2011年1月22日土曜日

睦月廿三日

最近思っていることに、日本の教育システム上の問題点というものがある。

小中高ときて、大学を経て社会に出るのが、従来型の教育とされてきた。
最近では、大学院の修士課程ぐらいはここに含めていいかもしれない。
が、職業教育としては、社会に出てから、企業が行ってきたという点は見逃してはならないだろう。

社会・経済構造が変わり、近年では、企業の側で教育投資に回すべき資金がなくなってきた。少なくとも、かつてほどお金をかけなくなってきている。
もう少し具体的に書くと、教育対象を正社員(幹部候補生)に限定し、正社員の雇用数を減らすことにより、教育費の総額を抑制しているということになる。
人事部門の能力が大して高まっていないので、幹部候補生として入社する新入社員の質にばらつきがあり、教育費を投資しても大きな効果を見込めない人間がいたり(それでも幹部候補生なので一定の出世は遂げて部下を率いることになり、問題を起こすことになる)、その一方で高い潜在能力を持っているのに、非正規雇用として社会に出たがために教育を受けられず、能力を伸ばせないままの人間が出たりしているわけだが、これはとりあえず措く。

日本の大学や大学院は、実務的な能力を鍛えるという意味では非常に問題が多い。
大学で学んだことが社会に出て役に立たない例が珍しくないというのは、本来、教育機関としては問題外である。
教える側も教わる側も、さらには将来大学生を雇用する側も、それに大きな疑問を有していないというのが現状だろう。
もちろん、口ではいろいろ言っているが、何かを変えるという段階には至っていない。大学の教員や職員を観察している限りでは、負担は増えているが成果はないという感じである。
新入大学生の質が低下しているというのは事実であろうが、大学の教育能力が低いので、質が低いままで新入社員(もしくは非正規労働者)となるわけである。
先述したとおり、企業の側も教育コストを渋るため、日本全体の労働者の質が低下していくということになる。

まとめると、

① 小中高の教育水準が低下し、大学生の質が低下。
② 大学の教育能力が低いので、大学・大学院卒業生の質は①と同程度。
③ ②のうち、正社員として採用される人間(A)と非正規労働者(B)になる人間とで二分。
④ 企業からの教育を受けるのは、(A)のみ

ということになる。多くの場合、(A)と(B)との間の移動はないため、以前より質の下がった(A)と、質的向上を見込めない(B)が、日本社会を構成することになる。
そりゃまずかろう。日本最大の資源を人間だと考えるなら、日本の資源が枯渇していくということになる。
何とかならんものかなと考えてみたのだが、うまい案は少ない。というか、そんなものがあればとうの昔に実施されているだろう。歴史上、うまい案があっても実施できない例というのは無数にあるのだが、まぁそれはそれとして。

とりあえず僕の考えられる範囲では、①についてはどうにもならない。いわゆる「ゆとり教育」がうんぬんという話になるのだろうが、教育というのは学校だけがするものではない。家庭や社会による教育というのも非常に大きい。ゆえに、ゆとり教育を撤廃しただけでは解決しない。そして、家庭や社会の教育能力を高めるのは一朝一夕には不可能である。というより、今話題にしている日本の人的資源に対する教育を改善しないことには解決しない。つまり、ここから問題に取り組もうとすると、循環論法に陥ってしまう。
③と④については、それが営利団体である企業の任意である以上、やはりどうにもならない。日本の経済的活力が高く、充分な教育コストを払っても、それがペイするというのであれば話は別だが、終身雇用制が幻想上のものとなった以上、企業としてはいついなくなるか知れないような人間に対してまで教育コストを投じる理由はないはずである。(A)と(B)の連絡がないという硬直的すぎる人事システムには改善の余地があるだろうが、これとて、必要な人材を囲い込むというリスクヘッジの結果と考えるなら、企業にしてみればシステムを変える動機にはなりえないだろう。

というわけで、大学(院)教育にいきつく。
高校から上がってきた大学生は、大した勉強もせず(本人たちの認識は異なるだろうが)、四年後に卒業していく。就職の面接で必ず聞かれるであろう大学で得られたものに、就業に役立つ技能というものが挙げられないというのは、本来あり得ない話である。
アメリカ式の「入るは易いが出るのは難い」にすればいいかというと、そう簡単なものでもない。留年者や退学者を山のように出すことになる。
が、僕はそれでいいのではないかと思うようになっている。一定の能力を習得できなければ卒業させないというのは、非常に誠実だともいえる。
本人が勉強したくないのであれば、社会に出ればいい。そしてあるスキルを必要だと感じたら、その時に大学に通えばいい。
実際、僕が見ていても、社会人上がりのおじさんおばさん学生は、相対的に熱心に勉強している。大学で身につけられるスキルの価値と、自分たちが払っている金の価値を理解できているのだから、当然であろう。
ただし、これを現実のものとするには、企業側の雇用流動性が今よりも高くなければならない。雇用しようとする人間の履歴に留年や退学があっても、それをマイナスとしない評価基準が必要になるし、雇用した人間が大学に戻るために退職するということも認めなければならない。つまり、企業による教育というのは、さらに実効性が低下することになることを覚悟する必要がある。
お金の動きという点から考えると、企業が教育コストとして用意していた部分は、おそらくは国へ吸収され、個人の教育費用として奨学金なり教育機関への助成金なりに充てられることになろう。もちろん企業は抵抗するだろうが、それは政治の問題である。
また、人事制度を今よりもはるかに流動性の高いものにしろというのも、企業としては抵抗するところだろう。たぶん、お金の問題よりも抵抗は強いだろう。
が、ここを変えないと話は成立しない。また、少しずつではあるが、学歴よりも経歴の方を重視する方向へと採用基準が変わりつつある。政治に期待すべきは、この方向性を加速するということであろう。

さすがにそれを可能とするだけの政治能力が今の日本の政界や財界に在るのかというと、疑問視せざるをえない。が、こういうシステムの改革はうまくいっている時には動機が働かないし、全く駄目になった時では改革の負担に耐えられなくなる。今みたいな傾きかけた時期のみが可能なのだが……こういう時期に立て直せるだけの活力があるのだろうか? 
昔であれば、「中興の祖」みたいなのがそうした仕事をするわけだが(というか、そうした仕事をしたから中興の祖になるわけだが)、今のような個人の力量が大きな影響を及ぼさない時代ではどうかな? 
いや、指導者の力量というのは時代を問わずに重要なので、今であっても優れた指導者がいれば、そういう方向に持っていけるのかもしれない。あまり僕は個人の力量を重視しないのだが、それも程度問題と考えるべきであって、やはり優れたリーダーは社会を変えるのかもしれない。

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