、どうするか。結局、私塩の取り締まりに終始することになる。が、塩需要の半分を私塩が占める状況にあっては、どれだけ頑張ろうと効率の低さはどうしようもない。
じゃぁ、どうして塩税の税率に拘ったのか。官塩供給量を増やせば良いんじゃ。

第3節は、それに応える部分である。
張謇など、清末の塩制改革論者たちの主張に、自由販運制の導入というものがある。
これは、早い話が好きに塩を売って良いよ、という制度である。
これまでの塩政の基本は、許可証である塩引の発給を受け、場所や期日、販売する塩の量など事細かに規定され、さらにその取引権も保護されるというものだった。
こうした規制を、程度の差こそあれ緩和するというものである。
当たり前の話だが、こんな改革案を持ち出そうものなら、既得権益者が猛烈に抵抗することになる。
上の話の続きみたいになるが、張謇はこれを行おうとして、結局行い得なかった。大した権力を持ち得なかった清代には言うに及ばず、袁世凱から強い信任を受けていた民国期においても、充分な成果を挙げるには至らなかった。どちらかというと、塩税を借款の担保に入れていたことから、列強から派遣されていた外国人監督官の方が、強い影響力を持っていたのではなかろうかと思われる。このあたりについてはもう少し調べた方が良いのだろうが、基本的には、張謇が進めようとして挫折した改革案を、外国人監督官が実施したという感じになるようである。

さて、結論である。清代の財政構造は、きわめて硬直したものだった。清代中期に行塩数の増減を停止すると、あとはそのままで需要の増加分は私塩に任せていた。これは、この時期に財政的需要が少なかったためだが、財政的需要が高まった後期になっても、塩税の増税という、塩政を混乱させるような対応しか取れず、それへの有効な対応は無かった。
これは、官塩の販売が強く保護されていたため、その改革にあたっては既得権益者からの抵抗が強く、よほど大きな政治的影響力を持てない限り、それを覆せなかったためである。
改革への抵抗は、改革の対象となる権益の大きさに比例するため、淮北塩政の改革であっても、有能な官僚が、地方行政と塩政の権限を集中し、さらに皇帝からの信任を得ていて、ようやく一定の成果を出すというものだった。これとても既存の塩制を大きく逸脱するものではなく、自由販運制の導入などは行い得なかっただろう。
まして陶ジュ程の好条件に恵まれなかった張謇が、最大の権益地である淮南の塩政改革を成功させるのは、不可能事であるとしか言いようがない。既得権益者の抵抗を打ち破るということは、列強の力を背景にした外国人塩務官僚にして、初めて為しえたのである。


以上でストーリーは完成するのだが、どうにも面白くない。
一昔前の資本主義萌芽論とか発展段階論とかで出てくるような古くさい感じがする。
「中国において改革を行おうとすると、官僚・商人・地方有力者から成る既得権益者集団の抵抗が強いため、自力での発展は出来ない」
「よって、外部からの、『西方からの衝撃』が、中国の発展には不可欠だったのである」
古典的なウェスタン・インパクト論の焼き直しみたいである。


だが、一方でウェスタン・インパクト論の見直しも必要ではないかとも思っている。
これは、発展段階論、つまり西欧(さらに言えばイギリス)という「最先端」の姿があり、他の国・世界も、時間が経つにつれて「正しく発展し」西欧化するというものである。唯物史観やそれを改良した大塚史学の歴史観がこれだ。時期的に言えば、日本の場合だと戦後まもなくから1960年代頃まで流行った理論である。
これは、現実の方が「正しい発達」を遂げてくれないことが明らかとなったため、下火になった。
具体的には、アジアやアフリカ諸国に対して、どれだけ援助をぶっ込んでも「正しい発展」をしてくれないことが分かったころの話である。いわゆる近代化論というヤツで、日本やドイツならうまく行ったんだよ! どうしてこの土人どもは……!!!!!と、かんしゃく起こった結果、どうも理論の方が間違っているらしいということになった。この結果生まれたのが従属論なのだが、それは措く。

発展段階論そのものは、やはり間違っていると思う。というか、世の中そんなにシンプルじゃないし。歴史などという人間の営みの生成物に、ただひとつの正しい答なんてもんがあるなら、人文科学は存在の必要性すらなくなってしまうだろう。「正しい歴史認識」なんてのは、北京とソウルにあればそれで充分である。
が、近代中国が西洋からのごり押しの結果、自力では行い得なかった改革を進めたということは、充分あり得る話である。
これとて無条件・無制限に西洋側が力を振るったわけではない。例えば民国期の塩政においても、ヨーロッパ側の代理人だったデーンは、張謇らが進めた塩政改革案を実行しただけと言うことも出来る。また、彼はその後の塩政の運用においても、中国側の利益には相応の配慮を払って執行している。ウェスタン・インパクト論がインチキ臭いのは、これで何でもかんでも説明を付けようとしたことにある。実際には、双方共に影響を受け合うし、「インパクト」が起きる以前からの歴史的文脈というものが必ず関わってくるので、安易な一般化など許されるわけもない。
その上で、ウェスタン・インパクトが影響を及ぼしたというのであれば、これはアリだろうと思う。ウェスタン・インパクトと言うも良し、「世界システム」に組み込まれたというも良し、いずれせによ清末になって中国は、これまでとは異なる力の影響を強く受けるようになったということである。

多分、このあたりの考え方を上手く取り込めば、もう少し面白く読めるものになると思う。とりあえずは細部を詰めていって、ある程度進んだら、もう一度この問題に取り組むことにしよう。

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