2010年10月30日土曜日

神無月丗日

忙しい日々が続く。
なんか消耗しっぱなし。

夏頃から、

仕事が終わって帰宅

疲れているので、晩飯の時間まで待ってちゃんとした飯を作る気になれず

ベーコン+ジャガイモ+ザワークラウトの炒め物などでビールやワインを呷る

酔っぱらって睡眠

三時間後にアルコールが切れて起床

再活動後、三~五時頃に就寝

というライフサイクルが定着しかかっている。もちろん、夕方や夜まで用事がある日は別である。
これはこれで悪くないのだが、体力的にはともかく、気力的にはあまり回復しない気がする。
基本的に僕の睡眠時間は8時間がベストで、放っておくと、だいたい8時間ほど眠れば目が覚める。
この場合、3+5時間とかいう感じになるわけで、トータルでは問題ないはずだが、やはりどこかで無理があるらしい。
あるいは単純に、精神的活力が減退気味になっているのかも知れない。歳がどうとかもあるだろうけど、今年の夏は暑かったし、体力だけでなく気力も消耗していたのだろう。

このサイクルは、夕方という社会的には活動時間とされている時間帯に睡眠を貪るという弱点があるのだが、3時間の睡眠後にはそれなりに気力体力共に回復しているので、悪くないと言えば悪くない。まぁ、その代償が日中の気力不足と考えると、やはり常用すべきではないかも知れないが。


色々とあるのだが、とりあえず研究について。

残念なことに、予想通り今月中に四庫全書のデータを揃えることは出来なかった。
まぁ、あと『江南通志』だけなんだが。ただしこれはかなりデータ量が多いはずである。

で、それはまぁ予想の範疇だから良いとして、とりあえず先ほど、江西のデータについて検討を進めてみた。
検討材料となるデータのひとつは、『四庫全書』所載の雍正8年のデータ。だいたい18世紀初頭のものである。
もうひとつは、『清塩法志』所載の江西に関する行塩データ。『清塩法志』そのものは民国に入ってからの編纂物だが、これはおそらく光緒年間に編纂された『両淮塩法志』を流用しているはず(まだ未検証)なので、19世紀終わり頃のものである。

清の盛世からその衰退期に至るこの200年弱の間に、中国の人口は急増している。清中期の乾隆43年(1776)の江西の人口は、約1880万人だったのだが、ここから約80年後の咸豊元年(1851)には約2430万人になっている。
この間の人口増加率は約3.4‰で、明末から清初にかけての混乱期において江西ではほとんど人口が増加していなかったことと、江西は古くから開発が進み、人口増加を支える余剰の土地がなかったことを考えると、非常に順調な増加である。

さて、その順調に人口が増加した200年の間に、塩の供給量はどの程度増えたのか。
広東では増えなかった。江西では?
やはり増えていない。ふたつの史料から得られる塩引数は、ほぼ一致している。実際には雍正7年と乾隆4年に35000道ほど増額が行われている。これは全体の9%ほどであり、乾隆43年から咸豊元年までの3割近い人口増加を支えるにはとうてい足りない。
更に言うなれば、広東においても乾隆年間中期頃までは、江西と同じように行塩数の増加が行われていた。
となると、広東で得られた知見と同じように、江西においても清代中期頃には人口増加にともなう塩需要の増加を、官塩の供給によって満たす努力を放棄したものと考えられる。

広東と江西は、それぞれ両広塩運司と両淮塩運司という異なる塩務機関によって塩政を執行されており、所轄の異なる両地域で同じ現象が見られたと言うことは、他の地域でも同様の事例が見られる可能性は高い。
まぁ、現時点では可能性に過ぎないので、こうしたチェックを繰り返していくわけだが。

とまぁ、貴重な土曜日の午後のひととき(正味2時間ほど)で、こうしたデータの処理と、そのまとめ(いま書いている文章である)に費やしたわけだが、なかなか好感触である。いやまぁ、可能性が高いと踏んでこういう研究を始めたので、こうならないと涙目なのだが。
残る両淮塩運司行塩地についても同様のチェックを行い、さらに四川・長蘆・両浙・福建・雲南・河東といった塩運司で出ている塩法志から、基本古籍庫で入手可能なものはダウンロードして。本当は『清塩法志』が一番まとまっており使いやすいのだが、あれは人文研にある。出来る限り行かなくて済むように、手元で済む作業は済ませておきたい。
人文研が嫌いなのではなく、遺憾ながら有休なるものをもらえない身では、あそこに行くだけで相当な財政的負担になるためだ。
本当を言うと先週の月曜日や来週の金曜日などは、平日にもかかわらず学祭などの理由で休みである。ならばそうした日を使うべきなのだろうが、多分気力と体力が追いつかない。冒頭の問題に帰るわけである。やんぬるかな。

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