2011年1月22日土曜日

睦月廿二日

一応は関心があったので、ReaderやGalapagosの実物をチェックした。

感想は、「部分的には見るべきところがあるとはいうものの、全体的にはパッとしないKindleやiPadの焼き直し」というもの。

まずReaderから。
画面は文庫サイズ対応の5型と新書サイズ対応の6型のふたつがある。
これはこの手の電子書籍リーダー全般に言えることだが、ハードが揃っていても、ソフトがないとどうにもならない。
当然ながら、発売まもない現時点ではソフト、つまり本は揃っていない。
ゆえに、この方向からは何とも言えない。
ソフトとしては、電子書籍以外に自炊して制作された画像ファイルもある。僕のように、蔵書を整理して、という目的から入った人間にとっては、こちらの方がメインになる。
で、その観点からすると、読みやすく読めたら何でも構わないわけなので、問題は使い勝手の良さ如何ということになる。
評価すべきポイントは、画面サイズ・重量・インターフェイスのみっつである。
Kindleのように9インチサイズがある場合はさすがに別だが、5インチと6インチではさして変わらない。
新書が読めるなら文庫も読めるわけで、それを考えれば6インチサイズの方が良いように思える。正直、5型の存在する理由がよくわからない。それほど重量や手持ち感に違いがあるようにも思えないし。
一応スペックを書いておこう。

Reader(5型)
145.4mm×104.6mm×9.2mm
155g

Reader(6型)
169.6mm×119.1mm×10.3mm
215g

Kindle3
190mm×123mm×8.5mm
241g(Wi-Fi版), 247g(3G+Wi-Fi版)

KindleDX
264mm×183mm×9.7mm
536g

Kindleの方がやや大きくて重いが、これはキーボードや通信機能があるため。
この点については、そうした機能をすべて接続するPCに依存することで小型軽量化を果たしたReaderにも理があると思う。
問題は小型軽量化を果たしたが、値段はむしろ高めという点にあるのだろうが、Kindle3はもとより原価割れを覚悟してるのではなかろうかというような値段になっているので、そのあたりは措くことにする。ITmediaの記事によると、Kindle2の定価359ドルに対し、原価は185.49ドルだそうな。Kindle3については不明だが、それほど利益が出ていないことは想像に難くない。
また、インターフェイスについては、両サイドにページ送りボタンのついているKindleの方が明らかに使い勝手が良かった。片手で扱うとなると、ページ送りボタンが表面左寄りに配置されているReaderの場合、左手でしか不可能である。
あと、Readerはメタルフレームなのだが、これもKindleみたいに樹脂製にすれば同じ強度でもう少し軽くなったのではなかろうか。この辺りは素人なので何とも言えないが。

結論として、Kindleより先に出ていたのなら評価されるが、Kindleの後を追っている現状としては、特に評価すべき点を見いだせない、つまりKindleを持っている人間がわざわざ購入すべき品ではない、ということになる。
これが最初の機体となると話は別である。要するに、いまだAmazonが日本語版Kindleを発売していない現在であれば、これを買う人はそこそこ居るであろう。その意味では正しい時期に適当なスペックの商品であるといえる。去年の夏ごろにこれが出ていたら、僕もKindleではなくこちらを買っていた可能性が高い。

iPadとGalapagosについても、ほぼ同じ感想を持った。僕はiPadを持っていないので、詳しい評価はできないが、後を追うならもっと斬新な要素を持っていてもいいのじゃないかとは思った。
日本は新しい価値を創造するのが苦手とはよく言われてきたことだが、まさにそれを実感した感じ。たぶん、数年内に韓国か中国でもっと安い機体が出るんじゃないかなぁ。

2011年1月20日木曜日

睦月廿日

なお、今回の記事はやたら長いうえに内容がない。一応警告まで。


別に第二次大戦期に限った話ではないが、ある程度歴史やら戦史やらを齧った人間なら、ifに関心を持つようになる。
言うまでもなく、歴史にifを持ち込むのは禁じ手である。なぜかというに、何ら生産的ではないからだ。
ただしふたつの例外がある。ひとつは「可能性を検討する」というもの。これは歴史学でもアリとされている。
例えば日本の鎖国を評価するのに、「もし鎖国しなかったなら」というifを設けて思考実験を行うことは、それなりに有意義である。肯定否定それぞれの評価が下されることになるが、鎖国した時期及びその前後の日本(と世界)を検討するのに有用な役割を果たすことになろう。
もうひとつの例外は、はなっから有益かどうかを考慮せず、単なる妄想を楽しむ場合。妄想なんだから生産的であるかどうかは問題外である。

いわゆるシミュレーション小説・ゲームなどにおいては、後者が重視される。シミュレーションという意味では前者を重視しても良いはずで、古典的なシミュレーションゲームでは比較的こちらを重視する(おかげでゲーム性に問題が出ることも往々にしてあるが、ここでは措く)のだが、エンターテイメント性の強いゲームでは、あまり問題としない。特に昨今のゲーム業界では、前者を重視するタイプのゲームは、覿面にクソゲー呼ばわりされること必定である。
まぁ、シミュレーションそのものを楽しむことは、想像力や知識などの面においてかなりの水準が要求されるので、こちらを重視する勢力が相対的に少数派たることは仕方ないのだろう。


さて、ここまでが前置き。
年末ぐらいから色々と蔵書の電子化を進めてきたわけだが、佐藤大輔の小説なんかも大半を電子化し、久しぶりにそれらを読んでいた。
で、僕も妄想してみようと思ったわけである。

お題は、「太平洋戦争で日本が戦術的勝利を収め続けた場合、どうなるか」。
開戦時点で日本に勝ち目がなかったことは、この分野に少しでも関心のある人間なら常識の範疇に入るであろうが、それはどこまで捻じ曲げられるだろうか。
実を言うと、hoi2の架空シナリオを作るためのネタである(本当に作るかどうかはまた別の話)。「なんかの間違いで日本が勝ってしまった世界」で、1940年代後半から50年代前半ぐらいからゲームを始めるとしたら、どういう設定が必要になるかを考えてみたわけだ。

定番としては、ミッドウェーで日本が負けたというのがある。
繰り返すが、大戦略というレヴェルでは、日本はすでに負けているのだが、そこは目をつぶっての話である。
しかし大戦略的環境(日本の総合的な国力)を無視するわけではない。
ゆえに、ミッドウェーで「運命の30分」とやらをもみ消すこととしても、当時の日本海軍の状態からして、その次かそのまた次あたりで大敗北を喫するはずと考える。ミッドウェー海戦で敗北したことはある意味偶然の産物だが、1942年中ごろ(遅くとも後半)に日本が大きな敗北を喫することは、ほとんど必然と考えていい。戦略目標の欠如、情報への関心の低さ、戦力回復能力の低さ、軍上層部の慢心などを考えると、他の結論は出ない。

そこで、南雲司令長官には一足先にミッドウェーを味わっていただく。
具体的にはミッドウェーの二か月前、セイロン沖海戦にて、イギリス軍の空襲が「偶然に」成功し、甲板に飛行機を並べた《赤城》は大破し、第一航空艦隊司令部は機能を停止する(南雲と源田は重傷、草鹿は戦死の判定)。
ちなみに史実では空襲はあったものの、機数が少なすぎ、攻撃機の能力も低すぎて被害はなかった。逆に、一発入ればミッドウェーと同じことになった可能性もあった。
こうして、以降は南遣艦隊司令長官の小沢治三郎が指揮を執る。そして作戦後、その時点で南遣艦隊は概ね任務を終えているため、小沢はそのまま一航艦長官へ横滑りするものとする。史実だと小沢はこの年の11月まで南遣艦隊の指揮官で、それから第3艦隊司令長官に転出するのだが、半年ばかり早まるわけである。

で、ミッドウェーだが、《赤城》が失われたため、アリューシャン攻略は中止され、4航戦の《隼鷹》・《龍驤》が参加する。
展開そのものは同じになるが、ミッドウェー第二次攻撃用の爆装が行われた状態で敵機動部隊を発見した時、山口多門だけでなく同じくらい戦闘的な角田覚治からの意見具申により、南雲よりは航空戦における時間の重要性を感じている小沢は、航空隊を出撃させる(逆に航空戦に通じているがために、正規の装備を整えることを重視する可能性もあるが、そちらは黙殺する)。
もちろん空襲を受けるわけで、そのために《赤城》の代わりの位置にいた《隼鷹》と、《加賀》・《蒼龍》は中破する。が、誘爆は起きないので、ある程度の復旧は見込まれる。
そして爆装した攻撃隊は《エンタープライズ》・《ホーネット》の甲板を叩き、一時的に発着不能とする。
そして《飛龍》・《龍驤》搭載機を中心とする第二次攻撃隊により、《ヨークタウン》大破(のち潜水艦攻撃で沈没)。
結局、空母戦力の消耗を鑑みて、スプルーアンスは撤退を決意し、ミッドウェーは本隊到着を以て占領される。

以上が妄想上のミッドウェー海戦である。この結果、一時的に太平洋から米軍の空母戦力が消滅することになり、日本軍はFS作戦を実施、また米軍はガダルカナル上陸に始まるウォッチタワー作戦を順延することになる。
また、空母の攻撃力と脆弱性を鑑み、改マル5計画においては、改飛龍型(のちの《雲龍》型)ではなくて甲板装甲を有する改大鳳型およびG14型の建造に集中することになる。

FS作戦は、大小の海戦を繰り返し、それなりの損害を受けながらも順調に進み、42年末には完遂される。
しかし、米豪分断というFS作戦の目的は達成されない。やる気になっている連合国がオーストラリアを手放すわけがないのだ。

で、 43年は、南太平洋においては数次の大規模海戦が行われ、またポートモレスビー攻略作戦も進行する。イニシアティブを失うことが敗北への転落を意味すると承知している山本五十六は、かなりの損害を出しつつも攻勢を続け、隔月建造の勢いで空母を投入する米軍も、戦力の逐次投入の愚を承知しながらも部隊を展開し、出血を続ける。
こうして8月にはポートモレスビーも陥落するが、陸軍は伸びきった戦線を維持するため、ビルマ方面から戦力を引き抜くことを余儀なくされる。
また、9月にはイタリアが陥落し、ヨーロッパの戦局が改善するため、オーストラリアは講和に応じない。
艦隊を動かす重油がほぼ払底してしまった日本海軍は、別の方向からオーストラリアを屈服させるべく、連山を戦略爆撃機として用いるため開発を急がせる。また、航空戦力の消耗の激しさを補うため、ドイツが降伏したイタリア艦艇に用いた対艦誘導兵器の入手に腐心するようになる。
燃料の底がついた日本軍と戦力を損耗させてしまった米軍のどちらも、43年の後半は活発には動かなくなる。
なお、10月にはミッドウェーを奪還される。どのみち兵站が続くわけがないので当然である。同様にフィジーやサモアも放棄が決定される。連合艦隊は嫌がるだろうが、無い袖は振れない。
ちなみに、連合軍潜水艦による通商破壊戦は、史実と同様の展開である。つまり、ちまちまと攻撃を受けている。ガダルカナルの大消耗がないので、損害そのものは低いのだが、兵站が伸びている分、攻撃される可能性も増えているためだ。こうして11月には海上護衛総司令部が設立されるが、兵站が伸びている分、史実以上に苦労の多いことになるだろう。

日本が戦争のイニシアティブを失い、米軍の反攻が始まるのは44年が明けてから。
それを予想していた日本軍は、こつこつと蓄えてきた燃料備蓄を取り崩し、マーシャル沖での迎撃戦に挑むが、この時点で戦力バランスは米軍の方に傾いており、4月にはマーシャル諸島を失うことになる。史実より、約半年遅れというところか。
なお、ミッドウェー喪失の時点で島嶼防衛の重要性に気付いた日本は、マーシャルの防備に取り掛かったのだが、間に合わなかった。引き続きマリアナ諸島の防御に力を入れることになる。
なお、7月にはドイツの機密資料を多数積み込んだ《伊29》が日本に到着する。史実では台湾海峡付近で沈没しているのだが、まだ日本がマリアナ諸島やフィリピンを抑えているため、米軍潜水艦の攻撃は史実ほど深刻ではない。
なお、中国戦線では史実通り一号作戦(大陸打通作戦)が実施されている。大陸からのB29空襲は、やはり一定の脅威ではあったためだ。が、インパール作戦は行われていない。ビルマ方面の戦力がニューギニア方面へ引き抜かれていたため、守勢を保つことが肝要(というか他に方法がない)であると、ビルマ方面の指揮官だった牟田口廉也が考えていたためである。

米軍は数か月の準備を整え、ラバウルとトラックの航空戦力を叩いたうえで、サイパン上陸を狙う。
10月、史実より5か月遅れで行われたマリアナ沖海戦は、双方の海上戦力をすり潰すような激戦となる。が、このころまで何とか高い練度を有していた日本の航空戦力と、試験的に投入された対艦誘導弾「桜花」(ドイツのフリッツXの改良型)などの活躍もあり、かろうじて米軍を追い返す。ちなみにこれまでの消耗もあり、米軍機動部隊は史実ほどの陣容を擁してはいない。

上陸部隊を壊滅させられ、ニミッツは解任はされなかったものの、大きく発言力を減じることになる。代わりにニューギニア、フィリピン方面への攻勢を主張するマッカーサーの立場が強化される。
またルーズヴェルトは44年末の大統領選には勝利するが、史実ほどの圧倒的優勢ではなく、むしろ僅差の勝利といえる結果だった。

11月には日本軍はガダルカナルを放棄する。また2年半にわたって空母戦力を率いてきた小沢は軍令部次長に転任し、後任には中将に昇進した山口多門が就くことになる。
こうして45年を迎えた。

連合艦隊の主力は大きく戦力を減らし、これまで極力消耗戦を避けてきた航空部隊の練度もそろそろ低下しつつある。燃料不足も大規模戦闘の度に備蓄を失うので、充分とは言いかねる状況にある。
空母による殴り合いをなるべく回避するため、マリアナ沖でなかなかの成果を上げた対艦誘導弾の開発に力を入れることになった。マリアナ沖で投入された桜花11型は無線誘導で、着弾まで追随する必要があったため、VT信管付き対空砲弾を投入するようになった現状では損害が大きすぎた点が改良の要である。
かくして、国内で研究がすすめられていた赤外線誘導装置を搭載し、また搭載母機を一式陸攻から銀河に変えた22型が開発され、さらに開発は完了したものの使い道を失って宙ぶらりんだった連山に搭載する32型なども開発された。
赤外線誘導は母機が危険にさらされないというメリットがあるが、細かい誘導が出来ないというデメリットもある。強い赤外線を発する標的を狙うので、特定の大型艦に攻撃が集中してしまうのだ。時速800㎞で突っ込んでくる1.2トンもの弾頭の力をもってすれば、空母なら2発も喰らえば戦闘力を失ってしまうので、それ以上は無駄である。戦艦に対してはあまり効かないだろうけど。
いくら桜花の生産が簡単であるとしても、数を作るのはかなりの手間が必要であることも問題だった。いまだ国内が安泰なため、研究能力も十全を発揮できてはいるが、それでもこの時期の日本には手に余る代物だった。

が、アメリカの方も頭を悩ませていた。確かに日本海軍の力は減じつつあるのだが、決定的な差が出来ない。個々の戦闘において痛み分けに近い結果が続くため、総合力に勝るアメリカが最終的に勝利することは疑いない。
しかし、そこに至るまでの損害が問題となっていた。この時期、ヨーロッパ戦線はほぼけりがつく状態になっており、ドイツの降伏は時間の問題だった。
一方で太平洋戦線は思うようには進んでおらず、大統領と海軍が批判される結果になっていた。

ニューギニア攻略と次のフィリピン攻略へと歩を進めるべく2月より行われたラバウル・ポートモレスビー攻略戦では、連合艦隊総力と桜花を装備した連山の群れが、再建を果たした米軍に襲い掛かり、双方が壊滅的な損害を出した。
だが、桜花をまとめて喰らった米空母は、いかに間接防御力を発達させたエセックス級であってもまず沈んでしまう。一方で、《大鳳》・《信濃》などの重防御空母を前衛においた日本側は、戦力的には劣勢でもかなりの攻撃に持ちこたえるし、また戦闘後の回復も比較的早かった。が、それ以外の従来型空母はほとんどその姿を消していた。
凄惨な流血の末、3月にラバウルが、そして6月にポートモレスビーが陥落し、ようやくオーストラリアの脅威を除いてフィリピンへの道を開いたのだが、まだマリアナは戦力を保持している状態だった。つまり、史実より1年遅れていることになる。
それでも、逆に言えば1年かけてマリアナ・フィリピンを攻略すれば、日本本土への空襲や潜水艦攻撃を行うことが可能となる。いや、連合艦隊がほぼ戦力を喪失していることを考えると、それより早いかもしれない。

が、そうした見込みは、別の方向から崩されることになった。
2月に行われたヤルタ会談で、ドイツ降伏後に参戦することが決まっていたソ連が、史実通り8月9日に参戦し、満州を席巻した。
千島列島への攻撃は、再編中の日本海軍によって大打撃を受けて失敗したが、関東軍は後退を続けることになった。
日本軍は虎の子の連山を兵站攻撃に投入し、ソ連軍の前進を遅らせようとしたが、日本陸軍の再配置が完了し、ソ連軍の勢いを抑えることに成功した9月の時点で、朝鮮半島北部、そして山海関以北は全て喪失していた。

ここで、日本は連合国との講和への動きを本格化させた。
正確には、ラバウル失陥の責任を取って総辞職した東條内閣の後任となった鈴木貫太郎は、比較的早い時点から和平の可能性を探っていたのだが、連合国の対応は芳しくはなかった。
また日本側も7月に出されたポツダム宣言を、表面的には黙殺していた。
だが、ソ連の参戦を受け、事情が変わった。
ソ連に対して比較的宥和的だったルーズヴェルトが4月に死去し、後任となったトルーマンは、ソ連の勢力拡大を懸念していた。
このままでは、一年をかけて日本を屈服させる前に、ソ連の手で降伏しかねない。そうなると後れを取ってベルリンを奪われたドイツの二の舞となる。
チャーチルの後任となったアトリーも、ソ連の勢力拡大を望まなかった。
さらに、アメリカ国民がこれ以上の犠牲を望んでいなかった。

かくして、45年12月24日、ソ連を除く連合国各国(代表として米英仏蘭中)と日本との間で、オアフ停戦条約が調印された。条件は、南洋諸島を除く第一次大戦での獲得領土・中国からの獲得領土の返上、満州国解体、朝鮮独立。つまり、日本が日清戦争以降に築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄する。ハルノートよりさらに踏み込んだものである。
そして翌46年2月15日、ソ連をはじめとするオアフ条約非調印国を含めたウラジオストク停戦条約調印。こちらで焦点となったのは、北半分を占領された朝鮮半島の扱いだった。将来的な朝鮮の独立を約束するが、暫定的に朝鮮半島における38度線を分割ラインとし、北側をソ連の所轄、南側を日本の所轄とする。将来的には統一し、信任統治を行う方針で合意。

こうした和平に対し、米軍の一部と中国政府では抵抗があった。特に国民党政府は日本の軍事力に制限を加えるよう求めていた。
が、アメリカ政府では対日から対ソへ仮想敵をシフトさせていたことと、大戦中の国民党政府のふがいなさと腐敗に愛想を尽かしており、かつ中国側もろくな人脈を持っていなかったことから、大きな発言力は持たなかった。また、どのみち制限するまでもなく、日本の軍事力はしばらく回復しそうにないと判断されていた。
なお、中国共産党は特に抵抗することもなく停戦を受け入れている。彼らは次の内戦へ目を向けていたためだ。日本が影響力を失い、連合国の手も届かないのであれば、ソ連からの潤沢な支援を受け取れる彼らの方が圧倒的に優勢である。

そして日本は、戦争に敗北しなかった。国家の存亡を勝利条件とするなら、むしろ勝利したといえる。
が、国内から崩壊しそうな状態だった。
多数の熟練労働者を徴兵された産業は体力を失い、また生産の内容も軍需産業へ偏りすぎていた。
植民地もすべて失ったため、資源の安定供給も見込めない。
四年を超える総力戦を戦い抜いた軍は、特に海軍は壊滅状態だった。
開戦前に600万トンに達していた商船団は半減していた。

差し当たり200個近い師団を動員していた陸軍は、十分の一以下にまで縮小する必要がある。
だが海軍の方は、特に問題ない。何せフネが残っていないから。
最後まで生き残った大型艦は、戦艦は《大和》・《武蔵》。空母は《翔鶴》・《瑞鶴》・《加賀》・《大鳳》・《海鳳》・《蒼鳳》・《信濃》。いずれもかなり損傷しており、長期の整備が必要となっている。特に老朽化した《加賀》は、解体した方が早いかもしれない。なお、改大鳳型が1隻、G14型が2隻ほど建造中だったが、いずれも資材不足のため工事は進捗していない。
重巡や軽巡はほぼ全滅している。すり潰されてしまったのだ。
駆逐艦も似たようなもので、戦前からの特型や甲型はほぼ姿を消している。秋月型や松型ばかりである。
潜水艦もほぼ壊滅。
大戦中盤からの海上護衛戦の主役だった海防艦などは多数残っているが、その大半は戦時急造型で、戦争が終われば予備艦となるか解体される運命である。

まとめてみると、確かに日本は生き残ったのだが、軍事大国としては生き残りようがない状態になっていた。
まぁ、植民地が無くなったので陸軍は必要なくなったが、海上交通路の覇権を争うべき海軍は、その根幹は残ったにせよほぼ一からの再建が必要となる。
太平洋の覇者となったアメリカが日本に対して特に好意的になる理由はないので、これからの日本は、史実以上に苦しいことになるであろう。
これまでの方法ではどうにもならないし、「勝てなかった」軍の発言力もかなり損なわれてしまっているので、これから当分の間は通商と外交で生きていくしかなさそうである。
加えて、おそらくは民主主義と共産主義の影響力が強まるはずである。

だが、アメリカの方も手放しでは喜べない。結局、「海軍の戦い」では日本に勝てなかったわけで、「陸軍の戦い」でドイツに勝利したことと比較されると、どうしても海軍の発言力が見劣りすることになる。
また、そもそも日本と争うことになった原因のひとつだった中国への権益は、戦争を終えても手に入らずじまいだった。むしろ、戦争末期になって参戦してきたソ連の影響力が増す結果となっている。

かくしてスターリンが漁夫の利を占めることになった。東アジア方面において、史実よりもより強力な立場を持てたためだ。朝鮮半島南部には日本が影響力を有する朝鮮人民共和国(史実ではすぐに消滅した。大韓民国の母体の一つ)が発足したが、親日・親米両派の争いや共産主義勢力の伸張などにより、あまり頭を悩ませることはないだろうと考えられる。
中国についても、近い将来、中国共産党による勝利がもたらされることだろう。


……とまぁ、こういう感じである。ちなみに世界中が民族主義のうねりに巻き込まれだす50年ごろに「ドイツ戦争」が起きて、東西が第三次世界大戦へと突き進む予定である。
日本はどちらからも距離を置く立ち位置にいるので、表向きは蚊帳の外、その裏側では戦時中から培ってきた親日民族主義勢力への支援を行い、東南アジアの独立を支援することになるかもしれない。
そういうふうに表現すると悪くなさそうだが、肝心のカネがないのが問題となる。史実と異なり、西側ブロックの金融力を当てにすることはできないためだ。
下手をすると、貧乏なまま共産主義革命が起きるかもしれない。

いずれにせよ、ひどいものである。文字通りの「火葬」戦記といえる。国土そのものはあまり酷いことにはならなかったが、連合艦隊はほとんど燃え尽きてしまった。たぶん、史実の日本より悪い状態で戦後という時代を歩むことになるのではなかろうか。史実とは異なり、西側からも東側からも嫌われている状態なので。
うまくいったとして、軍部独裁体制から民主主義へのゆるやかな路線転換。悪い場合は共産主義革命。もしくは軍部による反クーデタ。後者の方が悪いかな。
もちろん、第三次世界大戦が飛び火してキノコ雲がたつというデッドエンドもあるが、まぁそれは仕方がない。人類滅亡みたいなものだし。
ただ、1949年に核実験に成功したソ連が、1950年代前半において、日本にまで核攻撃を仕掛けられる可能性はあまり高くなさそうだ。

こういう妄想はやってみると結構楽しいものだが、妄想以上のものではないことを強く感じるようにもなる。何せ、ある程度真面目に検討すると、ほとんどの場合史実より悪い結果になる。
考えてみれば当たり前の話で、現実だと必ず起きる「都合の良い偶然」は起きず、「都合の悪い偶然」は概ね起きる。前者は記録上存在しないが、後者は記録上存在するのでこうなるのは仕方がない。
また、現実において様々な戦略を立て、戦術を遂行していた人々は、僕よりもはるかに高い能力を持った人々である。例えば今回、米軍の反攻戦略を史実のそれに近い「飛び石戦略」で組み立て、史実よりも強力な抵抗を受けたことにより失敗させて、マッカーサーの陸路戦略に切り替えさせたが、本職の高級参謀たちなら別の戦略を立てていたかもしれない。ポートモレスビーやラバウルをいちいち占領せずに無力化するにとどめ、フィリピンをまっすぐ狙うとか。
アメリカが対日勝利をあきらめた理由として、米軍の進行速度の遅さと損害に比してソ連の侵攻が速やかだったことが挙げられるが、45年初めごろまでにフィリピンの制海権を握れば、日本の海上交通路は干上がってしまう。マリアナ諸島を攻略せずとも、日本を降伏に追い込むこともできたかもしれない。

このように妄想の上に妄想を重ねて出来上がった仮想世界にKaiserreichなんかがあるが、ああいうのはなかなか大変なものだと思う。
こちらもこの妄想世界をさらに推し進めて第三次世界大戦にまで持っていければ良いのだが、まぁそれまでに飽きてしまいそうだ。

2011年1月8日土曜日

睦月八日

年末年始も、あまり休めなかった。

大みそかには実家に戻り、恒例のボードゲームを行った。
お題は『Civilization』。正確にはそのアドヴァンス版。
Civというと、今では『Sid Meier's Civilization』の方が圧倒的に知名度が高いが、こちらもボードゲームでは古典の名作である。一応PCゲーム化もされている。

日本語訳なんて気の利いたものは付いていないのだが、ずいぶん前に『Tactics』誌で翻訳ルールが掲載されており、それを便利に使っている。ただし、この翻訳はかなり出来が悪く、誤訳がかなりあるので、怪しい部分は原文を参照するべきだろう。
僕らにとっては数年ぶりのプレイだが、だいたいは覚えていたのでそれほど問題はなかった。
問題は、プレイ時間が長すぎることである。
最後までやろうものなら、二日ぐらいかかるのが普通だったので、五時間程度のプレイ時間では結構きつい。
まぁ、出来るところまでやろうということでゲーム開始。

僕はエジプト。
まさやんがアフリカ(つまりカルタゴ)。
かずやがイリリア(つまりローマ)。
もりりんがトラキア(つまりドナウ河あたり)。
noriがアッシリア(というか事実上のトルコ)。
ヤスがバビロニア。
そして電気屋がクレタ。

かずやは初プレイとなる。ランダムで担当国を決めたのだが、あまりバランスは良くない。
具体的には、ヤスが僕を目の敵にして殴りかかってきやがった。

noriとは速攻で手を結んだので、本来最大の敵となる北辺はほぼ無防備で構わない。こちらもまさやんとは手を結んだのだが、どのみちアフリカはエジプトと手を結ぶしかないので、あまり旨みはない。まぁ、すぐに寝首をかきに来るようなヤツが背中にいる場合を考えると、非常に都合がよかったと思うべきだろうが。
ゲーム中、バビロニアとエジプトは一・二を争う大国である。言い方を変えると初心者向き。
だが、蛮族モードになったバビロニアの侵略を迎え撃つとなると、エジプトの方も大変である。というか、バビロニアじゃなくてヒッタイトだろ、これ。
主戦場はシナイ半島となる。これは紀元前4k年も紀元後2k年も大して変りはない。
もうひとつの戦場は紅海沿岸。ここはほとんど砂漠なのだが、ここを抑えられるとナイル河上流部の心臓部を叩かれかねないので、死守しなければならない。
基本的に砂漠地帯で多数の兵力を動かせないため、一度都市にしてしまえば簡単には攻略できない。もちろん、増援もあまり望めないので、あまり変な位置に都市を造ることもできない。というか、変な場所には都市を作れるだけの人口を送り込めない。
結局、南パレスチナ方面の都市は迂回し、シナイ半島および紅海沿岸で激戦が繰り広げられることになったわけである。
ただし、このゲームは人口数の少ない方が手番が後になるので、慎重にユニットを動かせば、あまり問題はない。次のターンぐらいまで読めれば何とかなるのだ。寄せ手は第兵力が必要になるので、必然的に手番も先になる傾向があるのだ。
もっとも、このゲームの肝はランダムで発生する災害にあるので、こちらの予想を覆されることは往々にしてある。
というわけで、エジプトあたりの陸軍国家の定石なら「神秘主義」→「土器づくり」のところを、少数精鋭の海軍国家向けである「帆布づくり」→「金属精錬」となった。どこのクレタだ。
必死で都市数を死守し、交易カードを集めてここまで乗り切ると、ロクに都市化もできていないバビロニアではやはり勝てなくなる。というわけでヤスは諦めた。

一方、西方ではアフリカとトラキアがイリリアを挟撃する形になっており、かずやは苦しんでいた。イリリアなら速攻でシチリアにまで足を延ばしておきたいところなのだが、初心者だと一歩遅れてしまう。
まさやんは後背のエジプトを心配しなくても良い状態だったので、安心して速攻を掛けられる。シチリアを抑えてしまい、相手のすきを見てサルディニアなども攻略する。
イリリアが気を取られている間に、トラキアが背後から忍び寄ってモエシア(ドナウ河流域)の穀倉地帯を奪っていく形になった。

結局、中盤からは東方ではほとんど戦争が起きなくなったため、順調に文明が進んだ。
災害には見舞われるが、もとより地力の高い地域なので、すぐに回復する。
最後の方で災害カードの連打に見舞われ、疫病と内戦となにかもうひとつ(他にもあったが、災害の上限は3つまで)を喰らって、国力が半壊してしまったが、それでもかき集めていた財力にものを言わせて集めた文明カードのおかげで、タイムアウト時のトップは僕だった。
もう一時間ぐらいやっていれば、ほぼ完全状態にまで持ち込めたかもしれないが、まぁこんなところだろう。

こんな感じで大みそかは終わった。


元旦を迎え、夕方になると、T先生から電話が。
パソコンが動かなくなったのだと。
二日に、ご自宅にまで伺いますのでと返事をする。


二日。先生宅にまで行き、様子を見てもよくわからない。
というわけで八条のソフマップにまで持って行き、チェックしてもらうと、今度は動く。
こういうのは釈然としないものだが、よくあることである。
再び持ち帰り、電源周りを整理すると、動いた。
たぶん、タコ足配線による電力不足だと思うが、断言できないのが頭が痛い。
ソフマップで買ってきた外付けHDにPCのデータ部分をコピーし、これをバックアップとするように心がけてもらうことにした。
バックアップは色々と面倒が多いのだが、やらないと後悔するので困る。苦労の少ないバックアップ体制となると、RAIDを使ったりオンラインストレージを使ったりすることになるのだろうが、そこまでは僕も経験がないし、データ量自体がそれほど多くはないので、原始的な手作業が費用対効果の面からは一番良いのかもしれない。


三日は疲れ果てて寝ていた。
四日から仕事である。
そして現在に至る。
ちなみに明日は休みだが、あさっては激務が予想される。今週が山だろうなぁ。

2010年12月27日月曜日

師走二十七日

忙しい忙しいと言いながら、GamersgateでVictoria2が半額セールをやっていたので、買ってきた。
当然英語版であり、何から何まで手探りになるわけだが、まぁそれは良い。
パラドの最近作の例に漏れず、EU3エンジンを用いており、僕のPCではそろそろキツイ。まぁ、あまり長時間ゲームをするのでなければ、話にならないというほどではない。

現在、1.2パッチなので、まだバランスが良くない。
ブラジルでやってみたのだが、20世紀に入ったあたりで叛乱祭になってしまう。

このゲームの売りは「近代化」に尽きるのだが、これは農民が工場へ吸い上げられる過程をも含んでいる。で、工員や技術者といった都市民は、自由化を求めるわけである。
つまり、保守的な農民が自由化していくことにより、権威主義的な政体とは合致しない思想を持つ国民が増えていくわけである。
また、自由主義思想の変化として社会主義思想が生まれる。貧乏なままの自由主義者は社会主義に染まるらしい。具体的には工員のことだろう。
社会主義者は穏健な間は自由主義者と大差ないのだが、急進的になっていくと不満を強める。ついでにここから共産主義が生まれる。こやつらは政権転覆を起こすことしか考えない。

というわけで、近代化プレイを進めていくと、ゲームの最後の方は社会主義者やコミー共ばかりになる。政体は権威主義のままなので、そりゃ暴動も起きるだろう。
理屈はよく分かるのだが、解決の道が見えないのが困る。いやまぁ、実際ロシアをはじめとする結構な数の国が解決できないまま滅んでいった訳なのだが。
社会主義者をあまり多く生まない方法ってあるのかな。

今日は一日休みだったので、中国でやってみた。
ゲーム当初の中国は近代化を迎えていない状態なのだが、このゲームでは必要技術を開発してさえしまえば近代化できる。1836年開始で50年代には近代化を達成した。史実で言えば同治年間ぐらいか。洋務運動要らんがな。あるいは、1836年から洋務運動を行ったと考えればいいか。ちなみに嘉慶年間である。
この時代は清の国内矛盾が加速していった時代なのだが、アヘン戦争を含めて、この手の問題はゲームには反映されていない。EU3エンジンシリーズに共通するモチーフなのだが、イヴェントを多用せずに、世界史を再現ではなく再構築するというスタイルを取っているので、どうもそのあたり甘くなる。
おかげで1860年代には列強になった。おかしくね?
マンパワーがものすごいし、独裁国家なので、有り余る税収を用いて必要な工場を建てまくるだけで、スコアの一種である工業点が爆発的に貯まるためである。
簡単な技術で造れ、かつ世界経済が必要とする商品を、傾斜配分政策(資本の集中投入)で作りまくり売りまくり……。何時の時代の話だ?

ただし、あまりに輸出依存の経済を作ってしまったので、1880年に差し掛かることになると、世界市場でだぶつくと一気に経済破綻を起こしかねないという無茶苦茶な状態になった。西太后あたりが、内需なんて知りませんわとか言っているのだろう。
で、国内がガタガタになって失業者が溢れかえると、20年早く義和団の乱が起きた。具体的には中国ほぼ全土で叛乱発生。
やってられるか。
余談ながら、技術開発能力を上げるための文化関係技術と国力造成のための産業開発技術しか開発していなかったので、戦争すればヴェトナム相手でも負ける。というか、アフリカのソコトに勝てなかった。
まぁ、国境を接する国とは仲良くしていれば、多数の陸軍部隊を要している限り、簡単には攻め込まれないので、さほど問題ない。もし戦争になったら、アヘン戦争や日清戦争を再現することは間違いないところである。

中国もだいたい分かったので、次は本命のプロイセンあたりで試してみようかな。


『清塩法志』の作業はとりあえず完了した。手持ちの資料で出来る範囲という意味である。
一部の行塩区の塩引数データや、ほとんどの行塩区における塩引一道あたりの塩斤数に関する情報については、まだコピーを取っていない。また人文研に行かないとなぁ。

現時点で、清代中期の地方志から得られた同時期の塩引数と、『清塩法志』から得られた清末の塩引数が、中国主要部について得られている。
次に行う作業は両者の比較である。以前の論文で調べた広東・広西や先日チェックした江西などでは、両者はほぼ一致する。
他の地域でも同じ結果が得られるのであれば、そして塩引一道あたりの塩斤数に大きな変動が見られないのであれば、清代中期から後期にかけての人口増大は、私塩によって賄われたのだと判断できる。
この時期の塩税収入についても調べなければならないが、両広の事例からすれば、かなり増えていることは間違いない。
つまりは、税収増の要求に対して、塩の供給増ではなく、税率の上昇で対応したわけであり、それが社会矛盾を増大させたのである。官塩が売れなくなるので、それを賄うためにも塩商人による私塩が激化したというわけである。

仮にそれが妥当であるとして、ここまでは広東についての研究の結論と同じである。
いやまぁ、多分ここまでで一本分の論文になりそうだが、本題はこの先になる。
明代はどうなのだろうか?
明代中期から後期にかけても同じ現象が見られたとするなら、これは中国近世史において、一般的な現象であると考えられる(宋代のことは、今は忘れることにする。理由は、僕は宋代について何の研究も行っていないこと、史料上の制限、そして明代後期から大量の銀が流入し、経済構造そのものが変化したと考えるためなのだが、まだ根拠を揃えて説明できない)。

近世中華帝国において、課税対象を財政需要に対して柔軟に拡大させることが出来なかったという僕の仮説は、もちろん塩政についての研究のみからでは立証不充分である。これをやるには財政そのものについての研究が必要となる。
これについては、岩井茂樹いう原額主義、つまり「経済の拡大に対応しない硬直的な正額収入と、社会の発展と国家機構の活動の拡大とにともなって増大する財政的必要とのあいだの不整合、およびこうした不整合を弥縫するための正額外財政の派生を必然的にともなう財政体系の特質を表現する名辞」(『中国近世財政史の研究』p.357)から、何らかの示唆を得られないかと考えている。僕の理解では、原額主義とは、国初(例外もあるが)において定められた正規の税収額(正額)が、硬直しがちであって財政の需給に対して柔軟に変化しにくく、そのため非正規の税収が拡大しがちであったという財政的傾向のことである。

原額主義の概念が対象としているものに、塩引というものが包摂されているのかどうかは、岩井先生に聞かないと分からないが、中国の財政はカネのみならず食糧も含まれていること、そして塩引はそれらと一定の関係を有している──塩引の「価格」は公定されていて、あまり変動しない──ことから、対象に含まれていると考えて良いだろう。
清末の両広塩政の事例から、塩引一道あたりの税収を増やすために税率を上げた時の内訳を見ると、課税細目そのものが増えていて、細目内の税率が変わったわけではないことが分かる。
つまり、清代中期には、塩引一道に対して「A」という課税細目が定められており、それに対して1両とかの税(塩課)定められているわけである。これが清末になると、「A」だけでなく「B」や「C」が附加されて塩税が高められていくことになる。この時、「A」の額そのものはあまり変わらない。
要するに、「A」が正額であり、「B」や「C」が非正規の附加税というわけである。非正規の附加税といっても、実際には塩価の中に繰り込まれているので、取引の際には塩税が増えたようにしか見えない。
ちなみにこの細目は清の最末期に統合されようとするが、実際に統合されたのは民国に入ってからのこととなる。明代の一条鞭法と似たような展開を見せたわけだ。
一条鞭法とはつまり、「A(正額)」・「B」・「C」というあった税目が「A’」に繰り込まれる現象を指す。しかし、清代になると「D」・「E」といった感じでさらに附加税が加わることになる。
民国初期に統合された塩税は、一条鞭法のようなさらなる附加税を課されたのだろうか? このあたり興味深い話だが、まだ調べていない。調べるかどうかも不明というか、もう民国以降には手を出したくなかったのだが、こうやって書いていくうちに興味をそそられるようになった。また折を見て調べてみることにしよう。

話を戻そう。塩政において原額主義が適用され得るのかという問題については、然りと思われる。根拠不足なので「考えられる」と断定できないのが残念だが、まぁ清末については、原額主義の概念から作られたモデルで説明できそうである。
問題は、「何故」という部分である。清代中期の両広塩政についての研究の中で、僕は塩務官僚にとって、硬直的な塩の課税額を柔軟に変動(というか増大)させるには、政治・経済的安定期であり財政的需要がなかったことから肯定的になる動機がなく、むしろ人事査定上のハードルが上がってしまうという否定的な要素が強かったためであると考えた。
官塩供給量を増やすには、私塩に対する競争力を確保するためコストを下げねばならず、かつ土地の有力者や塩商・末端の塩務官僚・胥吏などから構成される私塩流通システムを敵に回すという政治的リスクを冒さねばならない。
政治・経済的に安定していた清代中期ならともかく、その双方が混乱していた清代後期に、それを行えるだけの余裕はなかっただろう。
よって、塩制改革は行われなかったわけである……が、清代後期の塩制についてのみの話ならともかく、塩税制度全体について述べるには不充分だ。硬直的な塩税徴収システムが改革されなかった理由の説明にはなっても、なぜ硬直的なシステムが採用されていたのかという説明にはなっていない。

清代の塩制は、基本的に明代のそれをそのまま踏襲している。精緻化しただけともいえる。つまりは、硬直的な(逆に言えば、その枠の範囲であれば運用しやすい)システムもそのまま引き継いだわけである。
柔軟に塩税収入を増減できるシステムとなると、これは需給量についてそれなりに正確性の高い予想が出来ていないと、成立しない可能性がある。
年によって出来不出来のある穀物ほどではないが、塩の需給量はそれなりに変動する。
具体的には、人口に対して一定割合の需要があるわけだから、塩の需要は人口数に比例する。逆に言えば、塩の需要は人口数が分からなければ予測できない。
明や清の人口把握は、清代中期、康煕50年(1711)に盛世滋生人丁として人丁税を免除するまでは、非常に不正確なものだったとされている。人口台帳ではなく課税台帳だったため、皆まともに申告しなかったためだ。
となると、清代中期以前において、塩の需要量を把握することはほとんど不可能だったはず。そう考えると、硬直的な制度を採用するのもむべなるかな。
つまり、「量入制出」か「量出制入」かという昔ながらの財政論議になるわけである。ここでは「制入量出」だが、まぁ同じことだ。中国では唐代に両税法が採用され、「量入制出」から「量出制入」へと変わって以来、硬直的な(あるいは確実性の高い)財政原則が用いられてきた。
これは要するに、豊作不作に関わりなく、一定の租税を徴収して政府のフローを確保し、需要(例えば不作)に応じてそのフローから支出する仕組みである。中国のような中央集権国家では、こうした中央のフローが大きい方が、行政に都合が良い。というか、中央のフローが大きくなったから、中央集権が進んだと考えるべきか。

唐代・宋代の財政については何の勉強もしていないので、改めて調べてみる必要があるが、ここまで書き連ねてきたことから判断すれば、「昔から硬直的な(制入量出)財政原則があったので、塩制についても同じようにした」ということになる。
「制入量出」の財政原則があり、また清代中期になるまで人口動態を把握できるほどの行政能力がなかった(正確には清代中期に行政能力が高まったわけではなく、財政需要が低下したため人口把握を放棄した結果、かえって人口数の正確な把握が可能になっただけなのだが)ことから、塩税徴収システムは、他の徴税システムと同様、硬直的なものだった。清代後期に至るまでこれを改革する動因は働かず、また清代後期になると改革への動因は生じたが、改革を行うのに必要なコストを払えず、結果システムを改革せずに税収の増加を求め、システムを破綻させた──この推測が正しいとして、「清代」の部分を「明代」とか「元代」とか「宋代」としても通じるのであれば、これは両税法導入以降、一般的な財政構造だったと考えることが可能となる。

はてさて、つらつらと書いてきたことは正しいのだろうか。というか、定量的な実証が可能なのだろうか。
とりあえず清代と、出来れば明代については検討してみたい。明代後期からの銀の大量流入により、色々と変わったとは思うが、その次のことはそこまでの分析が終わってからだろう。

2010年12月23日木曜日

師走二十三日

ヤマと見ていた先週が終わり、何とか一息付けた。
今のところ、致命的な……というと言い過ぎだが、大過なく過ごせている。
あと一週間弱で、とりあえず年内は終わる。まぁ、何とかなるだろう。


色々と疲れてきているので、ゲームとかはあまりしていなかった。

A)帰宅→スキャン作業→酒飲んでニコニコ見て寝る
B)帰宅→酒飲んで仮眠→スキャン作業→酒飲んでニコニコ見て寝る

ダメだね。これは。
我ながらダメダメなので、頭を使わなくても出来る仕事を進める。
具体的には、先日来続けている『清塩法志』のデータ整理。
各地の行塩引数をExcelもといOpenOfficeのCalcに投げ込む。
中国のほとんど全ての県名を入力し、それぞれに対応するデータを打ち込む。
甘粛・新疆や東北三省などの、塩政からはやや切り離された地域は除外し、山東・雲南のデータはまだコピーを取っていないのでこれまた除外し、広東・広西は作業を終えているのでこれも外すとしても、900近い県や州が存在する。
こうした地名をいちいち入力し、それぞれに数件の塩引データを入力する。今こうやって書いている文章を見直すとうんざりしてくる話だが、まぁやりましたよ。ほぼ。残るは福建だけ。
素面でこんな事をやりたくはないのだが、酒を呑むと単純作業であっても──むしろ単純作業だからこそ──作業にならなくなるので、作業用BGMを聴きながら。

ここからBGMをセレクトしていたのだが、Cowboy Bepopと攻殻と平沢進は作業用BGMに向いていないことがよく分かった。

作業用BGMとして一番良く使っているのは、しらは作品集。もう何回聴いたことか、サッパリ覚えていない。作者サイトからmp3を落としてiPodに入れて聴いたりもしているので、三桁にはなっているはず。良く飽きないモノだ。
東方のアレンジ曲なのだが、僕のように東方をやり込んでいるわけでもない人間でも楽しめる。
ちなみにいまも聴いている。


スキャン作業は、結構順調になってきた。時間そのものはだいたい2時間程度を割り当てることにしており、短くすることを重視していない。
逆に、スキャン作業しながらでも出来る仕事を進めるようにしている。料理や掃除なんかは結構出来るものである。

池波正太郎の「鬼平」と「剣客商売」を始末できたので、もっぱらそれを読んでいる。何度読んでも面白いね。
「梅安」シリーズはまだだが、これは冊数が少ないので。池波正太郎のシリーズものでは、「真田太平記」はまだ集めていないのだが、もう少し片が付いたら集めようかと思う。

他に佐藤大輔と谷甲州の本も、だいたい片付きつつある。RSBCの文庫版がまだ残っているが。

あと、「グインサーガ」シリーズがまだ手つかずだ。栗本薫の小説は、これと「魔界水滸伝」ぐらいしか読んでいない。「魔界水滸伝」は昔処分してしまったので、手元にない。
「魔界水滸伝」はそれほど面白いとは思わなかったが、横山信義の「八八艦隊物語」は、処分したことを後悔している。
他にも色々と棄てたからなぁ。今にしてみればもったいない話だ。

文庫と新書を主に処分してきたのだが、最近は雑誌類も対象としている。雑誌といっても一般雑誌は持っていない。専ら学術雑誌。
A5サイズのオーソドックスなものが大半だが、一部B5サイズの少し大きいものも混ざっている。一般書ではなく学術雑誌を処分するのは、こいつらはあまり頻繁に読まないため。
本当を言えばA5サイズを読めるKindleDXかiPadかGalapagosの大きいヤツが手に入るまで待ちたいのだが、カネがないのでまだ先の話になる。
学術雑誌の場合、気楽に読むことはあまりないので、必要に応じてPCで読めばいいという判断である。

こうして少しずつ空きスペースを増やしているのだが、まだあまり片付いたという実感はない。まぁ、まだ200冊程度しか減らしていないので、そんなものだろう。
一ヶ月200冊とすれば、来月の今ぐらいになれば、多少は実感が湧くだろうか。

2010年12月12日日曜日

師走十二日

このところずっと忙しいのだが、それに輪をかける状況になっている。
正確には「忙しい」というよりは「休みがない」というべきだろう。具体的には月月火水木金金。

まぁ、幸いにして体調は大きくは崩れていないので、一番の山となる今週を乗り切れば、年末に向けて少しは楽になるはず。
体調は崩れていないとはいえ、酒量が増えている。
ジンなどの蒸留酒をグラスに二杯。シングルとかダブルとかではなく、グラス八分目ぐらい。まぁロックだが。ちなみに水割りはまず呑まない。父が角瓶を好んでいるので、実家に帰った時にそれを呑むときには水割りにする。日本のウィスキーは水割り向けに出来ているためだ。

たまには休肝日を設けるべきだろうが、なかなかうまく取れない。もう少し意識するべきだろう。


さて、しばらくお休みとなっていた研究だが、作業を再開した。
作業工程としては、

① 地方志から清代中期の行塩数を求める。
② 『清塩法志』から清代末期の行塩数を求める。
③ 曹樹基『中国人口史:清代巻』より清代中期から末期にかけての人口の増加を求める。
④ ①から②の官塩供給料増加分と③で求められる人口増加分を比較する。

④の結果、前者より後者の方が大きければ、塩需要の増加に対応する努力を放棄し、私塩で賄うに任せていたという仮説が、少なくとも数字の上では裏付けられるわけである。
これを可能な限り各省について行う。とはいえ広東や広西などは作業済みだし、江西は先日行った。また満州や新疆などは、あまり詳しくチェックする必要はあるまい。一応は確認しておくつもりだが。
比較作業自体は簡単、というかデータを入力すればほぼ同時に判明することなのだが、その入力作業が面倒臭い。面倒なのでやらなかっただけで、要するにただの怠慢である。
怠慢というだけなのであれば、気合いを高めればなんとかなる。なかなか高まらないのが問題なのだが、まぁそこは頑張ることにする。しばらくさぼっているということからくる後ろめたさが最大の推進力である。なんという後ろ向きな。

なるべく頑張って年内には終わらせたいところ。頑張るという言葉は僕の嫌いリストでも三傑に入るほどなのだが、他に手がないとあっては仕方がない。

2010年12月4日土曜日

師走四日

先週、大学で学会が開かれた。
この時期、どこでもこの種のイヴェントが続くのだが、今回のは民衆運動についてがテーマ。科研費が来年春で切れるので、締めの会というわけである。
科研に参加していた研究者に、明清を専攻とする人間が多かったこともあり、割とそっち方向が濃い内容となった。
まぁ、主導していた先生が明代専攻だったことが大きいのではないかと思うが。もうひとりの主導役がウチの先生なのだが、こちらは魏晋南北朝の人。よってそちら方面のひとも結構多かった。
いろいろと下働きをさせられたのだが、まぁそれはそれで。ついでに発表そのものについてのレヴューもしない。来年春ぐらいにまとまった形で出版されることになっている。
以下は、発表を聞きながら思ったこと。

様々なテーマがあったのだが、そのうちの一つが、いわゆる唐宋変革の結果、何か変わったことがあったのだろうかというものだった。
変化として挙げられたものの一つに、史料の数がある。
明代以降は、史料数が非常に多い。それは今回でも、新規発見された史料についての発表があったことからも窺える。よって、潤沢な史料を整理し、そこから新たな知見を組み立てるという形になる。注意すべきは、都合のよい史料だけで論を構築しないように心掛けることであろう。
唐代以前は、史料数が極めて少ない。よって、特定の史料を様々な角度から解釈するというかたちになる。牽強付会に陥ることは、避けねばなるまいが。

宋代を専攻とする研究者が、宋代のうち北宋は唐代以前に、南宋は明清に近い性格を持っており、過渡期的な特徴を有すると発言していたことが印象深い。唐宋変革で何もかもが変わったわけではなく、宋代から明清にかけて、ゆっくりとした変化が続いていったというわけである。
時代区分についての発言があったわけではないが、僕としても、急な変化などというものはそうそうあることではないと思っていたので、重なるところが多い。

通史的な発表はふたつほどしかなかったのだが、いずれも中国民衆運動史を専攻する研究者の発表ではなかったことが印象に残った。民衆運動史全体を通観して、変ったものと変わらなかったものとして、どんなものがあるのか、という議論は少なかったように思う。この科研そのものがワークショップ的なものであり、そうした結論を導き出す場ではないというのはあるだろうが。

発表のひとつに、中国の大きな枠組みは古代の時点で完成しており、循環するのみで変わるところはなかったとする古い議論を紹介しているものがあった。
これは古典的な中国停滞論のひとつではないか(オリジナルをチェックしていないので確言はできないが)と思うが、戦後日本(おそらく中国も含めて)における中国史研究では、中国停滞論からの脱却という観点を強調しすぎるように思われる。

発表でもあったのだが、ある王朝の末期に、失政や天変に伴って民衆反乱(昔は農民反乱もしくは起義なんていった)が勃発し、その結果、王朝は交替する。この過程で土地が荒廃して人口は減少する。
新王朝においては、前代の官僚や王族などは残っておらず、行政はスリム化されている。
荒廃した土地への開発が進み、人口が増加する。また新規開発地への移住、開発も進む。
この過程で官僚などが増大し、民衆への負担が増大する。
社会矛盾も強まり、最終的には民衆反乱へと至る。

この模式化されたサイクルは、中国史上で起きた数多くの民衆反乱を説明できるほど一般的なものなのだろうか。
確か岸本美緒も顧炎武の歴史認識として書いていたと思うが(論文名は忘れた)、彼らは中国の歴史を循環的なものとして認識していたとある。循環を停滞ととらえるべきか否か、また循環するもの以外の変化、たとえば冒頭で挙げた唐宋変革で生じた変化は明清時代にまで至って深まっていったことなど、長期的な変化として、どのような整理が可能か。
僕の認識としては、量的変化と質的変化として整理される。わかりやすいサンプルを示すと、総GDPとひとりあたりGDPである。アンガス・マディソン(今年の4月24日に亡くなっていたそうだ)が採った手法である。
他にもあるだろう。これまで積み上げられてきた定性的分析に、人口や反乱数などといった数値資料を用いた定量的分析を組み合わせることはできないか。

ま、言うは易く行うは難い類の話ではあるが、個別事例の研究の深化と、数値情報の入手・整理が容易になった現代なら、不可能ではないと思う。