2011年3月7日月曜日

弥生七日 研究の見通し

研究は、遅々として進んでいない……というか、遅々として進んでいる。
つまり予定よりかなり遅れながらも、少しずつ形が見えてくるようになってきた。

現在、両淮・長蘆・両浙について、行塩数の変動を調べてきた。四川・福建・河東については、作業が進んでいる。
以上の調査において、共通して乾隆年間ごろまでには、塩引数は変化しなくなってきている。つまり両広と同じ現象が見られたわけで、清代中期ごろになると、清は官塩の積極的供給を放棄し、人口増に伴う需要については私塩に任せるようになったとする僕の仮説は裏付けが取れたわけである。

次に来るのは動機、つまりなぜ放任したのかという点だが、以前にも書いたとおり、財務及び塩務官僚にその動機がなかったためだと考えている。
この仮説を証明することはできるだろうか。一応はチェックしてみるつもりではあるが、官僚たちの不作為を証明するような史料があるとは考えにくいので、状況からの推論に頼らざるを得ないだろう。

清代中期から激化したかどうかは分からないが、清代のほぼ全期にわたって、私塩問題が悩みの種となっている。特に、清代後期には私塩が激化する。広東の例に倣うなら、人口の半分を私塩で賄うようになるのだから、そりゃ激化もするだろう。
仮に清代中期ごろから私塩が激化したのだとすれば、塩務官僚にすれば、官塩の増加など現実的な解決だとは思えなかったのかもしれない。
私塩を官塩で吸収するという発想は、例えば明代に王守仁が発案したように、必ずしも珍しくはないのだが、清代はどうなのだろう。清代後期に陶ジュが行った両淮塩政改革に、それに近い案が出ていたかもしれない。確認が必要だ。
それはさておき、一般に私塩対策が叫ばれる場合、求められるのは官塩の欠額分をいかに埋めるかという点であって、つまり財政問題である。需要の拡大した必需品の供給という観点は存在しない。一口に私塩といっても、官塩による供給分に食い込み、塩税収入を削っている部分と、官塩による供給分以外の部分とがあり、塩務官僚たちが問題にしているのは、前者というわけである。
とはいえ、私塩そのものは上記のごとく二分できるようなものではない。よって、前者の解決のみを模索しても、私塩問題が片付くわけがないのだが、そのあたりについては、王守仁のそれを例外とすれば、どうも認識が乏しかったように思われる。

官僚にとって、私塩問題とは、官塩の販売分の一部が私塩に取って代わられ、塩税収入が減損してしまうというものだった。私塩そのものも問題だったわけだが、それ以上に税収減が問題だったのである。
人口増に伴い、官塩供給量を増やすといっても、現今の官塩ですら満足に供給できていない状態で、さらに供給量を増やすことが現実的に可能なのか。
不可能ではないはずである。王守仁は塩政を変えてそれを実施した。ただし、これは明代の話であり、かつ彼が当時行っていた軍事活動の予算を捻出するために行った非常の策という側面がある。
治安が安定していた清代中期に、強大な権力を持ち合わせているわけでもない官僚たちが、自分たちの塩税徴収ノルマというハードルを上げてまで挑むべき難問ではないと考えてもおかしくはあるまい。
結果、弥縫的に私塩対策を続け、清代後期に至るわけである。財政需要が増し、より大きな塩税収入が求められるわけであり、また拡大しつつある私塩問題も解決しなければならないわけだが、陶ジュの改革なども含め、抜本的なものとはならなかった。陶ジュについてはもう一度確認しておく必要があるとは思うが、塩政の基本的な部分は変わっていないはずである。

変わらなかったというよりは、変えられなかったというべきか。塩政に限った話ではないと思うが、この時期には制度が硬直し、それを変えるにはきわめて大きな努力が必要だった。陶ジュにせよ、嘉慶帝の全面的な信任を得ていながらも、かなりの苦労をしている。まして清末になると、張謇が行おうとした改革は、ほとんど実施が不可能だった。
莫大な利権をもたらす塩業には、相応の利益団体がついている。ひとたび塩制を変えるとなると、大きな富と権力を有する彼らの猛烈な抵抗に遭うし、また末端部分で塩政を担っている人々を失業させ、治安悪化につながることになる。現実問題として、塩政の抜本的な改革などということは不可能事だったのかもしれない。

要するに、塩制を変える動機があり、変える力もあった清代前期には、塩制は変えられている。
塩制を変える動機のなかった中期には、おそらく変える力はあったのだろうが、塩政は変えられなかった。
塩制を変える動機はあったのだが、塩制を変える力のなかった後期には、塩政は変えられなかった、というわけである。


財政的な硬直という意味では、いわゆる原額主義の問題もある。
「量出制入」という財政原則は、唐代に両税法を導入して以来のものである。
唐代においては、「量入制出」の原則に立つ均田制・租庸調制が実施されていた。これは厳格な人口調査に裏付けられて実施されていた。「入るを量る」ためには、人口数が分からないと話にならないためだ。
が、戦乱で国土が荒廃していた唐初はともかく、国内が安定し人口が増加してきた中期以降になると、口分田が足りなくなって貸与を行えなくなってしまい、均田制が崩壊してしまう。
そこで両税法を導入し、「量出制入」へと財政原則を切り替えたわけである。
以来、基本的な原則は清代にまで続く。教科書的には明代後期に一条鞭法の導入によって両税法は廃止されたことになっているが、その原則そのものは清代に至るまで現役である。

さて、「量入制出」の均田制・租庸調制が人口調査によって裏付けされていることは先に述べた。で、「量出制入」の両税制の場合、人口調査はさほど重要ではない。全く人口と無関係に歳入を決めるわけにはいかないが、例えば国初などある時期において把握した人口に基づき歳入を決めれば、あとは原則として人口は増えていくため、歳入を変化させなくても問題ない(実際にはそうでもないのだが、ここでは措く)。
よって、「量出制入」を原則としている税制の場合、どうしてもその徴税額は硬直化しがちになる。
現実には、人口が増大したことにより行政上の必要も増加し、それに伴い必要な支出も増える。(ついでにパーキンソンの法則により、役人の数は必要の有無にかかわらず常に増大する傾向にあることも、支出の増加を加速させているかもしれない)
いずれにせよ、その部分は何とかしなければならないわけだが、それは正額外の税収によって賄われる。附加税のたぐいだ。
こうした財政構造については、岩井茂樹の研究に依っているわけだが、塩税においても同じことが言える。つまり基本的に硬直性の高い正額と、必要に応じて設けられる正額外の附加税による租税体系を、塩政もやはり有しているわけである。

清代後期以降の両広塩政について行った研究からも、このことは裏付けられる。正額以外に百近い附加税が存在しており、清末にはほぼ正額と同程度の規模にまで拡大していたのだ。乾隆年間あたりまでは、ほぼ正額のみだったので、実質的に倍増したといってもいい。
財政需要の高まりに応じて、官塩に課する税額を大幅に増やしていったのである。


結論としては、

(1)塩政において私塩が存在していたことは、その制度の性質上避けられるものではなく、塩務官僚もこの点そのものは問題としていなかった。彼らが問題としてたのは、私塩による塩税収入の欠損である。
(2)塩税収入そのものの増額が必要な場合は、官塩供給量の増大ではなく、塩税税率を挙げることによって賄った。

となる。これは両広塩政について観察された結論と同じであり、つまり清代中国の全土においても共通した財政的傾向であるということを意味している。



まぁ、なんというか面白みのない結論である。以前、両広塩政について書いた論文と同じ内容なんだから当然なのだが。
一言で言ってしまえば、両広塩政について得られた結論は、清代中国全体についても同じとがいえるというものである。まぁ、この結論自体は無意味ではない。中国における塩政は地域差が極めて大きいのだが、その根底部分にある原則は共通しているということになるからだ。
また、私塩というものが、反体制的行為であるにもかかわらず、その根絶が不可能であるという観察と、財政需要の高まりが官塩の税率を高め、ひいては官塩の流通を困難とせしめるという観察から、財政需要が高まるにつれ、社会の混乱が避けられなくなり、ついには王朝を転覆せしめてしまうという仮説を導き出すことが可能である。
要するに、中華帝国というやつは、放っておくだけで滅亡するということである。
もちろんこの結論は誇張しすぎている。塩税収入は財政のすべてではないし、財政的事情だけで中華帝国が滅亡するわけでもない。第一、清について言えた結論が、明や宋についても通用するかは、個別に検証する必要がある。
だが、塩税収入が歳入の大きな割合を占めていたことは事実だ。米麦による正税収入についての検証も併せて行えば、より正確な理解が可能となる。また、国家が滅亡するのは、直接的には外寇や内乱によるが、その背景には国力の低下、すなわち財政的混乱が出てくることは言うまでもない。誇張はあっても虚偽ではないというあたりである。

とりあえず塩政に話を戻せば、清代だけでなく、明代と宋代についてもチェックする必要がある。元についてはどうだろう。やはりチェックする必要があろう。
その次に、財政の検討が必要になりそうである。正直、やりたくないし膨大な先行研究もあるので、それをチェックするだけで充分だとは思うが。

あとは、通貨の問題になるだろうか。
一条鞭法にそれほど重みがあるわけではないが、明代中期以降の財政的特徴は海外からの流入銀が強く影響を及ぼしている。それは具体的にはどのように影響を及ぼしているのか。
詳述できるほどの知識はないが、少なくとも明や清の末期に行われた大規模な増税は、銀建てかどうかはともかく貨幣経済でないと不可能である。明代中期までの米建て経済では無理だ。銀の大量移入が経済規模を拡大したのは事実だろうが、それによる悪い影響もまた同様に生じている……わけだが、まぁとりあえずは別の話だな。そこまでたどり着くのに何年かかるやら。

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