数か月にわたり自炊を行ってきた結果、ある程度知恵がついてきた。
ダブルフィードを起こしやすい紙は、薄い紙、そしてざらついた紙など。天辺がぐしゃっとなっているのもダメ。
ちなみにこの条件をすべて満たすのは、中国の90年代以前の本。やはり安い紙を使っているだけのことはある。近年出版の本は、比較的良質の紙を使っていることが多いのだが。
こういう紙の本であっても、上手くいくときは上手くいくのだが、ダメなときにはどうにもならない。
仕方ないので、一枚ずつフィーダに送ることになる。これは面倒くさいし、また時間ももったいない。とはいえ、ほかに手段がないとあっては仕方もない。
中国の本でスキャニング対象としているのは、中華書局の『明史』と『宋史』である。これはいわゆる正史シリーズのやつだが、僕が持っているのはこの二種だけである。実際のところ、正史を見る必要がある場合、中央研究院を使う場合が多いので、持っていてもあまり役に立っていない。そのくせ、それぞれ28冊と40冊という大容量なので、場所だけは喰う。研究書や資料を裁断するのはあまり気が進まないのだが、こいつらは例外となったわけである。
他にも、コミックなんかも一部の奴は裁断してしまってもいいかもしれない。文庫本タイプの奴とか。
まぁ、まだまだ部屋は片付いていないので、今しばらくスキャニング生活が続く予定である。こればかりやっていると、他の仕事に手が回らないので、しばらくサボるというのもいいかもしれないが。
2011年2月15日火曜日
2011年2月4日金曜日
如月四日 方針転換
少し、研究が行き詰まっていたことから、方針を変えることにする。
とはいっても、それほど変化があるわけでもないが。
まず、これまで行ってきた作業は、各省の府県に対する行塩数を列記し、清代中期のそれと清代後期のそれとを並べ、塩引発給数の増減を比較することで、人口の増大に対する官塩供給量の対応がなされているか否かを明らかにするという方針に基づき、行われてきた。
だが、これを進めていると、うまく行く地域とうまく行かない地域とがあることが分かってきた。
というのも、大まかな部分では調べがつくのだが、細かい部分で表から漏れている地名があったり、よくわからない理由で数字が変わっていたりするわけである。
おそらくは、精査すればそれぞれの問題点についても解消できるのだろうが、中国全土に対してそこまで手間暇をかけていられない。
かといって、都合のいい部分だけを抜き出して、こちらの結論に結び付けることは、それがおそらくは正しい結論を示しているのであろうとしても、許されることではない。研究は過程が大事なのだ。
というわけで、別のアプローチを持ってきた。
今度は、各行塩地の塩引数の増減を調べることにした。以前、清代初期の両広塩政について行った際に用いた手法である。
これも、細かい部分は史料の不整合や漏れがあったり、あるいはこちらの誤解が生じたりして、なかなかすっぽりとはまらない。
行塩数が変化するたびに全体の塩引数についても列記してくれればありがたいのだが、そこまで親切ではないのである。
が、少なくとも清代初期に塩政を開始した時の塩引数(原額)と、それぞれの史料が編纂された当時の塩引数は、当然ながら記されている。史料によっては、ある特定の時期についても記載している。
そういう数値をマイルストーンとすれば、細かい部分で不整合があっても、大体のめどはつく。
それに、こちらが行うことは、数字合わせのパズルではなく、どの時期にどの程度の頻度で、そして分かるのであればどういう理由で行塩数が変化したのかということである。
今のところ、長蘆と両淮についてその作業を行ったが、どちらもかつて行った両広と同じ傾向を示している。つまり、雍正から乾隆初年ごろまではある程度の頻度で塩引は増減していたが、清代中期ごろからは、ほとんど塩引数は変化していないのである。
あと、両浙・福建・四川と、山東・雲南・河東あたりを行えば片がつく。後三者については、いま史料がないのだが、まぁあまり重要でもないので、後回しにしても良いだろう。
この作業をよすがとして、省単位の調査とを比較すれば、おそらく楽にできる。省についてはすべてを調べる必要もあるまい。
そうすれば、次の作業となる。なぜ清代中期に塩引数を人口の増加に対応させなかったのか。
推論としては、財務及び塩務官僚にその動機がなかったため、ということになるが、直接的な史料は存在するのだろうか。不在を証明するのは非常に難しいのだが、ある程度はチェックしておかねばなるまい。たぶん無いだろうけど。動機のないことをわざわざ文章化する人間はいないものなぁ。
とはいっても、それほど変化があるわけでもないが。
まず、これまで行ってきた作業は、各省の府県に対する行塩数を列記し、清代中期のそれと清代後期のそれとを並べ、塩引発給数の増減を比較することで、人口の増大に対する官塩供給量の対応がなされているか否かを明らかにするという方針に基づき、行われてきた。
だが、これを進めていると、うまく行く地域とうまく行かない地域とがあることが分かってきた。
というのも、大まかな部分では調べがつくのだが、細かい部分で表から漏れている地名があったり、よくわからない理由で数字が変わっていたりするわけである。
おそらくは、精査すればそれぞれの問題点についても解消できるのだろうが、中国全土に対してそこまで手間暇をかけていられない。
かといって、都合のいい部分だけを抜き出して、こちらの結論に結び付けることは、それがおそらくは正しい結論を示しているのであろうとしても、許されることではない。研究は過程が大事なのだ。
というわけで、別のアプローチを持ってきた。
今度は、各行塩地の塩引数の増減を調べることにした。以前、清代初期の両広塩政について行った際に用いた手法である。
これも、細かい部分は史料の不整合や漏れがあったり、あるいはこちらの誤解が生じたりして、なかなかすっぽりとはまらない。
行塩数が変化するたびに全体の塩引数についても列記してくれればありがたいのだが、そこまで親切ではないのである。
が、少なくとも清代初期に塩政を開始した時の塩引数(原額)と、それぞれの史料が編纂された当時の塩引数は、当然ながら記されている。史料によっては、ある特定の時期についても記載している。
そういう数値をマイルストーンとすれば、細かい部分で不整合があっても、大体のめどはつく。
それに、こちらが行うことは、数字合わせのパズルではなく、どの時期にどの程度の頻度で、そして分かるのであればどういう理由で行塩数が変化したのかということである。
今のところ、長蘆と両淮についてその作業を行ったが、どちらもかつて行った両広と同じ傾向を示している。つまり、雍正から乾隆初年ごろまではある程度の頻度で塩引は増減していたが、清代中期ごろからは、ほとんど塩引数は変化していないのである。
あと、両浙・福建・四川と、山東・雲南・河東あたりを行えば片がつく。後三者については、いま史料がないのだが、まぁあまり重要でもないので、後回しにしても良いだろう。
この作業をよすがとして、省単位の調査とを比較すれば、おそらく楽にできる。省についてはすべてを調べる必要もあるまい。
そうすれば、次の作業となる。なぜ清代中期に塩引数を人口の増加に対応させなかったのか。
推論としては、財務及び塩務官僚にその動機がなかったため、ということになるが、直接的な史料は存在するのだろうか。不在を証明するのは非常に難しいのだが、ある程度はチェックしておかねばなるまい。たぶん無いだろうけど。動機のないことをわざわざ文章化する人間はいないものなぁ。
2011年1月28日金曜日
睦月廿九日 ファンタジー世界の財政
D&Dのゲーム世界構築のため、ちょいと手すさびに経済規模などを仮設定してみた。
今遊んでいるキャンペーンは、クランスチャンという惑星のグランビルという大陸が舞台である。
サイズは約540万平方キロメートル。アメリカ、カナダ、中国などが1000万平方キロメートルなので、その半分強というところである。オーストラリアが770万平方キロメートルなので、それを一回り小さくしたものと考えればいいかも知れない。なお、大陸北辺はシルトと呼ばれる針葉樹林帯で、ここには入植はなされていない。ここを加えればもっと大きくなる。
このシルトには、部族や村単位でゴブリンやエルフ、人間などが住まっている。
ここ数年、寒波が強まっており、これまで住んでいた地域では暮らせなくなったシルティス(シルトの住人)たちが南方へ移住し、それが混乱を引き起こし……というのが、大きな流れである。
グランビル大陸の人口は、約3000万人と設定した。
これは、かつて大陸西方のヘイストートスという都市を、「大陸最大の100万都市」などと設定したことに始まっている。ちなみに僕が高校生頃のことだっただろうか。
もう少し知恵がついてから考えると、100万都市などというものは、古代ローマとか近世では江戸・北京・ロンドンとかがあるが、中世には多分存在しない。
実際、100万都市を食わせる方法を考えるだけでも気が遠くなってくる。かなりの食糧生産能力が必要となり、相応の後背地が必要となるが、ヘイストートスを握るスィクレストン王国は、そんな巨大国家ではない。アメリカでいえば、カリフォルニアぐらいか。もうちょいあるかな。
「食糧なんて、輸入すればいいじゃない」と言いたいところだが、食糧などという重い割に値段の安い商品は、この時期の商人にしてみれば、好んで扱いたいブツではない。中華帝国クラスの強力な中央集権国家なら別だが、たとえばヴェネツィアなどはなんとか食糧を確保しようと汲々としていたぐらいである。
結局、100万都市は誇大表現で、都市周辺の人口を含むことにした。それでも大した物ではあるのだが。
これを基準にすると、大体の目処がつく。
スィクレストン王国など、仲の悪い西方三国は合計200万×3。
大陸中央に位置し、最大国家のホルニッセ帝国は、八つの選帝卿領と皇帝直轄領、光教会直轄領、西方辺境領それぞれひとつを持つ。
選帝卿のうち、東側のふたつは10年ほど前の戦争で完全に荒廃してしまっている。
というわけで、西側六つと皇帝直轄領は150万人、東側ふたつと教会直轄領は50万、西方辺境領は100万人とし、合計1300万人とした。
大陸東側のリッジウェイ帝国は、土地の広い東側が500万、狭い西側が300万、合計800万とする。
その他、亜人間各種族など、少数民族が300万人。
総合計で3000万。
この数字が多いのか少ないのか、判断に困るが、社科実情データ図録という便利なサイトがあり、ここのヨーロッパの超長期人口推移というところから引っ張ってくると、十字軍のころのヨーロッパがおおむね4000万人ぐらいだったらしい。
ただし、この世界の設定は、地球でいえば近世に入る直前から15世紀初期ぐらいを想定しているので、ペスト大流行(14世紀半ば)前のヨーロッパの人口が7000万人だったことを考えると、半数以下である。ちと少なめというところか。
しかし、この世界は150年ほど前に世界規模の大戦争を演じており、その際に人口が激減していてもおかしくないので、まぁ良いとする。
次に所得水準を設定する。
まず、農民、兵士、徒弟、貧乏な聖職者などの貧乏人、つまり平均的な人間1世帯が1日の生活に必要なカネ(というかモノを含めた価値)は、この世界の通貨で100ラートとしている。これは銀貨1枚で、無理やり現代日本円に直すと、5000円となる。無理やりと断ったのは、前近代社会と近代社会とでは、食糧のような消費財と、家具や服のような耐久消費財、武器や奢侈品などで、ずいぶんと価値が異なるためである。
ちなみに1ラートの価値は、消費財なら50円、耐久消費財なら100円、武器や奢侈品は200円で換算している。
富農、店を持つ商人、正規の職人、将校、ある程度まともな教会の司祭などが中所得層となる。彼らが自分の身分を保つために必要とする消費を行うには、200ラートを必要とする。日本円に換算する場合は100円のレートを使い、20000円と考える。
今でもある程度そうだが、ある社会階層であることを社会的に認知させるには、一定の服装や装飾品、食事や住居を持つことが要請される。ひとは他人の外見を見て、その人物を判断するのである。
で、貴族や大商人、将軍(普通は貴族と同じ意味)、高位聖職者などは、400ラート以上を必要とする。日本円に換算する場合は200円のレートを用い、80000円と考える。もちろん、上級貴族や王族となるとまた別になるが、それは措く。
で、次は税率。これは直接税と間接税の問題、階層状に形成されている各領主の取り分、教会の取り分など、かなり複雑に構成されている。
ここでは単純に、直接税のみを考えるものとし、最上位(王や皇帝。ホルニッセ帝国のみは例外で選帝卿)の取り分が10%、教会が10%、所属領主が30%とする。この数値が地球の史実に照らし合わせて妥当なのか判断が付きかねるが、5公5民なら少ないような気もする。まぁ、ここに出てくる数字以外の収入や収奪があり、そこで帳尻を付けているものとしておこう。
さて、以上の設定によれば、ホルニッセ帝国のある農民が100ラート払う場合、10ラートは選帝卿、10ラートは教会、30ラートは領主の騎士に払う。
ここで、人口100人(20世帯)の小さな村を考えよう。
騎士は、20×30ラートを得ることになるが、彼もまた収入の30パーセントを上級領主たる男爵に支払わねばならない。つまり、600ラートのうち180ラートを支払い、420ラートが手元に残る計算になる。まぁ、高貴なる身分の人間に必要な支出は、かろうじて賄えそうである。
ちょと話が脇に逸れるが、これは騎士ひとりを捻出するのに必要な最低規模をも示している。D&Dのゲーム設定では、人口20~80(4~16世帯)を集落としているが、この規模では騎士を養えないわけである。騎士ひとりを養うには100人の人口が必要である。
この数字が妥当なのかどうか、判断する材料を持ち合わせていない。そもそも、その世界における軍制(騎士の軍事的位置づけ)によって変化が出るし、当然、それを支える経済力が問題となる。貧乏人100人よりは豊かな100人の方が、養える騎士数の多いことは自明である。
ま、そういうわけで、この数字はこの世界の便宜上のものとする。この世界は比較的裕福な設定にしてあるので、この程度なら養えるだろう。
さて話を戻そう。420ラートを得た騎士だが、彼は領民のように選帝卿や教会に対して収入の10%を支払う必要があるのだろうか。
騎士が教会や王(選帝卿)に納税する義務があるのかというと、ここは微妙だ。王権や教会権の大きさや歴史的経緯に左右される。とりあえず、グランビルの諸国家では、王権は今ひとつ強くなく(少なくともホルニッセ帝国の皇帝の財政上の権力は弱い)、また教会も中世ヨーロッパのキリスト教会ほどには強くないと考えておき、騎士には納税の義務はないものとしておく。このあたりは変えるかも知れないが。
なお、仮に10%を教会に支払うとした場合、この騎士の収入は420-30=390ラートとなり、騎士身分を維持できなくなることになる。税率を上げるか、騎士を養うに足る村の規模を大きくするしかないということになるわけだ。
騎士は、180ラートを男爵に支払う。
男爵領の平均人口はどうなるのだろうか。
これも舞台によって大きく変わるのだが、かつてゲームで用いた設定で、レジオス子爵領という領土を設定した。ここはかなり裕福な領地で、4つの連隊を有しているとしている。連隊長は男爵相当(軍制については長くなるので説明しない)なので、4人の男爵がいてもいい勘定になる(実際にはひとりしかいないのだが、それも措く)。
レジオス子爵領の人口は約20万人である。つまり、男爵領ひとつあたり5万人の領民がいる計算になる。騎士数に直せば500人である。まぁ、実際にそんなに騎士がいるとは思えないが。
仮にそのまま計算を進めれば、500人の騎士が180ラートを支払えば、9万ラートとなる。うち30%の2.7万ラートは子爵に送られる。
子爵は2.7万×4と行きたいが、実際には子爵は男爵領ひとつを直轄地に持っているので、2.7万×3+9万で17.1万ラートの収入となる。
子爵の次は伯爵だが、ホルニッセ帝国においては、選帝卿に組み込まれている伯爵は子爵とほぼ同じ扱い(格だけは上)なので、この上は選帝卿(侯爵と公爵の差はない。これについても措く)になる。
レジオス子爵の上位は、オラーニュ選帝卿である。オラーニュ選帝卿の下には、レジオス子爵領以外に3つの子爵・伯爵領と、直轄領がある。つまり5つの領土があるわけである。仮にこの基準を当てはめるとしたら、17.1万ラートの収入を得た子爵は、30%の5.1万ラートを選帝卿に納めるので、選帝卿の収入は、5.1万×4+17.1万=37.5万ラート。
この計算は、一日あたりの収入なので、歳入を計算してみると、1.4億ラート。日本円換算で70億円。
これに加え、選帝卿は民が直接払う10%税を得る。このモデルにおける人口は、20万×6で120万人となっているので、ひとり10ラート支払うわけだから、一日あたり1200万ラート。一年では43.2億ラートとなる。手下の諸侯や騎士からの揚がりなんて目じゃないね。
ちなみに日本円で4320億円。あまり意味のある比較ではないが、Wikipediaによると、2005年の大分県の人口がだいたい120万人である。で、大分県の予算規模は、5904億円(2009年度)。
本当なら15世紀初頭頃のヨーロッパで、人口120万人ほどの王国の予算規模を知りたいのだが、まぁ無理だろう。
こんな感じでデータを作っていると、他にも色々と想像を巡らせられる。
例えば、オラーニュ選帝卿領の常備兵力は、120万人の人口に対して12000人の騎士として表せる。これはプファルツやピエモンテなど、他の選帝卿家でも同じ事。
が、オラーニュは歩兵を重視しており、騎士ひとりに対して歩兵が約10人程度就く。つまり、騎兵1.2万と歩兵12万人をさほど無理なく動員できると設定できるわけである。
プファルツは騎士を重視しており、騎士ひとりに対して、従騎士ひとり、歩兵4人が就く。つまり、騎兵2.4万と歩兵4.8万を動員できる。プファルツの方が強いのではないかと思うところだが(いや、実際帝国最強としているが)、プファルツの歩兵はオラーニュのそれほど高い戦闘力を持っていない。これは個人戦闘能力の問題ではなく、軍制上、プファルツは歩兵を重視していないためである。オラーニュは歩兵を重視しており、弓兵として使えるよう訓練しているため、総合戦闘力としては、さほどプファルツに劣るわけではないということになる。
で、ピエモンテは騎士ひとりに対して歩兵が2人ほどしか就かない。つまり騎兵1.2万と歩兵2.4万。しかもこの歩兵はプファルツのそれ同様、騎士の護衛となる従卒として使われるので、オラーニュのそれほどの戦闘能力を持たない。
それではダメなのでは? となるが、ピエモンテはその分のカネを平時は経済活動に投じ、有事には傭兵を雇用することで賄っている。傭兵の戦闘能力は高いので、これはこれで馬鹿にならない。他の諸侯も傭兵は使うのだが、ピエモンテとは異なり、補完的に用いている。
このようにして各諸侯を個性付けていくわけである。なかなか楽しいのだが、面倒くさいのもまた事実。
これに、教会組織をどうのこうのとか、間接税や商人たちの資本移動なんかを考え出すと、面白くはあるのだが時間がいくらあっても足りないので、とりあえずこんなところとしておく。
今遊んでいるキャンペーンは、クランスチャンという惑星のグランビルという大陸が舞台である。
サイズは約540万平方キロメートル。アメリカ、カナダ、中国などが1000万平方キロメートルなので、その半分強というところである。オーストラリアが770万平方キロメートルなので、それを一回り小さくしたものと考えればいいかも知れない。なお、大陸北辺はシルトと呼ばれる針葉樹林帯で、ここには入植はなされていない。ここを加えればもっと大きくなる。
このシルトには、部族や村単位でゴブリンやエルフ、人間などが住まっている。
ここ数年、寒波が強まっており、これまで住んでいた地域では暮らせなくなったシルティス(シルトの住人)たちが南方へ移住し、それが混乱を引き起こし……というのが、大きな流れである。
グランビル大陸の人口は、約3000万人と設定した。
これは、かつて大陸西方のヘイストートスという都市を、「大陸最大の100万都市」などと設定したことに始まっている。ちなみに僕が高校生頃のことだっただろうか。
もう少し知恵がついてから考えると、100万都市などというものは、古代ローマとか近世では江戸・北京・ロンドンとかがあるが、中世には多分存在しない。
実際、100万都市を食わせる方法を考えるだけでも気が遠くなってくる。かなりの食糧生産能力が必要となり、相応の後背地が必要となるが、ヘイストートスを握るスィクレストン王国は、そんな巨大国家ではない。アメリカでいえば、カリフォルニアぐらいか。もうちょいあるかな。
「食糧なんて、輸入すればいいじゃない」と言いたいところだが、食糧などという重い割に値段の安い商品は、この時期の商人にしてみれば、好んで扱いたいブツではない。中華帝国クラスの強力な中央集権国家なら別だが、たとえばヴェネツィアなどはなんとか食糧を確保しようと汲々としていたぐらいである。
結局、100万都市は誇大表現で、都市周辺の人口を含むことにした。それでも大した物ではあるのだが。
これを基準にすると、大体の目処がつく。
スィクレストン王国など、仲の悪い西方三国は合計200万×3。
大陸中央に位置し、最大国家のホルニッセ帝国は、八つの選帝卿領と皇帝直轄領、光教会直轄領、西方辺境領それぞれひとつを持つ。
選帝卿のうち、東側のふたつは10年ほど前の戦争で完全に荒廃してしまっている。
というわけで、西側六つと皇帝直轄領は150万人、東側ふたつと教会直轄領は50万、西方辺境領は100万人とし、合計1300万人とした。
大陸東側のリッジウェイ帝国は、土地の広い東側が500万、狭い西側が300万、合計800万とする。
その他、亜人間各種族など、少数民族が300万人。
総合計で3000万。
この数字が多いのか少ないのか、判断に困るが、社科実情データ図録という便利なサイトがあり、ここのヨーロッパの超長期人口推移というところから引っ張ってくると、十字軍のころのヨーロッパがおおむね4000万人ぐらいだったらしい。
ただし、この世界の設定は、地球でいえば近世に入る直前から15世紀初期ぐらいを想定しているので、ペスト大流行(14世紀半ば)前のヨーロッパの人口が7000万人だったことを考えると、半数以下である。ちと少なめというところか。
しかし、この世界は150年ほど前に世界規模の大戦争を演じており、その際に人口が激減していてもおかしくないので、まぁ良いとする。
次に所得水準を設定する。
まず、農民、兵士、徒弟、貧乏な聖職者などの貧乏人、つまり平均的な人間1世帯が1日の生活に必要なカネ(というかモノを含めた価値)は、この世界の通貨で100ラートとしている。これは銀貨1枚で、無理やり現代日本円に直すと、5000円となる。無理やりと断ったのは、前近代社会と近代社会とでは、食糧のような消費財と、家具や服のような耐久消費財、武器や奢侈品などで、ずいぶんと価値が異なるためである。
ちなみに1ラートの価値は、消費財なら50円、耐久消費財なら100円、武器や奢侈品は200円で換算している。
富農、店を持つ商人、正規の職人、将校、ある程度まともな教会の司祭などが中所得層となる。彼らが自分の身分を保つために必要とする消費を行うには、200ラートを必要とする。日本円に換算する場合は100円のレートを使い、20000円と考える。
今でもある程度そうだが、ある社会階層であることを社会的に認知させるには、一定の服装や装飾品、食事や住居を持つことが要請される。ひとは他人の外見を見て、その人物を判断するのである。
で、貴族や大商人、将軍(普通は貴族と同じ意味)、高位聖職者などは、400ラート以上を必要とする。日本円に換算する場合は200円のレートを用い、80000円と考える。もちろん、上級貴族や王族となるとまた別になるが、それは措く。
で、次は税率。これは直接税と間接税の問題、階層状に形成されている各領主の取り分、教会の取り分など、かなり複雑に構成されている。
ここでは単純に、直接税のみを考えるものとし、最上位(王や皇帝。ホルニッセ帝国のみは例外で選帝卿)の取り分が10%、教会が10%、所属領主が30%とする。この数値が地球の史実に照らし合わせて妥当なのか判断が付きかねるが、5公5民なら少ないような気もする。まぁ、ここに出てくる数字以外の収入や収奪があり、そこで帳尻を付けているものとしておこう。
さて、以上の設定によれば、ホルニッセ帝国のある農民が100ラート払う場合、10ラートは選帝卿、10ラートは教会、30ラートは領主の騎士に払う。
ここで、人口100人(20世帯)の小さな村を考えよう。
騎士は、20×30ラートを得ることになるが、彼もまた収入の30パーセントを上級領主たる男爵に支払わねばならない。つまり、600ラートのうち180ラートを支払い、420ラートが手元に残る計算になる。まぁ、高貴なる身分の人間に必要な支出は、かろうじて賄えそうである。
ちょと話が脇に逸れるが、これは騎士ひとりを捻出するのに必要な最低規模をも示している。D&Dのゲーム設定では、人口20~80(4~16世帯)を集落としているが、この規模では騎士を養えないわけである。騎士ひとりを養うには100人の人口が必要である。
この数字が妥当なのかどうか、判断する材料を持ち合わせていない。そもそも、その世界における軍制(騎士の軍事的位置づけ)によって変化が出るし、当然、それを支える経済力が問題となる。貧乏人100人よりは豊かな100人の方が、養える騎士数の多いことは自明である。
ま、そういうわけで、この数字はこの世界の便宜上のものとする。この世界は比較的裕福な設定にしてあるので、この程度なら養えるだろう。
さて話を戻そう。420ラートを得た騎士だが、彼は領民のように選帝卿や教会に対して収入の10%を支払う必要があるのだろうか。
騎士が教会や王(選帝卿)に納税する義務があるのかというと、ここは微妙だ。王権や教会権の大きさや歴史的経緯に左右される。とりあえず、グランビルの諸国家では、王権は今ひとつ強くなく(少なくともホルニッセ帝国の皇帝の財政上の権力は弱い)、また教会も中世ヨーロッパのキリスト教会ほどには強くないと考えておき、騎士には納税の義務はないものとしておく。このあたりは変えるかも知れないが。
なお、仮に10%を教会に支払うとした場合、この騎士の収入は420-30=390ラートとなり、騎士身分を維持できなくなることになる。税率を上げるか、騎士を養うに足る村の規模を大きくするしかないということになるわけだ。
騎士は、180ラートを男爵に支払う。
男爵領の平均人口はどうなるのだろうか。
これも舞台によって大きく変わるのだが、かつてゲームで用いた設定で、レジオス子爵領という領土を設定した。ここはかなり裕福な領地で、4つの連隊を有しているとしている。連隊長は男爵相当(軍制については長くなるので説明しない)なので、4人の男爵がいてもいい勘定になる(実際にはひとりしかいないのだが、それも措く)。
レジオス子爵領の人口は約20万人である。つまり、男爵領ひとつあたり5万人の領民がいる計算になる。騎士数に直せば500人である。まぁ、実際にそんなに騎士がいるとは思えないが。
仮にそのまま計算を進めれば、500人の騎士が180ラートを支払えば、9万ラートとなる。うち30%の2.7万ラートは子爵に送られる。
子爵は2.7万×4と行きたいが、実際には子爵は男爵領ひとつを直轄地に持っているので、2.7万×3+9万で17.1万ラートの収入となる。
子爵の次は伯爵だが、ホルニッセ帝国においては、選帝卿に組み込まれている伯爵は子爵とほぼ同じ扱い(格だけは上)なので、この上は選帝卿(侯爵と公爵の差はない。これについても措く)になる。
レジオス子爵の上位は、オラーニュ選帝卿である。オラーニュ選帝卿の下には、レジオス子爵領以外に3つの子爵・伯爵領と、直轄領がある。つまり5つの領土があるわけである。仮にこの基準を当てはめるとしたら、17.1万ラートの収入を得た子爵は、30%の5.1万ラートを選帝卿に納めるので、選帝卿の収入は、5.1万×4+17.1万=37.5万ラート。
この計算は、一日あたりの収入なので、歳入を計算してみると、1.4億ラート。日本円換算で70億円。
これに加え、選帝卿は民が直接払う10%税を得る。このモデルにおける人口は、20万×6で120万人となっているので、ひとり10ラート支払うわけだから、一日あたり1200万ラート。一年では43.2億ラートとなる。手下の諸侯や騎士からの揚がりなんて目じゃないね。
ちなみに日本円で4320億円。あまり意味のある比較ではないが、Wikipediaによると、2005年の大分県の人口がだいたい120万人である。で、大分県の予算規模は、5904億円(2009年度)。
本当なら15世紀初頭頃のヨーロッパで、人口120万人ほどの王国の予算規模を知りたいのだが、まぁ無理だろう。
こんな感じでデータを作っていると、他にも色々と想像を巡らせられる。
例えば、オラーニュ選帝卿領の常備兵力は、120万人の人口に対して12000人の騎士として表せる。これはプファルツやピエモンテなど、他の選帝卿家でも同じ事。
が、オラーニュは歩兵を重視しており、騎士ひとりに対して歩兵が約10人程度就く。つまり、騎兵1.2万と歩兵12万人をさほど無理なく動員できると設定できるわけである。
プファルツは騎士を重視しており、騎士ひとりに対して、従騎士ひとり、歩兵4人が就く。つまり、騎兵2.4万と歩兵4.8万を動員できる。プファルツの方が強いのではないかと思うところだが(いや、実際帝国最強としているが)、プファルツの歩兵はオラーニュのそれほど高い戦闘力を持っていない。これは個人戦闘能力の問題ではなく、軍制上、プファルツは歩兵を重視していないためである。オラーニュは歩兵を重視しており、弓兵として使えるよう訓練しているため、総合戦闘力としては、さほどプファルツに劣るわけではないということになる。
で、ピエモンテは騎士ひとりに対して歩兵が2人ほどしか就かない。つまり騎兵1.2万と歩兵2.4万。しかもこの歩兵はプファルツのそれ同様、騎士の護衛となる従卒として使われるので、オラーニュのそれほどの戦闘能力を持たない。
それではダメなのでは? となるが、ピエモンテはその分のカネを平時は経済活動に投じ、有事には傭兵を雇用することで賄っている。傭兵の戦闘能力は高いので、これはこれで馬鹿にならない。他の諸侯も傭兵は使うのだが、ピエモンテとは異なり、補完的に用いている。
このようにして各諸侯を個性付けていくわけである。なかなか楽しいのだが、面倒くさいのもまた事実。
これに、教会組織をどうのこうのとか、間接税や商人たちの資本移動なんかを考え出すと、面白くはあるのだが時間がいくらあっても足りないので、とりあえずこんなところとしておく。
2011年1月27日木曜日
睦月廿七日
さて、研究の方だが、あまり芳しくない。
行き詰まっていると言うよりは、単に時間をかけてやっていないというだけのことである。
思うに、一日2時間程度の割合でデジタライズ作業を続けており、これがよろしくない。
確かにそれなりの成果は出ており、現在で単行本400冊、雑誌100冊を片付けている。
スキャナを導入したのが11月上旬。いまで約3ヶ月弱経っているわけである。
つまり、一日平均5.5冊の割合で処理していることになる。一回に処理する冊数は、基本的に10冊なので、おおむね隔日作業を行っている計算になる。
で、デジタライズ作業は、それなりに神経を消耗させる。古い本だと、ダブルフィードがやたら多いのだ。
古い本は、経年劣化か本の上に本を積み上げすぎたからか、本のてっぺん部分がギザギザになってしまっており、そのためきっちりと紙送りが為されないのが原因である。
もうひとつの原因は、紙送りを重力に頼っているため、デフォルトの状態だと急角度過ぎて二枚目が送られやすくなっていることにある。
対策としては、ひとつめについては、本を裁断する際に天の部分を2mm程度切っておくことがある程度有効である。結構忘れてたり、また一見したところ綺麗な天になっているため、大丈夫だろうと思っていた本が実はダメだったりするということもあるので、油断が出来ない。
ふたつめについては、台を作ろうかと思っている。30度程度の角度を持つ台を噛ませておけば、紙送り側はほぼ水平になる。これがどの程度効果があるのかは不明だが、足下に本を挟んで軽く角度を付けるだけでも、それなりに効果があるらしいので、やはり意味はあるはずである。
とまぁ、こんな感じで現時点では結構気を使う。気を使うと漢文などと向き合う気にはなれなくなる。MPを消費するのだよ。
が、やる気を削られていた理由のひとつが年末年始の多忙にあったことは確かなのだから、2月と3月は比較的気合いを入れられるかも知れない。というか、この時期に進められないと、今年中に一本発表するという目標を達成できなくなってしまう。
というか、実の所、今年は無理かも知れないと思っている。
やはりこれまで慣れてきた広東というステージから中国全土にまで風呂敷を広げると、方法論は同じであっても、かなりの情報をこなさなければならなくなる。
まぁ、所詮は作業なのだが、作業をこなすには根性(MP)が必要なので、その根性に不足する現在は、あまり宜しくない。
かといって、本の裁断を止めるのも気が引ける。
作業を続けていて思ったのだが、部屋が少しずつ片付いていくにつれ、頭がまともに働くような気がしてきたのだ。かなりの部分までは気のせいなのだが、確かに論文や史料を発掘するのに一苦労という状態では、精神衛生に悪い。もう少し部屋のスペースと精神衛生状態の改善を図る必要は、確かにある。
差しあたりは上手く両立させてくださいとしか言えないのが残念なところ。まぁ、工夫の建て方は見えてきているので、もう少し頑張ることにしよう。
行き詰まっていると言うよりは、単に時間をかけてやっていないというだけのことである。
思うに、一日2時間程度の割合でデジタライズ作業を続けており、これがよろしくない。
確かにそれなりの成果は出ており、現在で単行本400冊、雑誌100冊を片付けている。
スキャナを導入したのが11月上旬。いまで約3ヶ月弱経っているわけである。
つまり、一日平均5.5冊の割合で処理していることになる。一回に処理する冊数は、基本的に10冊なので、おおむね隔日作業を行っている計算になる。
で、デジタライズ作業は、それなりに神経を消耗させる。古い本だと、ダブルフィードがやたら多いのだ。
古い本は、経年劣化か本の上に本を積み上げすぎたからか、本のてっぺん部分がギザギザになってしまっており、そのためきっちりと紙送りが為されないのが原因である。
もうひとつの原因は、紙送りを重力に頼っているため、デフォルトの状態だと急角度過ぎて二枚目が送られやすくなっていることにある。
対策としては、ひとつめについては、本を裁断する際に天の部分を2mm程度切っておくことがある程度有効である。結構忘れてたり、また一見したところ綺麗な天になっているため、大丈夫だろうと思っていた本が実はダメだったりするということもあるので、油断が出来ない。
ふたつめについては、台を作ろうかと思っている。30度程度の角度を持つ台を噛ませておけば、紙送り側はほぼ水平になる。これがどの程度効果があるのかは不明だが、足下に本を挟んで軽く角度を付けるだけでも、それなりに効果があるらしいので、やはり意味はあるはずである。
とまぁ、こんな感じで現時点では結構気を使う。気を使うと漢文などと向き合う気にはなれなくなる。MPを消費するのだよ。
が、やる気を削られていた理由のひとつが年末年始の多忙にあったことは確かなのだから、2月と3月は比較的気合いを入れられるかも知れない。というか、この時期に進められないと、今年中に一本発表するという目標を達成できなくなってしまう。
というか、実の所、今年は無理かも知れないと思っている。
やはりこれまで慣れてきた広東というステージから中国全土にまで風呂敷を広げると、方法論は同じであっても、かなりの情報をこなさなければならなくなる。
まぁ、所詮は作業なのだが、作業をこなすには根性(MP)が必要なので、その根性に不足する現在は、あまり宜しくない。
かといって、本の裁断を止めるのも気が引ける。
作業を続けていて思ったのだが、部屋が少しずつ片付いていくにつれ、頭がまともに働くような気がしてきたのだ。かなりの部分までは気のせいなのだが、確かに論文や史料を発掘するのに一苦労という状態では、精神衛生に悪い。もう少し部屋のスペースと精神衛生状態の改善を図る必要は、確かにある。
差しあたりは上手く両立させてくださいとしか言えないのが残念なところ。まぁ、工夫の建て方は見えてきているので、もう少し頑張ることにしよう。
2011年1月25日火曜日
睦月廿五日
一昨年、鳩山由紀夫が首相になった時、僕は彼に対して何の期待もしていなかった。
結果は見ての通りで、近代日本政治史上、指折りの無能宰相として辞任した。
僕が彼に対して期待していなかった理由は、彼が民主党の幹事長など要職を務めていた間に、何の実績も挙げられなかったなかったためである。
こと首相になってからの彼の評価としては、「悪い意味での理想家」ということになろうか。
理想を語るのは、トップとして大いに結構なのだが、現実を見ず、また現実へのすり合わせを行おうともせず、宰相としての権力の身を行使しようとすると、酷いことになる。
どう考えてもバカではなかろうかとしか思えないのだが、これでも東大出でスタンフォードでPh.D.を取っている。専攻はORだそうで。最近、リポジトリ関係の仕事をやっていて、政治における意思決定などを対象とするゲーム理論関係の論文を見ると、微苦笑をぬぐえない。
つまるところ、自分の知識や才覚を、現実に適用できない人物ということだろう。そうした点については僕自身も大きな口は叩けないが、個人が自分の能力をどう扱おうと自由だが、公人がそれをやるとシャレにならないことがある。そういうことだと思う。
菅直人については、評価すべき実績としては厚生省の薬害事件があるが、これはトップとして組織をまとめ、成果を出させるという本道からそれた、壊し屋としての業績である。それはそれでおろそかにはできないが、これだけが業績となると、能力の方はどうだろう。やはり民主党のトップとしては、大した結果を残せていないし。
そう思いつつ、ここ一年ほど眺めてきたわけだが、ある程度の評価が定まってきた。
つまり、「悪い意味での現実主義者」である。
その時その時の風を読んで妥協を行い、現実とすり合わせて結果を出そうとするわけだが、大きな目標を定める理想というものがないため、まったく腰が据わらない。文字通り右往左往して、まったく進んでいないどころか後ろに下がっているんじゃないかと思えてくることもある。
そうしたわけで、鳩山とは違った意味でバカにされるわけである。妥協というものは、それを行った人物の評価を少しばかり押し下げる。普通は妥協を行ったことで獲得した成果により、下がった以上の評価を獲るわけだが、成果が出ていないのでは仕方がない。
チャーチルは、優秀な政治家に必要なものとして、「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、なぜそうならなかったのかを説明する能力」とを挙げたそうな。
確かに大事なことだと思う。自民党の公約にせよ民主党のマニュフェストにせよ、実現するものは多くはない。単純に力不足で為し得なかったものから、現実を直視するととてもきれいごとを言っていられなくなった(かつての社会党が陥った状況だ)ことまで、さまざまである。
問題は、なぜそれを実現できなかったかを説明し、その代案を提示することであろう。
僕が見る限り、民主党政権になってからもっとも欠けているのがこの点だ。
例えば福祉問題などは、「少ない税で多い福祉」というのが国民の要望だ。低成長の社会においては、言うまでもなく実現不可能な話である。「少ない税で少ない福祉」(小さい政治)か「多い税で多い福祉」(大きい政治)のどちらかしかあり得ない。(「中ぐらいの税で中ぐらいの福祉」というのも可能性としては挙げ得るが、議論を進めるのに何のメリットもないので捨象する。小さい政治だろうが大きい政治だろうが、実現する際には一定の妥協が行われ、ある程度は「中ぐらい」になるためだ)
どちらかを選べといわれ、ここ数年の大きな流れは、「大きい福祉」のためには「大きい税」(消費税増税)もやむを得ないという方向に流れつつあるようだ。
ならば増税すればいいわけだが、民主党は増税はしない、もしくは政治から無駄を削った上で行うと主張した。それが例えば「仕分け」や「埋蔵金発掘」として現れたわけである。
少し考えれば、仕分けで幾ばくかの無駄を省いたところで、消費税を数倍にするだけの効果を見込めるわけがないということぐらい、わかりそうなものである。まして、使えば減るだけの埋蔵金から、経常的に必要とされる福祉予算を割り当てられるわけもあるまい。
が、そうした行為は政治的には意味があったと僕は考えている。財政的には無意味だが、国民に対して、「我々はこうも頑張っているのです」というパフォーマンスを行うことは、将来的には行わざるを得ない増税という不人気な政治的アクションを行うのに、少しでも抵抗を減らす程度の効果は見込めるためだ。要するに、エクスキューズを作るためというわけである。
で、仕分けや埋蔵金では、やはり福祉予算は出ない。マニュフェストは実施できないわけだが、そこで国民に対して頭を下げ、「すみません。色々やってみましたが、やはりお金が足りません。今後も政治から無駄遣いを減らすべく努力を続けはしますが、どうしても必要な分だけは増税させてください」と訴えかける(他にも色々な政治的術策は弄するべきだろうが、そこは専門家に任せるべきだろう)。
で、増税を行う。その評価は次の選挙結果となって現れる。
と、政治には素人の僕なんかはそうするものだと思うわけだが、どうも菅首相の動きをみていると、仕分けや埋蔵金で何とかなると本気で思っていたのか、あるいは他に理由があるのか、そのままごり押しで増税しようとしているようだ。
党内は小沢問題で混乱中。野党との協議も、妥協に必要な材料を示さないのだから成立するめどは立たず、国民に対して頭を下げるという政治的レトリックすら行わない。
これでどうするつもりなんだろうか?
妥協に妥協を重ねれば、当座の問題は回避できるかもしれないが、その場合、おそらくほとんど成果を残さないことになる。で、妥協を行った相手以外からの不満は確実に高まる。
それこそゲーム理論の世界の話だが、いま菅が採っている政治的戦術方針をそのまま続けると、ほとんど点数を得ることなく、他のプレイヤーからの不満ばかり買うことになる。
冗談抜きで三月総辞職になりかねない。総選挙はとても行える状態じゃないから、自民党政権末期みたいな状態がさらに続くことになる。
他人事だったら笑える話だが、一応僕も日本というチームのプレイヤーの一人であり、他人事じゃないので笑えない。
どうなるのかねぇ。
結果は見ての通りで、近代日本政治史上、指折りの無能宰相として辞任した。
僕が彼に対して期待していなかった理由は、彼が民主党の幹事長など要職を務めていた間に、何の実績も挙げられなかったなかったためである。
こと首相になってからの彼の評価としては、「悪い意味での理想家」ということになろうか。
理想を語るのは、トップとして大いに結構なのだが、現実を見ず、また現実へのすり合わせを行おうともせず、宰相としての権力の身を行使しようとすると、酷いことになる。
どう考えてもバカではなかろうかとしか思えないのだが、これでも東大出でスタンフォードでPh.D.を取っている。専攻はORだそうで。最近、リポジトリ関係の仕事をやっていて、政治における意思決定などを対象とするゲーム理論関係の論文を見ると、微苦笑をぬぐえない。
つまるところ、自分の知識や才覚を、現実に適用できない人物ということだろう。そうした点については僕自身も大きな口は叩けないが、個人が自分の能力をどう扱おうと自由だが、公人がそれをやるとシャレにならないことがある。そういうことだと思う。
菅直人については、評価すべき実績としては厚生省の薬害事件があるが、これはトップとして組織をまとめ、成果を出させるという本道からそれた、壊し屋としての業績である。それはそれでおろそかにはできないが、これだけが業績となると、能力の方はどうだろう。やはり民主党のトップとしては、大した結果を残せていないし。
そう思いつつ、ここ一年ほど眺めてきたわけだが、ある程度の評価が定まってきた。
つまり、「悪い意味での現実主義者」である。
その時その時の風を読んで妥協を行い、現実とすり合わせて結果を出そうとするわけだが、大きな目標を定める理想というものがないため、まったく腰が据わらない。文字通り右往左往して、まったく進んでいないどころか後ろに下がっているんじゃないかと思えてくることもある。
そうしたわけで、鳩山とは違った意味でバカにされるわけである。妥協というものは、それを行った人物の評価を少しばかり押し下げる。普通は妥協を行ったことで獲得した成果により、下がった以上の評価を獲るわけだが、成果が出ていないのでは仕方がない。
チャーチルは、優秀な政治家に必要なものとして、「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、なぜそうならなかったのかを説明する能力」とを挙げたそうな。
確かに大事なことだと思う。自民党の公約にせよ民主党のマニュフェストにせよ、実現するものは多くはない。単純に力不足で為し得なかったものから、現実を直視するととてもきれいごとを言っていられなくなった(かつての社会党が陥った状況だ)ことまで、さまざまである。
問題は、なぜそれを実現できなかったかを説明し、その代案を提示することであろう。
僕が見る限り、民主党政権になってからもっとも欠けているのがこの点だ。
例えば福祉問題などは、「少ない税で多い福祉」というのが国民の要望だ。低成長の社会においては、言うまでもなく実現不可能な話である。「少ない税で少ない福祉」(小さい政治)か「多い税で多い福祉」(大きい政治)のどちらかしかあり得ない。(「中ぐらいの税で中ぐらいの福祉」というのも可能性としては挙げ得るが、議論を進めるのに何のメリットもないので捨象する。小さい政治だろうが大きい政治だろうが、実現する際には一定の妥協が行われ、ある程度は「中ぐらい」になるためだ)
どちらかを選べといわれ、ここ数年の大きな流れは、「大きい福祉」のためには「大きい税」(消費税増税)もやむを得ないという方向に流れつつあるようだ。
ならば増税すればいいわけだが、民主党は増税はしない、もしくは政治から無駄を削った上で行うと主張した。それが例えば「仕分け」や「埋蔵金発掘」として現れたわけである。
少し考えれば、仕分けで幾ばくかの無駄を省いたところで、消費税を数倍にするだけの効果を見込めるわけがないということぐらい、わかりそうなものである。まして、使えば減るだけの埋蔵金から、経常的に必要とされる福祉予算を割り当てられるわけもあるまい。
が、そうした行為は政治的には意味があったと僕は考えている。財政的には無意味だが、国民に対して、「我々はこうも頑張っているのです」というパフォーマンスを行うことは、将来的には行わざるを得ない増税という不人気な政治的アクションを行うのに、少しでも抵抗を減らす程度の効果は見込めるためだ。要するに、エクスキューズを作るためというわけである。
で、仕分けや埋蔵金では、やはり福祉予算は出ない。マニュフェストは実施できないわけだが、そこで国民に対して頭を下げ、「すみません。色々やってみましたが、やはりお金が足りません。今後も政治から無駄遣いを減らすべく努力を続けはしますが、どうしても必要な分だけは増税させてください」と訴えかける(他にも色々な政治的術策は弄するべきだろうが、そこは専門家に任せるべきだろう)。
で、増税を行う。その評価は次の選挙結果となって現れる。
と、政治には素人の僕なんかはそうするものだと思うわけだが、どうも菅首相の動きをみていると、仕分けや埋蔵金で何とかなると本気で思っていたのか、あるいは他に理由があるのか、そのままごり押しで増税しようとしているようだ。
党内は小沢問題で混乱中。野党との協議も、妥協に必要な材料を示さないのだから成立するめどは立たず、国民に対して頭を下げるという政治的レトリックすら行わない。
これでどうするつもりなんだろうか?
妥協に妥協を重ねれば、当座の問題は回避できるかもしれないが、その場合、おそらくほとんど成果を残さないことになる。で、妥協を行った相手以外からの不満は確実に高まる。
それこそゲーム理論の世界の話だが、いま菅が採っている政治的戦術方針をそのまま続けると、ほとんど点数を得ることなく、他のプレイヤーからの不満ばかり買うことになる。
冗談抜きで三月総辞職になりかねない。総選挙はとても行える状態じゃないから、自民党政権末期みたいな状態がさらに続くことになる。
他人事だったら笑える話だが、一応僕も日本というチームのプレイヤーの一人であり、他人事じゃないので笑えない。
どうなるのかねぇ。
2011年1月22日土曜日
睦月廿四日
久々に読書感想文。
鷲田小彌太『あの哲学者にでも聞いてみるか――ニートや自殺は悪いことなのか』祥伝社、2007.12
哲学にはトンと関心がなかった。今もない。philosophyの字義どおり、思考活動そのものを目的とする学問というのが、現実とどう接点を持つのか、理解できなかったからだ。
僕がやっている歴史学というヤツも、現実との接点の薄さは似たようなものかもしれないが、少なくとも僕が心がけているのは「今のこの世界は、どうして成立したのか」という問題意識を抱き、それを踏まえて研究をしようとしている。いやまぁ、その問題意識と研究とがどう接点を持てているのかとなると、また別の問題であると言葉を濁さざるを得ないわけだが。
閑話休題。この本は、サブタイトル通り、ニートや自殺をはじめとした今日的問題について、歴史上の哲学者に仮託して答えるというものである。いわゆる「なりきり」ものだ。
これが結構面白い。仕事人間であることの是非をマルクスに問う章では、マルクスが憤怒しながら答えて問答になっていないし、援助交際についてソクラテスに問う章では、「ああいえばこういう」式の議論で質問者をかえって悩ませるしと、こちらがステレオタイプに抱いている哲学者のキャラをうまく掴んで、かつそれなりに考えさせるようになっている。必ずしも結論を出さないのは、こうした問題には結論が簡単には出るものではなく、個々人の考えがその人にとっての(当座の)結論であるという観点から、この本が書かれているためだ。
大事なのは答えを出すことではなく、考えを深めることであるというのが哲学なのであれば、なるほど哲学にも価値があると思わせる内容だった。
最近はこうした本が結構増えている気がする。既存の学問が、その存在価値を問われるようになってきたが、それに対する応えの表れということだろう。
歴史学でそういう本を書く人は……あまりいないなぁ。
昔、W先生が、司馬遼太郎の著す歴史と、歴史学者の著す歴史について述べたことがあった。歴史畑の人間も含めて、誰もが司馬遼太郎の本の方が面白く感じて、歴史書を読まないというわけだ。ゆえに歴史家としては、司馬遼太郎の本よりも面白い歴史書(もしくは歴史小説)を書くべきだということになるわけだが、現実については言うまでもあるまい。ままならんものである。
鷲田小彌太『あの哲学者にでも聞いてみるか――ニートや自殺は悪いことなのか』祥伝社、2007.12
哲学にはトンと関心がなかった。今もない。philosophyの字義どおり、思考活動そのものを目的とする学問というのが、現実とどう接点を持つのか、理解できなかったからだ。
僕がやっている歴史学というヤツも、現実との接点の薄さは似たようなものかもしれないが、少なくとも僕が心がけているのは「今のこの世界は、どうして成立したのか」という問題意識を抱き、それを踏まえて研究をしようとしている。いやまぁ、その問題意識と研究とがどう接点を持てているのかとなると、また別の問題であると言葉を濁さざるを得ないわけだが。
閑話休題。この本は、サブタイトル通り、ニートや自殺をはじめとした今日的問題について、歴史上の哲学者に仮託して答えるというものである。いわゆる「なりきり」ものだ。
これが結構面白い。仕事人間であることの是非をマルクスに問う章では、マルクスが憤怒しながら答えて問答になっていないし、援助交際についてソクラテスに問う章では、「ああいえばこういう」式の議論で質問者をかえって悩ませるしと、こちらがステレオタイプに抱いている哲学者のキャラをうまく掴んで、かつそれなりに考えさせるようになっている。必ずしも結論を出さないのは、こうした問題には結論が簡単には出るものではなく、個々人の考えがその人にとっての(当座の)結論であるという観点から、この本が書かれているためだ。
大事なのは答えを出すことではなく、考えを深めることであるというのが哲学なのであれば、なるほど哲学にも価値があると思わせる内容だった。
最近はこうした本が結構増えている気がする。既存の学問が、その存在価値を問われるようになってきたが、それに対する応えの表れということだろう。
歴史学でそういう本を書く人は……あまりいないなぁ。
昔、W先生が、司馬遼太郎の著す歴史と、歴史学者の著す歴史について述べたことがあった。歴史畑の人間も含めて、誰もが司馬遼太郎の本の方が面白く感じて、歴史書を読まないというわけだ。ゆえに歴史家としては、司馬遼太郎の本よりも面白い歴史書(もしくは歴史小説)を書くべきだということになるわけだが、現実については言うまでもあるまい。ままならんものである。
睦月廿三日
最近思っていることに、日本の教育システム上の問題点というものがある。
小中高ときて、大学を経て社会に出るのが、従来型の教育とされてきた。
最近では、大学院の修士課程ぐらいはここに含めていいかもしれない。
が、職業教育としては、社会に出てから、企業が行ってきたという点は見逃してはならないだろう。
社会・経済構造が変わり、近年では、企業の側で教育投資に回すべき資金がなくなってきた。少なくとも、かつてほどお金をかけなくなってきている。
もう少し具体的に書くと、教育対象を正社員(幹部候補生)に限定し、正社員の雇用数を減らすことにより、教育費の総額を抑制しているということになる。
人事部門の能力が大して高まっていないので、幹部候補生として入社する新入社員の質にばらつきがあり、教育費を投資しても大きな効果を見込めない人間がいたり(それでも幹部候補生なので一定の出世は遂げて部下を率いることになり、問題を起こすことになる)、その一方で高い潜在能力を持っているのに、非正規雇用として社会に出たがために教育を受けられず、能力を伸ばせないままの人間が出たりしているわけだが、これはとりあえず措く。
日本の大学や大学院は、実務的な能力を鍛えるという意味では非常に問題が多い。
大学で学んだことが社会に出て役に立たない例が珍しくないというのは、本来、教育機関としては問題外である。
教える側も教わる側も、さらには将来大学生を雇用する側も、それに大きな疑問を有していないというのが現状だろう。
もちろん、口ではいろいろ言っているが、何かを変えるという段階には至っていない。大学の教員や職員を観察している限りでは、負担は増えているが成果はないという感じである。
新入大学生の質が低下しているというのは事実であろうが、大学の教育能力が低いので、質が低いままで新入社員(もしくは非正規労働者)となるわけである。
先述したとおり、企業の側も教育コストを渋るため、日本全体の労働者の質が低下していくということになる。
まとめると、
① 小中高の教育水準が低下し、大学生の質が低下。
② 大学の教育能力が低いので、大学・大学院卒業生の質は①と同程度。
③ ②のうち、正社員として採用される人間(A)と非正規労働者(B)になる人間とで二分。
④ 企業からの教育を受けるのは、(A)のみ
ということになる。多くの場合、(A)と(B)との間の移動はないため、以前より質の下がった(A)と、質的向上を見込めない(B)が、日本社会を構成することになる。
そりゃまずかろう。日本最大の資源を人間だと考えるなら、日本の資源が枯渇していくということになる。
何とかならんものかなと考えてみたのだが、うまい案は少ない。というか、そんなものがあればとうの昔に実施されているだろう。歴史上、うまい案があっても実施できない例というのは無数にあるのだが、まぁそれはそれとして。
とりあえず僕の考えられる範囲では、①についてはどうにもならない。いわゆる「ゆとり教育」がうんぬんという話になるのだろうが、教育というのは学校だけがするものではない。家庭や社会による教育というのも非常に大きい。ゆえに、ゆとり教育を撤廃しただけでは解決しない。そして、家庭や社会の教育能力を高めるのは一朝一夕には不可能である。というより、今話題にしている日本の人的資源に対する教育を改善しないことには解決しない。つまり、ここから問題に取り組もうとすると、循環論法に陥ってしまう。
③と④については、それが営利団体である企業の任意である以上、やはりどうにもならない。日本の経済的活力が高く、充分な教育コストを払っても、それがペイするというのであれば話は別だが、終身雇用制が幻想上のものとなった以上、企業としてはいついなくなるか知れないような人間に対してまで教育コストを投じる理由はないはずである。(A)と(B)の連絡がないという硬直的すぎる人事システムには改善の余地があるだろうが、これとて、必要な人材を囲い込むというリスクヘッジの結果と考えるなら、企業にしてみればシステムを変える動機にはなりえないだろう。
というわけで、大学(院)教育にいきつく。
高校から上がってきた大学生は、大した勉強もせず(本人たちの認識は異なるだろうが)、四年後に卒業していく。就職の面接で必ず聞かれるであろう大学で得られたものに、就業に役立つ技能というものが挙げられないというのは、本来あり得ない話である。
アメリカ式の「入るは易いが出るのは難い」にすればいいかというと、そう簡単なものでもない。留年者や退学者を山のように出すことになる。
が、僕はそれでいいのではないかと思うようになっている。一定の能力を習得できなければ卒業させないというのは、非常に誠実だともいえる。
本人が勉強したくないのであれば、社会に出ればいい。そしてあるスキルを必要だと感じたら、その時に大学に通えばいい。
実際、僕が見ていても、社会人上がりのおじさんおばさん学生は、相対的に熱心に勉強している。大学で身につけられるスキルの価値と、自分たちが払っている金の価値を理解できているのだから、当然であろう。
ただし、これを現実のものとするには、企業側の雇用流動性が今よりも高くなければならない。雇用しようとする人間の履歴に留年や退学があっても、それをマイナスとしない評価基準が必要になるし、雇用した人間が大学に戻るために退職するということも認めなければならない。つまり、企業による教育というのは、さらに実効性が低下することになることを覚悟する必要がある。
お金の動きという点から考えると、企業が教育コストとして用意していた部分は、おそらくは国へ吸収され、個人の教育費用として奨学金なり教育機関への助成金なりに充てられることになろう。もちろん企業は抵抗するだろうが、それは政治の問題である。
また、人事制度を今よりもはるかに流動性の高いものにしろというのも、企業としては抵抗するところだろう。たぶん、お金の問題よりも抵抗は強いだろう。
が、ここを変えないと話は成立しない。また、少しずつではあるが、学歴よりも経歴の方を重視する方向へと採用基準が変わりつつある。政治に期待すべきは、この方向性を加速するということであろう。
さすがにそれを可能とするだけの政治能力が今の日本の政界や財界に在るのかというと、疑問視せざるをえない。が、こういうシステムの改革はうまくいっている時には動機が働かないし、全く駄目になった時では改革の負担に耐えられなくなる。今みたいな傾きかけた時期のみが可能なのだが……こういう時期に立て直せるだけの活力があるのだろうか?
昔であれば、「中興の祖」みたいなのがそうした仕事をするわけだが(というか、そうした仕事をしたから中興の祖になるわけだが)、今のような個人の力量が大きな影響を及ぼさない時代ではどうかな?
いや、指導者の力量というのは時代を問わずに重要なので、今であっても優れた指導者がいれば、そういう方向に持っていけるのかもしれない。あまり僕は個人の力量を重視しないのだが、それも程度問題と考えるべきであって、やはり優れたリーダーは社会を変えるのかもしれない。
小中高ときて、大学を経て社会に出るのが、従来型の教育とされてきた。
最近では、大学院の修士課程ぐらいはここに含めていいかもしれない。
が、職業教育としては、社会に出てから、企業が行ってきたという点は見逃してはならないだろう。
社会・経済構造が変わり、近年では、企業の側で教育投資に回すべき資金がなくなってきた。少なくとも、かつてほどお金をかけなくなってきている。
もう少し具体的に書くと、教育対象を正社員(幹部候補生)に限定し、正社員の雇用数を減らすことにより、教育費の総額を抑制しているということになる。
人事部門の能力が大して高まっていないので、幹部候補生として入社する新入社員の質にばらつきがあり、教育費を投資しても大きな効果を見込めない人間がいたり(それでも幹部候補生なので一定の出世は遂げて部下を率いることになり、問題を起こすことになる)、その一方で高い潜在能力を持っているのに、非正規雇用として社会に出たがために教育を受けられず、能力を伸ばせないままの人間が出たりしているわけだが、これはとりあえず措く。
日本の大学や大学院は、実務的な能力を鍛えるという意味では非常に問題が多い。
大学で学んだことが社会に出て役に立たない例が珍しくないというのは、本来、教育機関としては問題外である。
教える側も教わる側も、さらには将来大学生を雇用する側も、それに大きな疑問を有していないというのが現状だろう。
もちろん、口ではいろいろ言っているが、何かを変えるという段階には至っていない。大学の教員や職員を観察している限りでは、負担は増えているが成果はないという感じである。
新入大学生の質が低下しているというのは事実であろうが、大学の教育能力が低いので、質が低いままで新入社員(もしくは非正規労働者)となるわけである。
先述したとおり、企業の側も教育コストを渋るため、日本全体の労働者の質が低下していくということになる。
まとめると、
① 小中高の教育水準が低下し、大学生の質が低下。
② 大学の教育能力が低いので、大学・大学院卒業生の質は①と同程度。
③ ②のうち、正社員として採用される人間(A)と非正規労働者(B)になる人間とで二分。
④ 企業からの教育を受けるのは、(A)のみ
ということになる。多くの場合、(A)と(B)との間の移動はないため、以前より質の下がった(A)と、質的向上を見込めない(B)が、日本社会を構成することになる。
そりゃまずかろう。日本最大の資源を人間だと考えるなら、日本の資源が枯渇していくということになる。
何とかならんものかなと考えてみたのだが、うまい案は少ない。というか、そんなものがあればとうの昔に実施されているだろう。歴史上、うまい案があっても実施できない例というのは無数にあるのだが、まぁそれはそれとして。
とりあえず僕の考えられる範囲では、①についてはどうにもならない。いわゆる「ゆとり教育」がうんぬんという話になるのだろうが、教育というのは学校だけがするものではない。家庭や社会による教育というのも非常に大きい。ゆえに、ゆとり教育を撤廃しただけでは解決しない。そして、家庭や社会の教育能力を高めるのは一朝一夕には不可能である。というより、今話題にしている日本の人的資源に対する教育を改善しないことには解決しない。つまり、ここから問題に取り組もうとすると、循環論法に陥ってしまう。
③と④については、それが営利団体である企業の任意である以上、やはりどうにもならない。日本の経済的活力が高く、充分な教育コストを払っても、それがペイするというのであれば話は別だが、終身雇用制が幻想上のものとなった以上、企業としてはいついなくなるか知れないような人間に対してまで教育コストを投じる理由はないはずである。(A)と(B)の連絡がないという硬直的すぎる人事システムには改善の余地があるだろうが、これとて、必要な人材を囲い込むというリスクヘッジの結果と考えるなら、企業にしてみればシステムを変える動機にはなりえないだろう。
というわけで、大学(院)教育にいきつく。
高校から上がってきた大学生は、大した勉強もせず(本人たちの認識は異なるだろうが)、四年後に卒業していく。就職の面接で必ず聞かれるであろう大学で得られたものに、就業に役立つ技能というものが挙げられないというのは、本来あり得ない話である。
アメリカ式の「入るは易いが出るのは難い」にすればいいかというと、そう簡単なものでもない。留年者や退学者を山のように出すことになる。
が、僕はそれでいいのではないかと思うようになっている。一定の能力を習得できなければ卒業させないというのは、非常に誠実だともいえる。
本人が勉強したくないのであれば、社会に出ればいい。そしてあるスキルを必要だと感じたら、その時に大学に通えばいい。
実際、僕が見ていても、社会人上がりのおじさんおばさん学生は、相対的に熱心に勉強している。大学で身につけられるスキルの価値と、自分たちが払っている金の価値を理解できているのだから、当然であろう。
ただし、これを現実のものとするには、企業側の雇用流動性が今よりも高くなければならない。雇用しようとする人間の履歴に留年や退学があっても、それをマイナスとしない評価基準が必要になるし、雇用した人間が大学に戻るために退職するということも認めなければならない。つまり、企業による教育というのは、さらに実効性が低下することになることを覚悟する必要がある。
お金の動きという点から考えると、企業が教育コストとして用意していた部分は、おそらくは国へ吸収され、個人の教育費用として奨学金なり教育機関への助成金なりに充てられることになろう。もちろん企業は抵抗するだろうが、それは政治の問題である。
また、人事制度を今よりもはるかに流動性の高いものにしろというのも、企業としては抵抗するところだろう。たぶん、お金の問題よりも抵抗は強いだろう。
が、ここを変えないと話は成立しない。また、少しずつではあるが、学歴よりも経歴の方を重視する方向へと採用基準が変わりつつある。政治に期待すべきは、この方向性を加速するということであろう。
さすがにそれを可能とするだけの政治能力が今の日本の政界や財界に在るのかというと、疑問視せざるをえない。が、こういうシステムの改革はうまくいっている時には動機が働かないし、全く駄目になった時では改革の負担に耐えられなくなる。今みたいな傾きかけた時期のみが可能なのだが……こういう時期に立て直せるだけの活力があるのだろうか?
昔であれば、「中興の祖」みたいなのがそうした仕事をするわけだが(というか、そうした仕事をしたから中興の祖になるわけだが)、今のような個人の力量が大きな影響を及ぼさない時代ではどうかな?
いや、指導者の力量というのは時代を問わずに重要なので、今であっても優れた指導者がいれば、そういう方向に持っていけるのかもしれない。あまり僕は個人の力量を重視しないのだが、それも程度問題と考えるべきであって、やはり優れたリーダーは社会を変えるのかもしれない。
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