2011年5月28日土曜日

皐月三十日 福島原発の海水注入

東電福島第1原発1号機で、政府と東電が海水注入を55分間停止していたと説明していたことに対し、発電所所長の吉田昌郎が、自身の判断で注入を続けていたことを明らかにし、問題となっている。

問題のポイントは、まず、政府と東電が説明(というか注入停止についての責任のなすりつけ合い)していたことに対し、そもそも注入停止が行われていなかったとして、議論の根底を崩したという点にある。
次いで、こうした重要な問題が、現場の判断で行われ、指揮系統上部に対して長期間伏せられていたという点である。

前者については、まぁどうでもいい。既にボロボロになっている両者の面子がさらに潰されただけのことであり、対策そのものは正解だったと考えられている。
問題は後者だ。これでは、他にも隠した情報があると考えられても仕方がない。そもそも政府や東電の措置について批判されるのは、情報の公開が不充分であり、意思決定の過程や責任の所在が不明瞭であるというためである。今回の一件で、これがさらに深刻であることが明らかとなった。

僕が感じるのは、現場の後方に対する不信感である。そして、その結果生じる独善というものである。
ちょうど、昨年起きた尖閣ビデオと同じ構図であろう。上層部の判断に対し、異なる判断を下している現場が反発し、独断専行を行う。そして、全体としては現場の判断の方が正しいのだが、独断専行のため指揮系統は混乱する。
言うまでもなく、組織としては完全に落第である。政治というものは徹底的に結果だけが評価されるので、今回の一件も、結果オーライではある。が、これが常態化するようになると、関東軍の暴走がまた始まることになり、更に大きな失敗を生むことになる。
責められるべきは、もちろん独断専行した現場だが、一番の問題となっているのは上層部の無能であろう。現場の責任は上層部が問えるが、上層部の無能は誰が糺すのか?
戦前の場合、誰もそれを行おうとはしなかった。組織としての日本帝国は、意思決定や責任の所在が不明瞭なまま、戦争へと突入する。この当時、プレイヤーだった政府、議会、海軍、陸軍、天皇、重臣のいずれも、この問題を解決しようとはしなかったわけだ。
今は、プレイヤーは政府、議会、企業ということになろうが、戦前とは異なり、天皇と重臣に代わって、国民というものが入っているのではなかろうか。となると、国民には何ができるのだろう。

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